往年の名盤を振り返る MILES DAVIS「Kind of Blue」





MILES DAVIS


 

マイルス・デイヴィスというジャズ界の巨人は、実に不思議な魅力を持つ人物である。なんとなく、彼の人となりからは異質な雰囲気が漂っている。マイルスの背後には異様なオーラ、それも信じがたいほど大きなオーラが漂っているということだ。アルバムジャケット、ブックレットの写真を見ても同じである。彼は、恐ろしいほどの大きなオーラをその背に漂わせているのである。

 

元々、マイルス・デイヴィスは、音楽のエリートとしてのキャリアを持つが、彼の音楽を語る上で、そのことばかり取りざたするのは建設的といえないだろう。なぜなら、マイルスは、自身の品行方正な経歴を度外視するようなアウトサイダーとしての魅力を持っている。彼の描く音風景「サウンドスケープ」は、バスキアに近いものがある。

 

後に、クラシック・ジャズから離れ、アバンギャルド・ジャズ、ニュー・ジャズの未知の領域に、スタジオアルバム「Tutu」あたりから恐れ知らずに踏み入れていき、当世の人間には容易に理解しえない「マイルスの世界」あるいは「マイルスの時代」を強固に構築していくようになる。

 

常に最新鋭を行こうとする進取的な気概もある。彼が、例えば、仮に、ニューオリンズのジャズマンであったのなら、どうだったろう? もしかすると、これほど偉大なジャズの伝説的なプレイヤーは誕生しえなかったかもしれない。それはおそらく、音楽だけにとどまらず、ブロードウェイをはじめとするマンハッタンの多文化性が自身の環境に当たり前に存在したため、マイルスの音楽は最前線を行かざるをえなかったともいえるのだ。

 

 

  

出典:Reijo Koskinen / Lehtikuva, Public domain, via Wikimedia Commons
 

 

マイルスの全体の音楽家としての大まかなキャリアを見渡してみると、体系的に音楽を学んだミュージシャンとは思えないほどの風変わりさ、前衛性においても同時代の演奏者の最前線を行き、そして、活動の時代によって、自らの音楽性をコロコロと七変化させたジャズプレイヤーの姿が彼には見いだせる。

 

トランペット奏者としても、枯れたブレスの味わいを探求しつくした初期から、管楽器としての可能性を推し進めていき、華やかなトランペット奏者としての道に踏み込んでいった。誰も比肩しない孤独な領域は、「Kind of Blue」でクラシック・ジャズの金字塔を打ち立てた後に始まったといえる。それから、ほとんど無節操といえるほどのジャンルのや多様さを自身の音楽の中に内包するに至る。その中には、アンビエントに対するアプローチも含まれている。そして、マイルスのこの多彩な音楽家としての変身振りは、ソビエトからアメリカに亡命したクラシック作曲家ストラヴィンスキーを彷彿とさせる。

 

ストラヴィンスキーもまた同じように、キャリアの中で、前衛音楽、バレエ音楽、もしくは新古典主義といわれるようなバッハの音階を独自に解釈した色彩感の強い音楽と、活動期によってその音楽性はさまざまである。

 

もちろん、彼等二人が実際、親交があったかどうかまでは寡聞にして知らないものの、「The Rites of Spring」のリズムの前衛性に、マイルスが深い感銘を受けて、自身の音楽性の中に取り入れたというのは有名だ。

 

特に「The Rite of Spring」パート1の二楽章「Adoration of the Earth:The Augurs of Spring」でのアクの強いリズム性、シンコペーションを多用した怒涛の展開は、アフリカの民族音楽から大きな影響があるといわれていて、この「ダン、ダン、ダン、ダン」という規則的で裏拍のニュアンスが強い原始的なリズムの革新性に、マイルスは深い感銘を受けたという。そして、これが後に、彼自身がアヴァンギャルド・ジャズを生み出す過程で、重要な”鍵”となった可能性もある。

 

 

 

もちろん、彼は晩年までずっと創作意欲が衰えなかった珍しいタイプの芸術家として挙げられる。そして、活動自体も長く、ジャンルも多岐に及ぶため、マイルスのマスターピースは、時代の中に無数に散らばっている。

 

リスナーの趣味によって、どれを拾い上げるかはそれぞれであり、名盤という意味合いも受け手の感受性によって変わってくるかと思う。熟練のジャズ愛好家は、伝説的なフィルモア・イーストのライブ盤を選ぶかもしれない。果たして、どれを選ぶべきなのか迷ってしまうが、今、私の頭にぼんやりと浮かび上がっているのは、このジャズの巨人をよく知るための手がかりともいえる名盤、「Kind of Blue」1959、「Sketch of Spain」1960、「Tutu」1986の三作である。

 

無論、「Kind of Blue」はクラシック・ジャズの定番作として名高い。そして、彼はこの作品において、エヴァンス、コルトーレーンという大家と共に、古典ジャズの高みに上り詰めたため、別方向にアプローチを転じて行く必要に駆られたように感じられる。そして、次作「Sketch of Spain」では、ジャケットの絵画のようなオシャレさも目を惹くが、特に、マイルスが民族音楽への強い傾倒をジャズ・マンとして見せている、彼の長いキャリアの中でも意味深い通好みの作品といえる。

 

また、この二作とは全く異なる意味合いを持っているのが「Tutu」だ。マイルス・デイヴィスが”前衛的なジャズ・プレイヤー”と呼ばれる由縁を作り、「ニュー・ジャズ」という新ジャンルを生み出した驚愕に値するモンスターアルバムである。特に、この「Tutu」については、現代の電子音楽のジャンルに少なからず影響を与えており、この辺りの音楽性の骨格をなしているともいえる。

 

ほとんど信じられないことに、マイルスという怪物はあろうことか、00年以降になって流行する音楽を、すでに86年に、つまり、その音楽が流行る二十年以上も前にクールに演奏している。現代のエレクトロニカという形の一番最初の原型は、このマイルスの「Tutu」というアルバムの音に求められるのではないだろうか。

 

「Kind of Blue」1959、「Sketch of Spain」1960、「Tutu」1986。以上の三作品は、どれもこれも、LP盤を購入し、家の部屋の壁にインテリアみたいに飾っておきたい名品ばかりだ。

 

しかし、やはり、マイルスの最高傑作として、なおかつ、彼のその後の音楽の前衛性を強めていくことになった要因として深い意味を見出すなら、「Kind of Blue」を挙げておきたい。なぜなら、このアルバムは、以前のニューオリンズのジャズと、この以後の世代のジャズの橋渡しを果たした、ジャズ史においてきわめて重要な聴き逃がせない作品の一つといえるからだ。

 

 

 

 

 

「Kind of Blue」は、ライナーノーツによると、ニューヨークにある”Columbia 30th Street Studio”で録音された。そしてなんと言っても、まず、曲のことについて語る前にこのジャズアルバムの歴史的傑作を完成させている、Personell(要員)について、ライナーノーツから引用する。


Trumpet  Miles Davis

Saxphone  Julian "Cannonball"Adderley"

tenor saxphone  John Coltrane

Piano  Bill Evans、Wynton Kelly

Bass  Paul Chambers

Drum Jimmy Cobb

 

このスタジオアルバムには、「Kind of Blue」という名が付されている。 これは言うまでもなく、この音楽がジャズだけではなく、「ブルーズー憂愁」の要素を少なからず含んでいるからだと思われる。無論、アルバム全体の表面の雰囲気には、かなり強く古い時代のニューオーリンズのブルージャズの影響が見受けられる。多分、これはあまり指摘されない独自の解釈であると申し開きをしておくが、特に大家のサッチモ、ルイ・アームストロング辺りの影響、そして、ニューオリンズのジャズに対する敬意と賞賛がこのアルバムにはそれとなく込められていると思えてならない。

 

この辺りは、コルトレーンが参加しているからそうなったのか、それとも、中心的なエヴァンスとデイヴィスが話し合って決めたことなのかまでは定かではない。しかし、ひとついえるのは、ここにはブルー・ジャズの基本的な楽曲構成が見受けられながらも、そこに新たな息吹のようなものが込められている。

 

それは、おそらく、このニューヨークのコロンビアのスタジオで録音されたことが大きいと思える。もちろんその影響はありながら、サッチモやエラ・フィッツジェラルドの時代のいくらか泥臭さのあるオーリンズ風のブルー・ジャズとは、根本的に何かが異なるというような気がする。それは何なのか? マディ・ウィーターズの楽曲が、都会的な雰囲気を帯びている以上に、このアルバム「Kind of Blue」には、ニューヨークのスタイリッシュなクールさが宿っている。それはちょっというなら気障ったらしいカッコつけのようなものかもしれない。しかし、そのジャズプレイヤーとしての意地の張り合いのようなカッコつけは、彼等の実際的な名演により異様なほどの芸術性に高められている。そして、あらためてこの古典ジャズを聴いてみると、このなんだかよくわからない、都会的な”空気感”とも呼ぶべきものが、このアルバムを永遠不変の傑作たらしめているという気がする。

 

 

「Kind of Blue」は様々な形式でリマスター版が再発されているが、ここではオリジナル盤の楽曲、

 

 

1.So What 

2.Freddie Freeloader

3.Blue in Green

4.All Blues

5.Flamenco Sketches

6.Flamenco Sketches(Alternate Take)

 

 

についてごく簡単に解説しておきたい。また最終曲の「フラメンコ・スケッチ」のオルタネイトテイクについては変奏曲なので説明は五曲目の中で手短にしておく。

 

まず、このコロンビアスタジオで録音された音の精彩さに驚かされる。今でも、全然古びていない最先端のサウンドである。まさに、現代のブルーノートのライブハウスで生の本格派のジャズを聴いているような素晴らしいプロダクションでもある。そして、一つ、アルバム全体として面白い特徴は、古典音楽の作曲の基本技法「AーBーA」形式が多くの楽曲において取り入れられていることだろう。

 

 

♫ 「So What」

 

 

当時の音楽としては非常に画期的な楽曲構成だったといえる。チャンバースの温かみのあるコントラバスの響きが既にこの楽曲を名品とさせている。ジャズの形式としてその後に普遍的なものになったコールアンドレスポンスというのも、息がぴたりと合っている。

 

このジャズの巨匠たちは、アドリブだけで曲の最後まで持っていく力量、技術そして知見を兼ね備えている。これはまさしく、空前絶後の職人技といえる。息つくところのない、非の打ち所のない流麗なサウンド。たおやかでありながら、全体的な音はビシッと引き締まっている。

 

そして、中盤では、高らかにコルトレーンとデイヴィスの掛け合いが、自らの腕前を競いあうように奏でられるのが聞き所だ。

 

楽曲の終盤になって、前面に引き出されるジミー・コブのスネアの響きというのも、この楽曲を優雅でダイナミックなものとしている。

 


 ♫「 Freddie Freeloader」

 

 

コルトレーンとデイヴィスの麗しいハーモニーの上にエヴァンスのピアノが華やかな彩りを添えているニューオーリンズのブルージャズを全うに踏襲した楽曲。ここには、ニューオリンズのジャズがそうであったように、夜の雰囲気に満ちあふれている。

 

またエヴァンス、デイヴィス、そして、コルトレーンとつながっていくアドリブのバトンタッチも、各人のプレイヤーのキャラクターの楽しさに満ちあふれている。曲の終盤にかけて、マイルスの独壇場となっていく。他のプレイヤーとの掛け合いの際、他のジャズプレイヤーの大家に遠慮するような気配もあるのだが、自身の独演となったとたんに何か吹っ切れるというような感があってとても面白い。

 

このマイルスしか出すことのできない音の迫力、そして、音の張り、また、彼の持つ異様なほど強力なエナジーが曲の終盤にかけてこれでもかというくらい表現されている。ここには後のアバンギャルド性を強めていくマイルスの音楽性の萌芽も見受けられる。もちろん、難しいことは差し置いておき、スタンダードなジャズの演奏の楽しみというのが心ゆくまで味わいつくせる楽曲だ。

 

 

 ♫「Blue in Green」

 

 

アップテンポで心たのしい雰囲気のある前二曲とは打って変わり、しっとりしたジャズ・バラードの名品である。

 

ここでは、作曲上で、ビル・エヴァンスの存在感が、前の二曲よりも強く感じられる。そして、エヴァンスのソロ作「Autumn Leaves」に感じられるような憂愁の雰囲気が、この楽曲に物憂げな雰囲気をもたらしている。ニューヨークのマンハッタンの中、群衆の中、ひとりきりで歩くようなアンニュイな雰囲気に満ちている。叙情性はあるが、どことなくダンディな味わいがある。

 

この曲で、マイルスはミュート(消音器)を付け、しっとりした枯れた味わいのあるトランペットのブレスを聴かせてくれる。

 

また、この楽曲はどちらかといえば、エヴァンスの曲なのかもしれない。ここで、マイルス・デイヴィスは、つかの間の名脇役に徹しているように思える。しかし、曲の終盤にかけて、様相は異なってくる。デイヴィスのトランペットの「泣き」によって、この楽曲は切なげな雰囲気に彩られる。そして、最後のエバンスの美しく優雅なフレージングによって、このバラードソングの幕は徐々に、ゆっくり閉じられていく。

 

 

 ♫ All Blues 

 

 

この楽曲も二曲目「Freddie Freeloader」と同じように、ニューオリンズの古典的なブルージャズの雰囲気が漂っている。

 

ホーンセクションのハーモニー、そして、リズムというのはシャッフルの要素もあり、オシャレさもあるが、やはり、この楽曲に色濃く感じられ、方向性として貫かれているのはあっけないほどシンプルなニューオーリンズのジャズであり、そして、その文化的遺産に対する多大な賛美といえる。

 

エヴァンスもあっけないほどシンプルな対旋律を軽やかに弾きこなしている。これは、すでに往年によく見られた型だ。しかし、途中のインプロヴァイゼーション(アドリブ)で見られる楽しいフレージングは、コルトレーン、マイルスしか引き出せない独特な雰囲気が漂っているように思える。そして、二曲目の「Freddie Freeloader」と異なるのは、ビル・エヴァンスの華やかな装飾音によって、この楽曲は、いかにも五番街!ともいうようなオシャレな空気感に彩られていることだろう。これはニューヨークでの録音がもたらした偶然の産物といえるかもしれない。

 

 

♫ Flamenco Sketches

 

 

言わずもがな、ジャズの伝説的な名曲。これをジャズ史上最高の大名曲として大袈裟に紹介しておきたい。

 

まだトランペットとサックスの聞き分けすら出来なかった時代、はっきりとトランペットの音を意識し、なんとなくトランペットというのがどんな楽器なのかよく分かったのが、このマイルスの枯れた渋みのある味わいのおかげだった。後々、2000年代あたりかと思うが、北欧のジャズシーンでは、トランペットで日本の尺八のような音を出す異質なプレイヤー、例を挙げると、Arve Henriksenが出て来た。そして、初めて、トランペットという音の響きの意味を変え、その音の響きの拡張を試みたのがこの楽曲で、器楽の一面においてもきわめて革新的な楽曲だ。

 

いや、もちろん、この歴史的な名曲に、そのような解釈を付け加えるのは蛇足といえるかもしれない。何度聴いても全然その鮮やかさが失われない、おそろしいほど精彩味がある名曲である。ここでマイルスは、ミュートを取り付け、落ち着いていて、感情に抑制の効かせたフレージングを徹底させてしている。オルタネイト・バージョンでは、モチーフとなるトランペットの旋律が若干異なる。おそらく、コロンビアのプロデューサーも、アルバム・トラックとして完成させる過程において、どちらのテイクも余りに素晴らしくて捨てがたかったため、メイン・バージョンとオルタナ・バージョンを両方収録するしかなかったというような気配も垣間見える。

 

「Flamenco Sketches」において、ピアノの演奏と同じように、管楽器もまた同じように、素晴らしい演奏をするためには歌わなければならないのだというのを、マイルス・デイヴィスは、聞き手にとどまらず、後世のトランペッターに示唆しているように思える。そう、そして、これは間違いなく管楽器を介したマイルスの”語り”なのである。

 

このアルバムが「カインド・オブ・ブルー」と名付けられたのは、何も「Blue in Green」「All Blues」が収録されているからだけではないはず。このジャズ史きっての傑作「Flamenco Sletches」には名ジャズ・プレイヤー達の都会的に洗練されたクールな哀愁が、ただならぬ気配と覚悟を持って表現されている。

 

この楽曲、そして、この名作アルバムの完成した瞬間、マイルス・デイヴィスは自身のそれまでの音楽性に見切りをつけ、そしてまた、トランペッターとしての方向性の転換をはっきり決意したのに違いあるまい。

 

なぜなら、このアルバム「Kind of Blue」において、マイルス・デイヴィスは、エヴァンス、コルトレーン、チャンバースと共に、古典ジャズの”頂”に上り詰めてしまった。そのため、彼は、その高い山のさらに向こう側にある「アバンギャルド・ジャズ」「ニュー・ジャズ」を見ておく必要があったのだろう。