現在、NY Times,The Guardian, Pitchfolk等の海外メディアで話題沸騰中となっているスタジオ・アルバム作品「Promises」は、トーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンが設立したレコード・レーベル「Luaka Bop」から、2021年3月にリリースされているが、いよいよ世界の音楽シーンの関心はこの作品一点に注がれはじめているように思える。
特に、この作品に参加している演奏者のラインナップも目が眩みそうなほど豪華である。電子音楽家として、英マンチェスターを拠点に活動するサミュエル・シェパードことFloating Points、テナーサックス奏者、ファラオ・サンダース、そして、ロンドン交響楽団LSOである。
このアルバム「Promises」は、2019年にLAのサージェントスタジオでレコーディングが開始され、それ以後、年を越して、2020年の夏まで、ロンドンのエアースタジオでLSOの弦楽のレコーディングが胆力をもって行われた。
これは、この三つの才能、若手気鋭電子音楽家のサミュエル・シェパード、既にジャズ界の大御所といっても差し支えないフォラオ・サンダース、そして、由緒ある交響楽団LSOと、全く異なるフィールドで活躍するミュージシャンが本来の活躍するフィールドを飛び越えて、実験音楽、現代音楽、モダンジャズという独立した点を線で結びつけた。
それも、苦心惨憺を重ねた末、2020年代の新しい時代の到来を告げる新しい音楽としてようやく完成にこぎつけたことについて何らかの講釈を添えるというのは無粋と言える。それほどこの作品の音源にはレコーディングの際の異様な緊迫感、三者三様の音楽家としての凄まじい意地、底しれぬ切迫感が滲んでいる。
まず、この様々な時代上の困難、つまり、コロナウイルスパンデミック前後の一年近くの期間をまたいで制作された作品として、後世に語り継がれる名作がここに誕生したという事実に際して、同時代を生きる私達は、音楽を愛するひとりの人間として、この音楽に触れられたというこれ以上はない栄誉によくする事ができたことを、本当に喜ばしく思うよりほかないのである。
そして、困難を乗り越えて、偉大な作品が産み落とされたことにも敬意を表しておかねばならない。
初めに、こんな事を言うのは、他でもない、今作「Promises」は、今後の、エクスペリメンタル音楽、電子音楽、モダンジャズ、現代音楽すべての潮流を変えてしまうような伝説的作品と言っても差し支えないような傑作だからである。
「Promises」 2021
Floating Points,Pharoah Sanders,London Symphony Orchestra
2020年代を代表するであろう伝説的スタジオ・アルバム「Promises」は、「Movement1」から順々に「Movement9」まで9つの短い連作として構成される。
現代音楽としてミニマル学派に属する今作品は、3月下旬の発表当時から様々な議論を巻き起こした。それは現在の国内外の音楽メディアの手放しの賞賛から、この作品についてのその賞賛にたいする疑念まで幅広い喧々諤々の議論を巻き起こした作品である。
しかし、歴史的に見ても、ベートーベンの「運命」であるとか、ストラヴィンスキーの「春の祭典」の初演の例を引くまでもなく、聴衆に対して異質なほどの衝撃性を与えざるをえないのが、後世に語り継がれる名曲の誕生の瞬間でもある。
Track listing
1.Movement1
2.Movement2
3.Movement3
4.Movement4
5.Movement5
6.Movement6
7.Movement7
8.Movement8
9.Movement9
それらの批評的な声に与するなら、この「Movements」という9つの小さなエレメントにより構成される組曲が、現代ミニマル学派に属するエストニアの現代音楽家、アルヴォ・ペルトの「Tabula Rusa」の作風、執拗なモチーフの反復性に少なからず共通項が見いだせると言う点に、既視感があり、幾らか新奇性に乏しいという意見かもしれないが、仮に、その点を差し引いたとしても、このフローティング・ポインツ、ファラオ・サンダース、LSOという、音楽家たちの三者三様の織りなすハーモニクスの合体、融合性の素晴らしさについて疑いを持つ事自体がナンセンスと言える。
なぜなら、ここには、確かに、往年のミニマル学派への傾倒は伺えるものの、そこに新たな音楽に対する探求心、そして貪欲な姿勢がはっきりと見いだされるからである。
9つの楽曲の構成自体は非常にシンプルに思える。グロッケンシュピール、チェンバロの音色を織り交ぜた短いモチーフがおびただしい回数が繰り返され、(実際、数えると、数千回くらいかと思う)そこにジャズ的な演奏形式、コールアンドレスポンス形式を取り、様々なインプロヴァイゼーションが目くるめく様相で繰り広げられていく。
そこにはお体裁の良い他者を引き立てるという共同制作の欠点は見られず、自己の強烈な個性、自我を激しく対等にぶつけ合わすことが出来るのは、この三者の演奏家の音楽の理解力、そして実際の演奏力が並々ならないものであるからだ。
サミュエル・シェパードの演奏、シンセサイザーの音色、グロッケンシュピールとチェンバロをかけ合わせたような独特な音色、ピアノ風の音色、エレクトリック・ピアノ風の音色、あるいはエレクトーン風の音色というように、9つの組曲の中で、徐々に様変わりしていくモチーフをサミュエル・シェパードは駆使している。
この主体的なフレーズの背後に繰り広げられていくアプローチも実に多彩である。電子音楽、モダンジャズ、現代音楽といった三つの才覚が一同に介し、己の持ちうる技術を総動員したがゆえ生み出された必然の産物である。換言すれば、現代の普遍的な観念「ダイバーシティ」を音としての強固な概念で体現しているように思えてならない。
サミュエル・シェパードは、ファラオ・サンダース、そして、LSOの先導者として、この合奏を見事に率いている。
それは「Movement1」から「Movement9」まで一貫している。この全体的な交響曲は、電子音楽の極北、モダンジャズの極北、そして現代音楽の極北というように、サミュエル・シェパードの短い楽曲の原型の背後で、多次元的な広がりを見せ、多方向に(立体的な)側面を拡張していく。
このあたりが、淡々と繰り返される原型がそれほど広がりを見せず、一点に収束していくアルヴォ・ペルトの「Tabra Rusa」とは異なる特長で、これが「Promises」の最大の魅力である。
そして、この音楽は、無限性、際限なく広がっていく物理的性質を忠実に「音」として捉えている。
この9つの組曲は、ほとんど呆れることに、電子音楽の領域に入り込んだかと思えば、フリー・ジャズの領域に踏み込んでいき、ときには現代音楽の領域へと、サミュエル・シェパードの生み出す短いモチーフの背後で入り込んでいく。
それは、縦横無尽に張り巡らされた網のようでもあり、また、ほとんどそれぞれが未知の荒野に足を踏み入れていくようでもある。
そして、おのおのの創造性のかぎりをつくし、インプロヴァイゼーションを試み、そのベクトルが逸脱しそうになった時、ふと最初の静謐なモチーフ(最初の中心点)に静かに立ち返ってくることにより、常に楽曲の雰囲気は最初のモチーフへと引き返す。
やがて、全方向にひろがりをみせていったベクトルは、この最初のモチーフにより一挙に収束していく。こういった構造性があるため、途中で各々の演奏家がどれほどアヴァンギャルドなアドリブを途中で効かせようとも、楽曲の全体構造が破綻を来さず、破壊される一歩手前で踏みとどまり、絶妙なバランスを保っている。
また、言い換えれば、ちょっとしたキッカケで完全な破綻をきたしてしまう危ういところで、この楽曲は成立していることの証でもある。シンプルでありながら、上質な艶気の漂うサミュエル・シェパードの織りなすモチーフの音型の背後に、数え切れないほど様々な色彩が現れるインプロヴァイゼーションは、視覚的な効果も込められている。
それは、例えるなら、舞台芸術における登場人物の入れ替わり、その背後の大掛かりな書き割り自体の変化のような雰囲気も滲んでいる。
ジョン・コルトレーンの後継者といわれるファラオ・サンダースの演奏もまた神がかりといえそうだ。サンダースは常に、この楽曲において、主旋律のポジションをとり、また、対旋律のポジションを取っている。
つまり、時には脇役として、また時には、主役として音楽という舞台の正面に立ち、そのポジションを絶妙に幾度も入れ替えながら、全体の楽曲「Promises」の構造を、旋律面においても、またリズムの面においても、より強固にし、説得力あふれるものとしている。
そして、特に、このサンダースの鬼気迫るような演奏は、LSOの奏者の魂にも乗り移ったかのような良い影響を与えている。この2019年から2020年という時代しか生み出し得ないサンダースの演奏の異様なほどの緊迫感、緊張感には、これまでのレコーディングにない気迫も滲んでいる。
「Movement1」からすでに、フローティング・ポイントの演奏に呼応する形でテナー・サックスではありながら、きわめて抑制の効いたアルトサックスの渋みのあるフレーズにより、組曲の全体的なムードを豪奢で上質なものとしている。
しかしながら、ファラオ・サンダースは、単なる音楽の旋律性という魅力を提示するだけにとどまらず、音の中に込められている強固な精神性を、サックスのブレスにより生み出すという神がかりの領域にまで進んでいるように思える。
最初は、コールアンドレスポンスの演奏形態のレスポンス側にあったはずのサンダースの演奏の存在感は、この組曲の中間部「Movement4 」から「movement5」に最高潮に達する。ここでは、サミュエル・シェパードとファラオ・サンダースのフレーズの役割自体は変わらないのに、まるでコールアンドレスポンスの「コール」側に回ったかのような主役的な存在感が生み出されている。
サンダースのジャズマンとしての演奏というのは、都会的な洗練性があり、楽曲自体に深い味わいを与え、電子音楽の雰囲気に巧みに溶け込んでいる。特に、「Movoment5」でのファラオ・サンダースのスタッカートを多用した演奏はほとんど鬼気迫る雰囲気が感じられ、圧巻というしかない。
また、LSO、ロンドン交響楽団は弦楽、バイオリン、ビオラ、チェロ、コンバスと、基本的な四重奏の形式をとり、今作品に参加している。これは、私見に過ぎないが、元々、LSOの音楽監督を務めていたクラウス・テンシュタットの歴代の名演を見ても分かる通り、特にパユといった華やかな管楽器の演奏者を持つベルリン・フィルとは異なり、LSOの伝統的な演奏の醍醐味は間違いなく弦楽にあり、陳腐な言い回しに鳴ってしまうが、壮大で重厚なハーモニクス、圧倒される弦の分厚さが魅力であり、そして、この「Promises」では、テンシュタット時代からのロンドン交響楽団の伝統性が見事に発揮されているように思える。
そして、この音楽に接して感じざるをえないのは、今作のレコーディングにおいて、LSOの弦楽奏者は、LSOという伝統性のある名楽団の威信をかけてこの作品の実験性に参加している。
つまり、ただのゲスト的な関わりとは異なり、全体の音楽性の主要な要素を司り、他のアーティスト、サミュエル・シェパードとファラオ・サンダースという全く活躍する領域が異なる演奏家と肩を組んで作品を作り上げている。
つまりそれは歴史ある楽団としてではなく、未来の音楽を担う楽団として演奏することにより、この2人のアーティストの音楽性を別の高みにまで見事に引き上げることに成功しているのである。
この組曲の序盤にかけて、つまり、「Movement1」では、サミュエル・シェパードとファラオ・サンダースの存在感が際立っているため、楽曲の全体的な雰囲気、電子音楽でいうならストリングス・パッドのような役割を果たしているが、序盤か中盤にかけてシェパードからサンダースへと主役が移ろい変わるにつれ、弦楽としての役割も変化していくように思える。特にサンダースの独壇場といえる。
「Movement5」の後に、この2人のアーティストの背後で音のアーキテクチャを支えていたLSOが2人を飛び越えて主役の座に躍り出る。それはしっとりとしたサンダースの渋みのあるフレージングの後にふとソリストとしての弦楽の演奏が出てくる瞬間は鳥肌ものといえる、それまでの二者の音楽的な世界を破るようにして立ち現れる瞬間は、序盤からシェパードからサンダースへと手渡されたバトンが、ついにLSOの手に渡るというわけで、ようやく、この組曲の隠れた主役というのがシェパードにもなく、あるいは、サンダースでもなくLSOにあるという事実が露わとなる。
そして、ヴァイオリンとビオラによって繊細に紡がれていた美麗な旋律はいよいよ、この「Movement6」の中盤から終盤にかけてチェロビオラとコントラバスの重厚なフレージングにより、ほとんど魂を揺るがすような上質な響き。それはまさに往年のウイーンフィルの首席指揮者、グスタフ・マーラーの生み出すような甘美ではあるが、力強い、狂おしいほどの美しさを、音として丹念に紡いでいく。
この楽章において弦楽のトレモロの迫力には鬼気迫るものが込められている。特に「Movement6」にかけてのLSOの演奏は、古典音楽の曲目の演奏ではないにせよ、歴史的な名演と銘打ったとしても誇張にならず。それほど言葉に出来ないほどの圧倒的な演奏である。
一瞬、最高潮に達したかに思えた楽曲のクライマックスは、サミュエル・シェパードのグロッケンシュピールのモチーフによって一瞬にして轟音から驚くほどの静謐へと様変わりする。
言わば、この滝のようなラウド性からサイレンス性への落ち込みというのが「Promises」のハイライト、聞き所といえるかもしれない。しかし、「Movement6」で楽曲は終了したわけではない。
続く「Movement7」では、ファラオ・サンダースの渋みのある尺八のようなフレージングの主体的な演奏に引き続いて、シェパードの電子音楽の複雑性、前衛性が露わとなる。
ここでは組曲、あるいは交響曲としての電子音楽という未知の領域にシェパードのアナログシンセの立体的なフレージングの拡張、積み上げにより、目のくらむような音の立体構造が完成する。
つまり、LSOの演奏は最大のハイライトでなく、驚くべきことに前フリのようなものであったことに、聞き手は驚愕せずにいられなくなる。そして、この電子音楽の世界に、ファラオ・サンダースが同じような前衛性をたずさえて歩み寄ることにより、これまで歴史的に存在しなかった新しい音楽がここに生み出されている。
「Movement8」から、この組曲の終盤にかけても、ほとんど頑固さを突き通したようなモチーフの連続性は途絶えることがない。大きく見れば、ソナタ形式がここには導入されていて、ようやく、八曲目にして最初のモチーフに立ち戻ったという見方も出来なくはないかもしれない。しかし、サミュエル・シェパードによって奏でられているモチーフ自体は、「Movement1」とほとんど一緒にも関わらず、その印象は、最初の静謐さの印象とは全く異なる雰囲気を持って最初の楽章に立ち返っていることが分かる。
つまり、中心点から同心円を描きながら徐々に拡張されていった線はもとの中心点にこの楽章で戻ってくるが、同じ場所に戻って来たときには、以前とまったく一緒と思われていたその物事の形質、あるいはまた事の性質というのが、以前とは全く異なる別のものになっていた、というきわめて現実的な意味合いが込められているように思えてならないのである。
そして、シンセサイザーの緊迫感のある演出に引き継がれる形での突如の無音の出現により「Movement8」はついに最終楽章の「Movement9」に静かに引き継がれていくが、この「無音」の出現は、奥深い現代の時代性を表現している。
そして、最終楽章で突如現れるLSOの弦楽四重奏の生み出す音響の世界はどことなく、現代音楽の黎明の時代の作曲家たち、フランスのオリヴィエ・メシアン、ピエール・ブーレーズ、あるいは日本のタケミツのような不可思議な和音によって支えられている。
さらに、この一連の組曲「Promises」はコーダ(作曲家が伝え残したことを付け加える)的な役割があるとも言えなくもないが、8つのきわめて緊張感のある楽章に比べると、あっけないほど簡素に楽曲は閉じられていくことに着目しておきたい。特に最終盤の無音の出現は、きわめて衝撃的な曲展開といえ、無音の状態が続くことにより最初のモチーフの印象は反対により強められるように思える。
そして、もちろん、最後のLSOのフランス近代的和声が途絶えたとしても円環構造を持つこの楽曲は一曲目に舞い戻ったときに、一度目に聴いた印象とは又異なる雰囲気が感じられるという凄さなのである。これは、実際に聴いてみてもらいたいが、単調さのあるモチーフ自体が、実は対比的な構造を形作るため、「単調性ー多様性」を曲の中にもたらすために意図的に設計された「音型」であることが、この9つ目の楽章の最後の最後でなんとなく理解出来るというわけである。
この3月下旬にリリースされた作品「Promises」が大きな話題性を呼び、愛好家や音楽メディアに好意的に迎えいれられ、多くの議論を巻き起こしているのは十分理解できる。この録音には、近年のレコーディングに感じられなかった鬼気迫るような雰囲気が実際のレコーディングのアトモスフェールとして刻印されている。
個人的な趣味として言えば、それは明らかに、ECMの名盤のメレディス・モンクのデビュー作にも比する奇妙な雰囲気である。 この録音は、第二次世界大戦後の東ドイツでレコーディングされたがゆえに、独特な暗鬱さと力強さ、狂おしいほどの美しさが体現された作品であるが、この「Promises」もまた同じように綺麗事ではない生命の凄みが感じられる。
二つの時代は離れていながら、レコーディングの際に感じられる空気感、なんとも言いがたいような雰囲気、それが似ているように思えるのである。まったく表面的な社会情勢は異なるように思えるが、まったくの見当違いともいえないかもしれない。
それは、この録音が行われた際のイギリスの状況を見れば分かる。この2020年代のロックダウンの最中に行われたレコーディングに際してのLSOの弦楽演奏者の鬼気迫るような凄さというのは、音楽、レコーディング作業として見れば、ファラオ・サンダースのサックスの名演に触発されたとの見方もできなくもない。ところが、一方で、明らかに伝統ある交響楽団の演奏者として、この現代音楽の制作に携わっているという矜持が表れ出ているように思えてならない。
きわめて2020年の困難なイギリスの社会情勢の中で、音楽家として生きること、音楽を奏でるという意味があるのか、この極めて難しい問題に対する答えを、LSOは、その鬼気迫る弦楽の演奏によってここに明確に導き出している。
これは誇張ぬきにして、まさに大きな覚悟を抱いて録音された素晴らしい三者三様の音楽家たちの歴史的音楽の集大成である。
また、これは、単なる外側に現れ出た音ではない、これらの共同作業者の精神を音によって強固に体現したものであるということだけは最後に申し添えておきたい。概して、音楽は、音をたのしむものとおもわれがちではあるが、単なる享楽的な娯楽とも限らない。
それは、
「音楽は言葉以上の崇高な啓示を表す」
と、かのルートヴィッヒ・ファン・ベートーベンも言っているとおりである。
参考サイト
Wikipedia