20年代のクイア・アーティストの台頭
20年代のアーティストの生み出す音楽というのはかなり特徴的だ。まるで何十年も音楽をやってきたかのような風格があるのがこういったミュージシャン達の特質であり、素人臭さであったり、青臭さというのが彼等には全然感じられず、異質なほどのプロフェッショナル性によって裏打ちされた音楽がサブスクリプションの配信曲としてパッケージされ、一般のリスナーの元に届けられる。
なぜ、彼等彼女らは、こうもあっけなく完成度の高い音楽を、時にはティーンネイジャーの段階で、やすやすと作り上げてしまうのだろう?
考えるにその理由というのは、サブスク配信の申し子である彼等彼女らがたとえ実際の音楽遍歴が十年くらいだとしても、その情報量、蓄積量の多さが何十年もの音楽フリークにも比するものがあるからかもしれない。つまり、極めて早い速度での音楽体験をこういったアーティストは日々、当たり前にしているため、音楽の洗練、醸成に以前ほどの時間を要さなくなって来ている印象を受ける。
これらのアーティストの中で有名な一ジャンルは、”ベッドルームポップ”といわれ、必ずしもバンド形態をとらず、アーティストひとりでその完成品をマスタリング作業までやり、完成品としてパッケージしてしまうという器用さ。いわゆる宅録として展開されるロック、ポップスともいうべきその代表格ともいえるのが、ノルウェーの”Girls in Red”で、今一番シーンで勢いが感じられるアーティストだ。
そして、最も世界的に有名なビリー・アイリッシュも同じで、これらの00年代を境に出生したアーティストというのは、全時代の人間に比べて「性の種別」という概念が薄く、その音楽性というのも、どことなく中性的である。女性アーティストなのに男らしさを感じさせたり、男性アーティストなのに女らしさがあるように、古い世代から見ると、実に風変わりな印象を受けるはず。
これらのアーティストとしての魅せ方、引いては、そのアーティストの内奥にふつふつと湧き上がる精神、概念というのは、往年のマドンナであったり、マライアの時代から見ると信じがたいくらいかけ離れたものといえるだろう。むろん、デヴィッド・ボウイやマーク・ボラン、ニューヨーク・ドールズ周辺の、往年のグラムロックアーティストを知る人から見れば、彼等彼女らの概念というのそれほど珍奇に感じられないだろうし、ごく自然なものと飲み込んでもらえるだろうかと思います。只、ここで付言すべきは、そういった中性的なキャラクターを舞台俳優のように演じでいるわけではなく、それを自らの生き方に取り入れ、アイデンティティを誇らしく掲げているのが、これらのアーティストの以前のグラムロックアーティストとは異なる点だろう。
クィアー・ミュージックの新星 Ana Roxanne
今回、ご紹介するAna RoxanneというLA在住のアーティストも、近年流行中の、クイアというムーブメントから出てきた個性的で、面白い音楽家のひとりだ。
一般には、ニューエイジをはじめ様々な呼称が彼女の音楽に与えられている。一応、与えられてはいるものの、他方では、アンナ・ロクサーヌの作品を扱っているセールス側に大きな困惑を与えているのは確かだろう。なぜなら、単純にこの音楽は新しいから、以前の耳では咀嚼できない。”耳”を数年先まで推し進める必要性があるのだ。その辺りに市場側も、このアーティストに単色のイメージをラベリングすることに躊躇を感じているようにも思える。ゆえに、他のアーティストよりもはるかに難物な雰囲気すら滲んでいる。
もちろん、作品を実際に聴いてみればそのことがよく理解できるはずだ。ビリー・アイリッシュ、ガールズ・イン・レッドのような分かりやさ、キャッチーさは、ロクサーヌの音楽にはのぞむべくもない。これは海のものとも山のものともつかない風変わりな音楽なのかもしれない——。しかし、それはこれまでになかった新しい音楽の台頭を感じさせる。
ここ二、三年の数少ないリリース作品を聴くかぎりで、そういったジャンル、音楽上の種別というのは、アンナ・ロクサーヌを前にしては、何の意味もなさないと理解できる。そもそも、アンナ・ロクサーヌという音楽のジャンルは、他者からの識別、ラベリング、ジャンル分けを強烈に拒絶し、そして、それを”音の芸術表現”という強烈な個性で描き出そうと努めている様子が感じられる。
アンナ・ロクサーヌの音楽性の中に見出すべきなのはリスナーに対する媚や安っぽいおためごかしなどではない。そこに感じられるのは、強い、異質なほど内的なクールなストイックさなのだ。いや、そのためにむしろ、Ana Roxanneの音楽は、他にはないほどの強烈な個性と輝きを放っている。
「Because of a Flower」2020
Ana Roxanneを知るための手がかりというのはまだ非常に少ないのが少しだけ残念だ。それはほとんど雲をつかむような話でもある。
デビューして間もない音楽家でありアルバムリリースというのはこれまで一作。だから、その数少ない音の情報を頼りにし、このアーティストの良さについて静かに熱狂を抑え、非常に慎重に語るよりほかない。
最新作「 because of flower」は前作のEP「ーーー」の方向性を引き継いで、”アンナ・ロクサーヌという音楽性を明瞭に決定づけた作品”というふうに呼べるかもしれない。1stトラック「Untitled」から、会話式の語りが挿入され、これが非常に、舞台的、もしくは、映像的な音の効果を与えている。
そして、この語りというのが、古典音楽のモチーフのようについて回り、作品のどこかで再登場するというのは、少なくとも、付け焼き刃の思いつきなどでは出来ない音楽に対する高度な見識を伺わせる。
2ndトラック「A study in Vastness」では、米国で有名な声楽家、メレディス・モンクのような声としての前衛芸術、ミニマリスムを思わせるテクスチャを形成することにあっけなく成功している。自身の声を多重録音することにより、それをアンビエンスとして解釈し、奥行きのある音響世界を構築していく。
そして、このあたりに漂っている奇妙で異質さのある雰囲気、これこそ「クィア」という概念そのものの体現であり、ドローン、アンビエントともつかない、異質なエスニック風味すら思わせる独特でエキゾチックなシークエンスというのは、このアンナ・ロクサーヌという芸術家にしか描き得ない、内的な心象風景の音の現れだろう。
また、こんなふうにいうと、少しばかり、このアーティストが崇高な感じもうけるかもしれない。だけれども、このアルバム全体のイメージに関して言えばそのかぎりではない、その中に近寄りやすさというのもある。
「Suite Pour L'invisible」では、ドイツの前衛電子音楽家、NEU!のファーストアルバムに収録されている「Seeland」を彷彿とさせる静かでアンビエント風の電子音楽に取り組んでおり、さらに、ロクサーヌの伸びやかな美声が心ゆくまで堪能できる。これは、ナチュラリストとしての彼女の精神の姿を映し出した透徹した鏡のような楽曲であり、ヒーリング効果のある音楽としての聴き方もできるかもしれない。
前年にEPという形でリリースされていた楽曲をアルバムに再収録した「ーーー」も、往年の古いタイプの電子音楽を踏襲した楽曲であり、これまた全曲のように心やすらぐような雰囲気を味わえる。アナログシンセをマレットシンセのような使用法をすることにより、連続的な音を積み上げていき、立体的なテクスチャのもたらす快感性を生み出すことに難なく成功している。流石だ。
さらに、また、このアーティストが只のヒーリング音楽家ではないことを明かし立てているのが次曲「Camillie」といえ、ここでは、ごくごくシンプルなマシンビートを、曲の主な表情づけとし、そこにアシッド・ハウス的なアダルティな風味をそっと添え、夜の都会のアンニュイさを感じさせる雰囲気も滲み出ている。楽曲の連結部として、対旋律風に導入されるフランス語の会話のサンプリングというのも一方ならぬ知性を感じさせる。
ラストトラック「Take The Thorn,Leave the Rose」では、フュージョンジャズ的なギターが特徴のこのアルバムでは異色の楽曲といえ、アウトロにはバッハの平均律の前奏曲の旋律がヒスノイズを交えて流れてくるあたりも唸らせる。この辺りに、古典音楽にたいしての親和性、音楽フリークとしての矜持が窺え、非常に興味深い。
音楽的なバックグラウンドの広さ、そして、クイアという概念を強固な音の表現性により、ひとつの芸術として完成させているのが今作の特徴といえるかもしれない。その内面からの強い性格がヒーリング的な寛いだ印象とあいまって、これまで存在しえなかった新しい二十年代の最新鋭の音楽のニュアンスを生み出すことに成功している。個人的に、かなり期待したい有望なアーティストの一人だ。