偉大なるシンガーソングライター Tom Waits 「Closing Time」

Tom Waits 「Closing Time」Asylum Records 1973

 

アメリカで最も偉大なシンガーのひとりとして数えられる音楽界の巨星、トム・ウェイツ。おそらく世界中を見渡しても、最も迫力があり、渋い声質を持つシンガーといってもいいでしょう。

デビューから五十年、およそ、赤ん坊が老年に入ろうかという長い年月を経ても彼の華々しい活躍というのはいまだ目覚ましく、大衆音楽にとどまらず、イギリスの現代作曲家、ギャヴィン・ブライヤーズの名作「Jesus Never Failed Me Yet」でのゲスト参加にも及んでいるため、およそ大衆音楽という括りだけでトム・ウェイツという存在を語るのは、無礼千万になりつつある。

1960-70年代のカルフォルニアの夜の街のリアルな空気感というのを、孤独な哀愁とダンディズムによって色濃く音の楽しみとして描き出したのが、このファーストアルバム「Closing Time」。 

 

この古い時代のアメリカの夜に満ちている気配が一体、どんな感じであったのか。その手がかりを求めるなら、当時の写真よりも、映画よりも、また、誰かの証言よりもはるかに、このトム・ウェイツのファースト、セカンド・アルバムを聴くほうが、当時の空気感がよりわかりやすく理解できるはず。


 このアルバムを改めて聴いてほとんど信じがたいのは、このデビュー当時、まだ、トム・ウェイツが全然無名の音楽家であり、そして、二十歳そこそこの大人か子供かという年頃の青年であったこと。

しかし、一曲目の「Ol'55」から聴こえてくるのは、二十歳そこらの青年の奏でる音楽ではないと、誰もが感じることでしょう。しっかりとした音楽の素地の上に、魂の宿った歌声を込めるのが彼の音楽の特徴のひとつです。

こういった音楽はさまざまな人種の渦巻くアメリカという土地でしか出てこない渋い音楽で、この曲を聴いて新手目て思うのは、トム・ウェイツという人物は、まるでもう何十年も音楽をやってきて、一度死んでもう一度蘇った青年が新たにこんな素晴らしい音楽を、ピアノを前に、酔いどれて、タバコを吹かしながら奏ではじめた。そんなふうにいっても全然大げさではないはず。

トム・ウェイツ自身の奏でるピアノの安定感のある伴奏に彼の度の強い酒でガラガラに枯れた ハスキーな声質が乗ってくる。

そこには、ポップス、ジャズ、ソウル、R&B,ブルーズ、もしくはモータウンあたりの古いサウンドが一緒くたに込められ、渋い味わいがありながらも、若々しさも感じられる彼の名曲のひとつ。

 

「Martha」は、カルフォルニアの真夜中のぼんやりとした雰囲気が美麗な感覚によって彩られている名曲。印象的なピアノのテーマから始まるこの曲で、彼はすでに世界をその手に収めたといっていいでしょう。

確かにボブ・ディラン的なフォーク・ロックの影響を感じさせながら、ここではゴスペル的な黒人音楽への憧憬、そして、敬意が込められており、それが彼一流の少し拠れたような歌い方によって個性づけられている。

この懐深いバラードソングは、なぜか反復的に繰り返されるピアノのリズムが真夜中の時計の針の刻む音を表現しているように思え、その中にまた彼の体感したであろう夜の街の追憶、それに対する大いなる愛によって楽曲の雰囲気が包み込まれ、あたたかな雰囲気を醸し出している。

 

「Rosie」ではカントリーウエスタンの風味のある曲で、どことなくアメリカ南部の雰囲気が醸し出されているように思えます。全曲と比べると夜の雰囲気はなりをひそめ、代わりにカルフォルニアの大地の豊穣さを寿ぐかのような美しい感情に富んでいます。ここでも安定感のあるピアノ伴奏と、とおどけるようにして歌いを込めるトム・ウェイツのキャラクターの良さが際立っている。

「Lonely」は、トム・ウェイツの夜の孤独感がそのままに表現された曲といえるかもしれません。少しチューニングのずれたピアノのアンビエンスが陶酔感に満ちていて、また、そこにウェイツがまるでピアノの音の広がりの中に歌によって、接近を図っていくような雰囲気が感じられていい味を出しています。どことなく、都会的な雰囲気を感じさせる曲で、このアルバムの中では異彩をはなっている。

「Icecream man」も、真夜中の町中に自転車でさっそうと向こうから走ってくるアイス売りを想起させるような映像的な風味のある楽曲で、このアルバムのなかでは珍しくアップテンポな楽曲。それはしかしながら、ディスコ的な雰囲気でなく、真夜中の渋い空気に充ちている。アップテンボなリズムが途絶えていき、アウトロにかけての寂しげなオルゴールの挿入は鳥肌モノといえます。

「Little Trip To Heaven」も真夜中の酔いどれて、うっとりしたときのような、あのなんともいえない雰囲気が味わい尽くせる名曲。イントロのトランペットの枯れた響きというのが、他の楽曲には感じられないジャジーな雰囲気を醸し出しています。ここでも、トム・ウェイツの歌声はあたたかみにあふれている。題名の通り、酔いどれの恍惚とした世界が美麗に描かれている。

「Grapefruits Moon」も、ジョン・レノンのようなクラシックなポップソングを通過した素晴らしい楽曲。楽節の合間に入ってくる「タンタタラララン」というピアノの装飾的な駆け下りが、ちょっとだけレノンのイマジンを彷彿させる。

ここでも彼は、一貫して囁くような、もしくは嘯くかのような感じで、オーディオの向こうにいる聴衆にボソッと語りかけるような歌い方をしています。トム・ウェイツという存在がよくわからなかった人も、ここに来て、おそらく、彼が良質で安定したバラードソングを提供する素晴らしい音楽家であると、どのようなへそ曲がり音楽愛好家も認めずにはいられなくなるはず。

アルバムの最後を飾る「Closing Time」も、彼の人生の渋みのようなものがにじみ出た名曲。終曲としては最も美しい曲のひとつ。渋いトランペットともに引き継がれていく最後のアウトロというのは、クラシック音楽のクライマックスを聴いたあとのような深い余韻に浸ることができる。。