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More Eazeは、ブルックリンを拠点とするサウンドアーティスト兼マルチ・インストゥルメンタリスト、マリ・モーリスによるソロプロジェクトである。アンビエント・ポップから脱構築的なサウンド・コラージュまで多岐にわたる彼女の数多くのソロ作品やコラボレーション作品は、生活の環境音、アコースティックなオーケストレーションや楽器演奏、エレクトロニクスを織り交ぜ、冒険心あふれるテクスチャー豊かな楽曲を紡ぎ出している。 マリ・モーリスの音楽は、ありふれた日常と幽玄な世界の間をシームレスに行き来するサウンドデザインを通じて、親密さ、憧憬、そして抽象的な感情が激しい生へと変容していくというテーマを探求している。
『sentence structure in the country』は、プレイヤーとして、そして音楽的思考家としてのモア・イーズの比類なき才能を決定的に示す作品である。 このアルバムは、親しみやすいウィットと鋭い作曲センスで、演奏とコラボレーションにおける恍惚感を存分に味わい、各パッセージに優しさ、苛立ち、そして喜びを吹き込んでいる。タイトルは、ルビオの音楽制作を形作った土着の表現へのオマージュである。コルトレーンが言ったように、すべてはそれに関係している。
ルビオは伝統的なフォークやカントリーの曲でフィドルを弾きながら育った。本作『Sentence Structure in the Country』の演奏スタイルは全く異なるものだが、フォークの形式の進化に対する彼女の敬意と演奏には、そうした経験が今も色濃く息づいている。 ルビオの制作方針を形作ったのは、厳選された共演者たちだった。
エレクトリック・ギター、ピアノ、ボーカルを担当するウェンディ・アイゼンバーグ、エレクトリック・ギターのヘンリー・アーネスト、チェロのアリス・ゲルラック、アコースティック・ギターのジェイド・グーターマン、そしてドラムのライアン・ソーヤー。
ルビオは、共演者たちがどのようにしてアルバムのサウンドを形作っていったかを次のように説明する。
「ジェイドやウェンディがコードを奏でる方法は、この文脈では私が弾くのとは異なるものもあるけれど、それこそが重要な点なの。彼女たちの演奏は、私が作り出しているものを再定義するだけでなく、私自身を定義する手助けもしてくれるの」
ソーヤーのドラムは「distance」や「biters」といった曲で、ダイナミックな波のように跳ね回り、クレッシェンドを奏でる一方、ゲルラックのチェロは、タイトルトラックの歪んだホーダウンに切迫したメロディーを吹き込んでいる。
フリーフォームな「crunch the numbers」は、アーネストの和声進行によって、意外なほど穏やかなロマンティシズムへと転じる。「the producer」のような楽曲では、貢献者、プロデューサー、作曲家の境界線をまたぐ、広大なアートワールドにおける自身の立場について思索を深めつつ、ルビオは一歩引いて繊細なポップ・ソングの各要素を際立たせることで、その手腕を披露している。
『sentence structure in the country』は、こうした数々の気づきや視点、そして経験を通じて得られた言葉を、新たな文脈で用いることに焦点を当てている。音楽性は数年にわたって進化を遂げた。それぞれのバージョンは、ルビオのパフォーマンスの文脈と、彼女が共演者として選んだミュージシャンたち双方の影響を受けている。テンポの変化を伴いながら、楽曲の構造は、ルビオが楽曲が向かおうとする方向に従う中で、レコーディングされたアレンジへと発展していった。
楽曲自体はルビオ自身の変遷によって新たな形を帯びていった。全米を横断する引っ越しや、仕事、人間関係の変化によって彼女の視点は変わり、個人的にも音楽的にも、新たな視点が創造的な探求の豊かな土壌となった。ルビオがこの作品について語る言葉には、個人的な側面と音楽的な側面が共存している。
「大きな変化に直面している最中は向き合うのが難しいので、事後にじっくりと振り返り、それを乗り越えていく必要がある」という個人的な側面と、 「素材の核心や、それが私に伝えようとしていることを手放すことはできなかった」
様々な編成で演奏することで、楽曲の真の核となる要素を見極めることができ、そうして曲もまた独自の生命を宿すようになった。それはフィードバックループのようなものだ。演奏を続けるにつれ、その楽曲がどのようなものになり得るかという先例が築かれていく」
『sentence structure in the country』は、それぞれが美しく具現化された、完結した世界である楽曲の集大成だ。ルビオの巧みで品のあるアレンジは、自己陶酔的な感覚を一切排しつつ、彼女の影響源や執拗なまでの関心を驚くべき整合性をもって露わにしている。
彼女の音楽は、豊かな作曲や装飾的な華やかさだけでなく、余白のあるミニマルな美しさの瞬間にも密度を宿している。『sentence structure in the country』は、深く心を揺さぶる不朽の楽曲を核に、幽玄なエレクトロニクスと土の香るアコースティックサウンドが織りなす、質感の驚異であり、モザイクのような作品だ。
more eaze 『sentence structure in the country』 Thrill Jocky/HEADZ(JP)
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この数週間は保守的な音楽性に準じたリリースが相次いでいたが、マリ・モーリスのプロジェクト、more eazeの最新アルバム『sentence structure in the country』はその限りではない。結果的に一週間で''手のひら返し''をすることになった。
もっとも、モーリスが現在、ブルックリンを拠点に活動するとはいえ、テキサス、あるいは西海岸や東海岸と活動拠点を次々と変更していることを考えると、必ずしも一地域に根ざしたアーティストとは言いがたい。こういった多趣味な側面は、このアルバムを聴く上での重要なポイントとなってくるかもしれません。また、モア・イーズは、昨年、Claire Rouseyとのコラボレーションを行っていることからも分かる通り、アメリカの実験音楽やアートポップシーンの旗手とも言えるポジジョンに属する。また、その活動もまた、ソロ活動ではありながら、バンド単位での録音を行うというように、必ずしもソロという一面に絞られるものでもないでしょう。
マリ・モーリスは、聞くところによると、大学か大学院でミュージックコンクレートを学習しており、これらの現代音楽に関する蓄積を活かし、シンセサイザーの信号をマニュピレートした素材を取り入れ、また、学生時代に夢中になったというフォークミュージックや、ペダルスティールやフィドルの演奏を活かし、特異な音楽空間を提供する。
移り気の早さは群を抜き、最初は前衛的なエレクトロニックであった音楽性が、途中からはアヴァンフォークへと変化したりもする。ジャンルを規定しないスタイルはまた、実験音楽の再解釈から現代的なポップソングへと変遷することもある。オートチューンをてきめんに取り入れたインディーポップソングは、クレア・ルーセイのアンビエントポップのスタイルとも共鳴する場合がある。それらはアメリカで勃興した新しいアートポップの形式の一つでもあるようだ。
しかし、モア・イーズの音楽的なアプローチはどちらかと言えば、自らの持つ音楽的な蓄積をブロックのように積み上げていくような趣旨ではないらしい。 明確に言えば、マリ・モーリスの全般的なコンポジションは、脱構築主義やポストモダニズムの領域に属する。それらは、 自らの積み上げてきたものを披瀝するのではなく、むしろ明確に壊し、再構築するという趣旨である。
一般的な音楽の常識や倫理観を疑問視し、それらに問いを投げかけ、それらは本当にスタンダードであったのかを見つめ直す。おのずと、それらはアートのカットアップコラージュのような別の素材を組み合わせて、新しい何かを提供するという二次的な創作にならざるを得ない。しかし、それらはヒップホップやソウルミュージシャンが長い時間をかけて追求してきた創作性でもある。また、アヴァンギャルドジャズやフリージャズも同様でしょう。つまり、今作は、ある音楽の規定からの解放という意味合いを帯び、一般的な解釈に別の視点を付与する。しぜん、今作に触れるリスナーは今まで気づかなかった音楽的な視点を獲得することでしょう。
しかし、実験音楽というカテゴライズがなされると仮定しても、このアルバムには音楽の持つ純粋な喜びに満ちている。それは結局、制作者あるいはバンドメンバーが楽しんでいるから、その雰囲気が聞き手に伝播する。前衛主義に縁取られた電子音楽のパターンも存在するが、それとともに音楽的なポップネスも随所に見出すことが出来る。アルバムには、いくつかのオートチューンポップが登場し、難解になりがちな作風に近づきやすさや親しみやすさをもたらしている。
本作の冒頭を飾る「leave(again)」は、短いイントロダクションであり、ミュージック・コンクレートの様式を用い、ピアノ、オルガン、シンセなどを使用した現代的なポップソングに属する。マニュピレートされた電子音がモールス信号のように敷き詰められる中、ジャジーな雰囲気のムードたっぷりのボーカルが乗せられる。ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングのように全体的なトラックのキャンバスに点描される電子音、壁に絵の具が打ち付けられるような不規則なリズムパターン、ピアノの不協和音のコラージュ、ゴスペルのような雰囲気を帯びるオルガンなど、現代的な洋楽のポップソングのエッセンスをカラフルに散りばめる。
言ってみれば、ごった煮のサウンドなのだが、そのアートポップの手法には傾聴すべき何かが込められている。ボーカルは比較的落ち着いていて、内省的な雰囲気に満ちている。これらはやはり、全体的には現代的なアルトポップの音楽性を追求していることがなんとなく伝わってくる。全般的なミニマルミュージックの手法とミュージックコンクレートとポップのクロスオーバー。これぞまさに、新時代のアンディ・ウォーホールのポップアートともいうべき形式である。
脱構築主義を組み直す、再構築主義とも呼ぶべき作風は、続く「distance」でも健在である。オシレーターを用いたやレトロなシンセがアンビエントのように音像を拡大させていき、独特なドローン音楽のように見立てられるイントロ、そして、ソフトな質感を持つオートチューンのボーカルが続き、クレア・ルーセイと共鳴するような音楽性が形作られている。 ウェイブのような波打つシンセがサウンドデザインのように華麗に揺らめく、その音の波の中で、ゆったりとしたボーカル、どことなくドリームポップのような淡い雰囲気を持つボーカルが混在している。
また、ソロ作品でありながら、バンドアンサンブルも活躍し、この曲では、ジャズアンサンブルのようなスタイルが反映されている。ブレイクビーツのように不定期なリズムを刻むドラム、薄くコラージュされたギターを敷き詰めながら、精妙でクリアな音楽性が構築されている。実験音楽のアプローチを選んでいるにも関わらず、聴いていてそれほど嫌な感じがせず、それとは対象的に軽やかなエネルギーが音楽に充溢している。これらは全体的なアルバムにも一貫していて、曲の構成そのものは混沌としているが、その中から温和なエネルギーが汲み取れる。
「distance」
「bad friend」でもオートチューンを用いたエレクトロニックのポップソングが続き、この曲ではウージーな雰囲気を持つギターがボーカルと呼応しながら、穏やかな音像を描き出す。
エレクトロニック単体として聴いても前衛的な曲がある。「crunch the numbers」では、同じく波打つようなシンセサイザーが重層的に重なりあい、アトモスフェリックな音像を創り出す。全般的には、トラックメイカーとしての性質が際立ち、全体的な音のレイヤーを操作し、音を明瞭にしたり、それとは対象的に、フィルター効果で曇らせたりしながら、音の印象を変化させていく。また、アンビエント風の一曲であるが、途中では、制作者が得意とするミュージックコンクレートが登場し、ドラムやストリングの断片的な素材がパーカッシブな効果をもたらす。
どちらかと言えば、ジャズトロニカ(Jazztronica)のような音楽性に位置するが、やはりオートチューンのボーカルが登場するところを見るかぎり、ポップな印象を持つ曲に仕上げられている。このアルバム全体を聞く限り、ボーカルそのものがアンサンブルに組み込まれ、素材やマテリアルのように解釈される。これらもまた、結局、ヒップホップやネオソウルを経過した''現代的なアートポップ運動の一貫''として解釈することが出来るはずだ。音楽的な楽しみとしては、実際に''聞く''というよりも、''雰囲気に浸る''という認識の行動に近い。音階ひとつひとつを追ったり、構成的な美しさを楽しむというより、遠くでぼんやりと鳴っている音楽を感覚的に味わうという行為に属する。これらは最近のアメリカのアンビエントポップのスタイルでもある。
故に、音階の連続や規則的な拍動(リズム)は意味をなさない場合が多い。これは音楽の感覚的な側面を抽象的に表現した、「Abstract Pop(アブストラクト・ポップ)」の台頭なのである。また、前衛主義の中で、ノイズが強調されることもある。「biters」は、やはりオシレーターを活用した、水の上に浮かび上がる泡のようなモコモコしたシンセサイザーがイントロで出てくる。
それらは、まるでジャック・アタリが指摘した「社会的なノイズ」の概念を反映するかのように、楽曲全体に歪みをもたらす。その間にぽっかりあいたサイレンスから、やはりこのアルバムのシンボライズでもあるオートチューンのボーカルが登場する。
驚きに満ちたサウンドは、現代アートのような形で展開され、時間ごとに、姿を変え、また、形を変え、無形物としての音楽を作り上げる。かと思えば、曲の途中では、それらのノイズミュージックを放棄し、マンチェスターのアートポップグループ、Carolineのようなアヴァンフォークの音楽性へと接近していく。これらの先の読めないサウンド、あるいは流動的なサウンドは、そもそも音楽性を一つに規定しないという明確な意図が込められているような気がする。
アルバムは、現代的なインディーポップアルバムと思わせておいて、見事なほどにその期待を裏切る。実際は音楽における軽さと重さの二律背反や両側面を示唆するような作品となっている。また、多彩な音楽性を繰り広げ、めくるめくワンダーランドのような不思議な世界を楽しむことが出来る。アートミュージアムか、インスタレーションイベントか、遊園地なのか。どれとも言い難い奇妙な音楽世界は、現実世界とは一定の距離を取りながら、続いていく。リアリティとフィクションの間にあるような不思議な音楽がアルバムの中盤まで一貫して続いていく。
アルバムの後半には良曲が多い。その筆頭である「the producer」は、マシンビートをベースにした、bar italia風の一曲である。ロンドンのバンドの場合はロック的な質感を帯びるが、このアーティストの手にかかると、独特なエモーションに満ちたインディーポップソングに様変わりしてしまう。ローファイな雰囲気の楽曲であるが、弦楽器を追加して、ロマンティックな雰囲気を添えたり、移調するフレーズを重ねたりと、作曲としても様々な工夫が凝らされている。
これらの曲は飽くまで作曲の卓越性ではなく、音楽の純粋な楽しみに焦点が置かれている。エレクトロニックやミュージックコンクレートと並んで、モア・イーズの音楽性のもう一つの不可欠な要素、アメリカーナやフォークミュージックの影響を込めた「a chorale」は、ロマン派の作曲家の弦楽カルテットに代表されるような音楽を、フォークミュージックの通奏音やドローン音楽の視点から組み直している。そもそも、クラシック音楽ですら、民謡やフォークソングと結びつかない時代はほとんどなかったのに、現代音楽とフォークミュージックの融合というスタイルが、音楽形式として余りに過小評価されているような気がしてならない。チェロを中心として、フィドルのような楽器が重なり、クラシックとフォークの中間の音楽性が形成される。
アルバムの後半に収録されている「healing attempt」は、アメリカーナをミュージック・コンクレートから再解釈し、それらを比較的聞きやすいオルタナティヴポップソングに組み替えている。
曲の後半では、賛美歌のようなフレーズも登場するのに注目したい。同じように、このアルバムのコアの部分となるオートチューンのボーカルが出てくるが、それは作品全体の脱構築主義やポストモダニズムの音楽性の一面を示唆するに過ぎない。ここには、ベッドルームポップのようなジャンルを通過した、2020年代のポップソングの再構築主義の姿勢が示唆され、それはまた、単なるパッケージ化された商品としての音楽の意義を超えて、制作者の音楽的な記憶が、時間もなければ、場所もない、無限の意識の底を緩やかに流れていく。これらはダニエル・ロパティンの電子音楽を、インディーポップという側面から見つめなおしたような作品である。
モア・イーズは、気まぐれに弦楽器の特殊奏法を曲の中に組み込むことがある。Arvo Partの代表曲「Fratless」、Paul Gigerのようなヴァイオンの特殊奏法をフォークミュージックとして解釈したタイトル曲は、無調を中心とする楽曲編成の中で、調和的な響きを帯びることがある。同じように、ミュージックコンクレートを駆使しながら、フォーク、ポップを鋭く対比させ、異質な音楽性を作り上げる。これらは、Laurel Haloの次世代の音楽に位置づけられるかもしれない。
実験音楽の印象が強いアルバムであるが、モーリス自身のよるボーカルがこのアルバムにオルタナティヴポップの要素を添え、それがまた、ある種の癒やしのような瞬間にもなる。この最終曲でも、トレモロの弦楽器の演奏、そして反復的なシンセビートを駆使し、新時代のポップソングの型を示すことに成功している。ベッドルームポップの次に流行する音楽はあるのか? そのヒントは、クレア・ルーセイやモア・イーズのようなアーティストの作品に潜んでいる気がする。少なくとも、旧来の音楽形式にとらわれない才気煥発なアルバムとなっている。
84/100
「healing attempt」
▪more eaze 『sentence structure in the country』は本日、Thrill Jockyから発売。アルバムの視聴はこちら。日本盤の販売の詳細につきましては、HEADZの公式サイトをご覧ください。





















