Lucinda Chua
2021年、イギリスのインディーレーベル「4AD」と契約して話題を呼んだルシンダ・チュアは、英ロンドンを拠点に活動するアーティスト。シンガーソングライターでもあり、チェロ奏者でもあります。
ポストロック界のカリスマ、Slint、あるいは、Christina Vanzouとの共同制作で知られるアンビエント界の著名アーティスト、Stars Of The Lidとのツアーも行っており、特に、Stars Of The Lidとのツアーでは、ルシンダ・チュアは、チェロ奏者として同行しています。Lucinda Chuaとしてソロ活動する以前、FKA twigsにバンドメンバーとしての参加、チャンバーポップシーンで活躍するFelixというデュオへの参加等、彼女はこれまでソロ活動以前にポストロック、アンビエント、アートポップといったシーンで活躍するアーティストの演奏や制作に携わっています。
ルシンダ・チュアは、音楽家として2019年に「Antidotes1」としてデビューを飾る。まだデビューして二年でありながら、名門4ADの契約を漕ぎ着けた事に、ルシンダ・チュアは、この上ない喜びを感じているようです。この「4AD」というインディペンデントレーベルは、英国のロック音楽という側面においてラフ・トレードと共に近代文化を支えてきた歴史を持ち、特に、イギリスのアーティストにとってはこのレーベルとの契約することは少なからずの意味がありそうです。
「Antidotes」と名付けられたルシンダ・チュアの最初の作品は、Stars Of The Lidのようなモジュラーシンセを主体としたアンビエント寄りのトラックメイキングに、正統派のボーカルがゆったり乗せられるというスタイルをとっています。もちろん、そこには、彼女自身のチェロの演奏がほんのりと優雅に付け加えられる。
楽曲のトラックメイキングの手法自体は、アンビエントへの傾倒が強いけれども、反面、ボーカルは、R&Bのような渋い雰囲気を感じる。そして、全体的な楽曲の雰囲気というのは、一貫して落ち着いていて静けさに満ち、深い思索性も感じられる。「Antidotes」という表題に見えるとおり、聞き手の心の毒素をすべて音のシャワーによりきれいさっぱり洗い流すかのような「癒やしの質感」を持っているのが、このルシンダ・チュアというSSW(シンガーソングライター)の楽曲の特長です。
彼女は、音楽家として、2019年に活動を始めるまで、写真家、フォトグラファーとして芸術活動を行っていました。 主題としては、女性をモチーフとして取り扱った作品が多く、グランドピアノを見つめる女の子、膝をついて本を探す女、等、カメラのクローズアップ的な手法を被写体として捉えた独特な主題を持つフォトグラフィーの作品を残しています。
ルシンダ・チュア自身の言葉に拠れば、「写真というのはそもそも、ストーリの一部分、あるいは感情の一部分を伝えるもので、物語の断片しか表現出来ない」。そして、ルシンダ・チュアが、写真ではなく音楽の道に歩みを進めつつあるのは、写真での表現法に限界を感じ、より多彩な表現方法を追求していきたいという思いがあったかもしれません。そして、これまでのように撮影者でありつづけたなら見えなかった自身の才質、被写体としての表現の延長線上に、写真のモデルとしての表現力が並外れて優れているという事実に気がついたのかもしれません。
もちろん、写真家からの音楽家への転向は、元来チェロの演奏が巧緻であるという理由があっただけにとどまらず、音楽上での幅広い表現を追求するという動機を重視した。つまり、写真という実存の背後にある物語性を、彼女の歌声や作曲によって、より広く、豊かな感情をまじえて表現していきたいという意図が感じられます。つまり、写真という感情の表現方法よりも大空への自由な羽ばたきのような表現を求めた先に、音楽で自身の全身を使い表現する喜びを見出したというように言えるかもしれない。それは、楽曲制作、歌、チェロ、また、アルバムジャケットにおける被写体と、ほとんど数え切れないほどの多岐にわたるアートとしての表現法、これまで知り得なかった彼女の魅力が音楽活動を行っていく過程で見いだされたと言えそうです。
音楽作品については、これまでの二年間、EP作品、「Antidotes1」「Antidotes 2」、シングル作品「Until I Fall」「Torch Song」がリリースされています。現在のイギリスの音楽シーンで際立った存在感を見せているアーティストです。
「Antidotes 2」2021
4ADに移籍しての第一作となる「Antidotes 2」は、表題を見ても分かる通り、ルシンダ・チュアのEPの一作目の表現性をアルバムアートワークにしても、また、実際の楽曲にしても前作EPの表現性を引き継いだ形で制作された作品です。四曲収録ではあるものの、丹念な音の作りこみがなされているからか、アルバムのようなボリューム感があります。また、一作目と同じように、アートワークも秀逸であり、芸術としてのフォトグラフィ作品として楽しめますし、何となく同じ4ADであるためか、Pixiesの「Surfer Rosa」のアートワークに似た美麗な雰囲気が滲んでいます。
特に、4ADとの契約はレコーディングにおいての音の単純な良さという側面においても、ルシンダ・チュアの楽曲性をより魅力あふれるものとしています。SSWとしての歌声は、一作目よりもはるかに渋み、女性的なブルースが最大限に引き出されているという点で、さらに次の表現性へと進んだような印象を受ける。特に、この他のメインストリーム界隈の女性シンガーに比べ、中音域と低音域の強い太さのあるヴォーカルというのが、ルシンダ・チュアの歌声の一番の魅力と言えるでしょう。
作風についても、一作目のEP「Antidotes 1」と同じように、アンビエント、ポスト・クラシカル、またはアートポップ、と、幾つかの音楽性が均等に配置され、全体的にバリエーションを感じさせ、長く聴いても飽きの来ない聴き応えのあるEP作品となっています。楽曲について説明するなら、このEPがリリースされる以前にシングル盤として先行発表されていた#1「Until I Fall」は、異質な存在感と華やかさ、そしてブルージーさを兼ね備えた楽曲。ルシンダ・チュア自身のチェロ演奏に加え、揺らぎのあるモジュラーシンセサイザーが齎すアンビエンス、そして、囁きかけるようなルシンダの歌声が魅力の一曲。このまさにソウルフルとしか言いようのない魂から直接引き出される哀愁のある歌声は、一聴してみる価値ありです。反復性の高い楽曲ではありながら、モジュラーシンセの音色の揺らぎ、そして、歌唱法のニュアンスの変化、多様性を楽しめる作品となっています。
#2の「An Avalanche」は、一曲目とは対照的に、古典ピアノ音楽の小品のような雰囲気を持ったポスト・クラシカル派の音楽。ミステリアスな性格を持った独特な和音に彩られた楽曲です。
#3「Torch Song」は、ボーカル曲としてはこのEPの中で最良の楽曲といえ、ノラ・ジョーンズのようなブルージャズの雰囲気を感じさせる。
ここでの奥行きのある歌声は正統派のシンガーの堂々たる風格に満ちあふれています。この夜のアンニュイさを感じさせる雰囲気はエレクトリック・ピアノのR&B寄りのアプローチによりしたたかに支えられ、徹底的に抑制のきいたルシンダ・チュアの歌声は、この表題の毒素を取り払うような美しさに満ち溢れている。
このEPの最後を飾る#4「Before」も美しい楽曲です。ここでは、どことなくトムウェイツを彷彿とさせるようなブルースの味わいのあるピアノの規則的な伴奏に、ピアノの弾き語りといったスタイルが採られている。その背後にはStars Of The Lidに比するアンビエント的な性格を持った美麗なシンセパッド、あるいはチュアのチェロの演奏がサンプリング的な手法で挿入されている。アンビエントとR&Bの融合というこれまでにありそうでなかった楽曲性を追求したともいえます。
全体的な楽曲の雰囲気としては、感性的ではあるが、理性も失わないという点が非常に魅力的です。ルシンダ・チュアの言葉の通り、ピクチャレスクな音の趣向性があり、音から、映像、写真の一コマのようなものが想起されます。しかし、それは写真藝術とは正反対な表現方法が採られ、聞き手の創造性を刺激し、奥行きのあるサウンドスケープを思い浮かばせるような手法が採られているのが芸術性を追求した音楽であるという気がします。
音を提示した後は、すべてを聞き手のイマジネーションに委ねるという感じがあるため、自由な寛いだ雰囲気を感じさせてくれます。行き詰まりとは逆の、広がりと奥行きを増していくような質感とでもたとえられるかもしれません。
もちろん、このEPで味わう事の出来るルシンダ・チュアの歌声というのも、哀愁に満ち溢れており、魅力的な輝きを放っています。表現性を、内側に閉じ込めるのでなく、外側に無限に広げていく。歌詞についても、風景の美しさについて歌われますが、そのあたりの情感にとんだ自由な表現性から溢れ出る癒やしが、このEP作品「Antidotes 2」の醍醐味といえるでしょう。
聴けば聴くほど、渋い味わいの出てくる非常に聞きごたえのある芸術性の高い傑作として、今回、御紹介しておきます。
参考サイト
last.fm Lucinda Cyua Biography