レイハラカミ
ハラカミレイの特徴は、他の音楽家とは、根本的に音の作り込みが違うような気がします。普通ならこうは作らないというのをハラカミレイは難なくやってのけてしまう。鍵盤の演奏は上手ではなかったらしいですが、その短所が長所に転じ、実際には演奏しえないユニークな音楽性を形作ったのかもしれません。
レイハラカミの音楽性というのは、実際には演奏しえないという点で、独特な魅力に満ち溢れています。彼の楽曲は、一見チープなようでいて、玄人も唸らせてしまうような説得力が込められており、それは空間的な奥行きがあり、いくら聞いても飽きない深みに富んでいる。楽曲の印象自体にも電子音楽なのにもかかわらず、生きた楽器でなされているようなエモーションに富んでいて、どことなく、淡く切ないような色彩が楽曲の雰囲気にちりばめられているように思えてなりません。そしてこのアルバムには、彼自身の温和で柔らかな人柄が滲み出ているように思え、そこが何よりの美点といえましょう。
生前にハラカミさんが仰っていましたが、彼が曲の打ち込みに使っていた機材というのも、ROLANDの「SC-88pro」でした。
俗に、「ハチプロ」といわれるレトロかつシンプルなシンセサイザーを駆使していたところを見ると、作曲というのに最も欠かせないものは、やはり、作り手の創造力なんだろうなという気がします。必ずしも、高い機材とか最新鋭の機材をつかわなければ、良質な音楽を生み出せないというのは思い違いなんだよというのを、ハラカミさんはあらためて作り手に教えてくれます。
自分がすでに持っているものを、いかに創意工夫を凝らし、何らかのかたちで表現していくべきなのか”。この問いに対する答えを見出すことが、すべてのアーティストにとって避けられない宿命のようなものかもしれません。
彼の活動自体は「Rei Harakami」というプロジェクトにとどまらず、アレンジやリミックスや劇伴音楽の仕事まで及び、多岐に渡ります。
有名なところでは、くるりの「バラの花」のリミックス、ナンバーガールの「Sappukei」に収録されている「U-Rei」のリミックスの仕事などが挙げられます。
向井さんは、結構、ヒップホップとかにも造形が深く、この曲でロックとは異なるスタイルに挑戦しています。レイハラカミの独特な跳ねるようなリズムの上に、向井秀徳のヒップホップ風のボーカルがいい塩梅にマッチしていて、遊び心に溢れた楽曲となっているので、ハラカミファンにとどまらず、ナンバーガールファンも十分魅力を楽しめるリミックスとなっています。
レイハラカミ名義のプロジェクトにおいては、1998年の「Unrest」から、テクノ寄りの音楽性を、デビュー当時から追求してきました。 また、京都という土地柄も、音楽性に少なからず影響を与えているかもしれません。お寺の作庭に満ちているような落ちついた雰囲気が、彼の音楽には感じられて、もしかりに、東京の喧騒の中で作られていたら、こういう音楽性にはならなかったでしょう。
彼の紡ぎ出す音楽には、はっきりした個性こそあれど、それほど強い自己主張がなく、常に周囲との穏やかな調和を図っているため、聞き手側のいる雰囲気を重んじ、それを台無しにするようなことはなく、不思議にも、聞き手のいる空間の中に、彼の電子音楽は馴染んでいくんです。
彼の四作目となる今作、「Lust」は、レイ・ハラカミが行き着いたひとつの音楽の終着点といえる作品。この”渇望”と銘打たれたアルバムには、彼自身の他の作品には見られなかった音楽家としての「覚悟」が宿っている。
rei harakami [Lust]
それまでのキャリアで綿密に築き上げてきた音楽性を、ここでひとつ総決算をするような形で展開していったアルバムであり、世界的な他のダンスミュージック界隈のアーティストと比べても全く引けをとらない、どころか、日本的な独自の電子音楽を完成させたという点において、他の海外のアーティストより秀でていると断言しておきましょう。
表題曲、「lust」の複雑で立体的なリズムは、少し難解な曲でもありますが、イントロのハイハットのディレイから始まる抽象画の如き世界は、それまでのダンスミュージックの可能性を押し広げ、新しいレイ・ハラカミというジャンルを形作ってみせた。
ドラムのバス、タムによって、複合的なリズムが立体的に展開されていく中、その上をゆるやかに流れていくシンセリードの麗しい旋律が、楽曲自体の難解さを和らげ、て聞き手のほうにやさしく手をさしのべながら、なんともいえない甘美な世界へといざなってくれるかのようです。
そして、このアルバムの象徴的な曲ともいえる細野晴臣のカバー「owari no kisetu」は、原曲に敬意を存分に払い、元の風味をしっかりと活かしつつ、まったく風味の異なる楽曲に変身させたという点で、比するところのない名カバーでしょう。
この曲では、レイハラカミ自身がボーカルをとっていて、彼の歌唱法というのも、どことなく手探であるように思えて、頼りなさげに歌っている感もありますが、そこがむしろ愛くるしいという印象を受けます。
アルバムの終わりにかけて、”切なさ侘しさ”という、レイ・ハラカミの独特の持ち味が十分発揮されていき、聞き手はおのずと彼の電子音楽に惹きつけられ、「Approach」から「First Period」にかけては、その印象が一段と強まっていきます。
音の印象が薄くなり、リズムの規則性すらも不明瞭となり、音の空間的な意味合いを強めていき、ただ、ひたすら、おだやかな静寂が奥行きをまして拡張されていきますら、いうなれば、そこに広がっているのはモネの抽象画のような世界。
その落ち着いた音の空間の中にゆったりと身を預さえすれば、なんとも言えない上質で贅沢な時間を味わいつくせるはず。
レイ・ハラカミというアーティストは、誰もが若い頃に体験した、もしくは、体験しえなかった、淡い青春のせつないひとこまのような情感、人生の中で瞬間的ともいえる淡い輝きを、テクノという独特の音で表現してみせてくれました。
そして、ハラカミさんの紡ぎ出す電子音楽のきらめきは、必ずといっていいほど、ノスタルジックで静かな風景を聞き手の脳裏に再現させます。
他の媒体、文学、絵画、グラフィック等では、上手いように表現しえないであろう淡く切ないセンチメンタリズムを、彼独自の素朴で素敵なやり方。つまり、電子音楽という手法で見事に表してみせたという点において、レイ・ハラカミのような素晴らしいアーティストは空前絶後、世界中のどこを見渡しても存在しなかった、いうなれば、唯一無二の電子音楽家だったのかもしれません。