モータウンの歴史 Berry Gordy Jr.はアメリカの何を変えたか

1.デトロイトの音楽

 

記憶に新しいのは、かつてフォードやゼネラル・モーターズといったアメリカ合衆国を代表する巨大産業の栄華が2013年に終焉を迎えたことである。アメリカの近代の経済の屋台骨を支えてきたこの二大企業は見る影もなく没落し、ミシガン州南部にあるデトロイトは米連邦破産法9条の適応を申請し、財政破綻を迎えた。おそらく、アメリカの近代産業の最大の成功の一つの自動車産業は、この年を境にして、はっきりと既に過去の虚栄に過ぎぬことが明るみに出たように思える。現在はそういった遺産を新たに組み直す試みが行われているが、少なくとも、アメリカの史実を概観してみた際には、近代の産業発展に最も貢献してきた都市であることに変わりないように思える。


表向きには、クリーブランドに続いて発展した産業都市として知られているミシガン州デトロイトではあるが、この土地にはもう一つ音楽都市の表情を持っていることを皆さんはご存知だろうか。後には、この都市を代表するロックスター、KISSが「Detroit Rock City」という名曲を歌い、このデトロイトという自動車都市の存在感を世界的に示してみせたのは、フロントマンのジーン・シモンズがこの土地を誰よりも誇りに思っていたからでもある。この時代は、明らかに、デトロイトという都市の経済が最盛期を迎えていたことを証明する事象でもある。近代において、デトロイトがアメリカでも有数の音楽都市になったのは偶然ではないはずだ。

 

 

加え、デトロイトには、フィルモア・デトロイト、セントアンドリュースホール、といった世界に名だたるコンサート会場が生まれ、世界的な音楽都市として近代にかけて急激に経済発展を遂げた。だからこそ、2013年の180億円の負債を抱えての財政破綻というのは、ある一定の地域の痛撃ではなくて、アメリカ全体の近代文化の終焉を示す通牒でもあったのだ。

 

 

これまでの歴史において、必ず、音楽文化が隆盛する場所というのは、経済が発展している途上にあるか、あるいはまた、その最盛期にある一地域とも換言できよう。その土地で、音楽文化が発展しているかどうかを見極めることは、経済的な指標を見るのに最も適した項目といえる。ヨーロッパの中世の音楽史もそうであったように、音楽文化というのは、産業や経済の発展の先に生み出されるものであり、全てに適用される理論とはいいがたいけれども、一般的には、経済的な余剰から生み出されるのである。仮に、経済的な余剰がなければ、音楽文化、その他の文化というのに割く労力がなくなり、その国家、都市文化は疲弊していく、というように結論づけられるかもしれない。


このデトロイトという土地は、古くからブルース音楽が盛んで、1960年代1970年代にかけてソウルやR&Bが生まれ、そして、ニューヨークでヒップホップ文化が生じるまではディスコブームを牽引し、 その後はシカゴのハウス音楽に続いてテクノ音楽が生み出されていく。その他にも、テッド・ニュージェント、KISS、MC5、ストゥージズ、といったロックンロール、プロトパンク、パンクロックの原型を形作ったムーヴメントも巻き起こしたアメリカの重要な土地でもある。

 

そもそも、このデトロイトにおける音楽産業を一番最初に確立させ、自動車産業の発展と連れ立ってこのデトロイトという都市、ひいてはアメリカ全体の経済発展へ導いたのは、モータウンレコード(これはモーターとタウンをかけ合わせた造語である)、そして、黒人としての最初の起業家、ベリー・ゴーディーJrという世界的な実業家であったといえる。 

 

それまでは、ゴスペルやブルース音楽は一般的な商業性をもった産業になりえなかったが、このモータウンというブラックミュージックの重要な発信地が生まれたことにより、ブラックミュージックは、産業、商業として確立されていく。無論、自動車産業の他にも、このブラックミュージックは、巨額の経済効果をもたらした。Motownからデビューした歴代の世界的なミュージックスターは数えきれない。フォー・トップス、テンプテーションズ、スティーヴィー・ワンダー、ジャクソン・ファイヴ、きわめつけは、マーヴィン・ゲイをはじめとする超大物黒人ミュージシャンを次々に輩出した世界的なレコード会社である。

 

 

 

2. Motownsの出発 Berry Gordy Jr.の足跡

 


1959年、創業者ベリー・ゴーディJrは、家族から800ドルの融資を受けて、1959年の1月に最初、タムラレコードというインディペンデントレコード会社を設立し、その年の後半、ゴーディは、デトロイトのフランドブールバードの物件を購入した。この建物は後に「ヒッツビルUSA」という名称で親しまれるようになる。 

 

 

 

 

Hitsville U.S.A., Motown Museum, Detroit, Michigan

 

 

ほどなくして、このモータウンの敷地内の建物の裏手にあった写真スタジオは、レコーディングスタジオに改築され、後には、数々の名レコーディング、ジャクソン・ファイヴをはじめとするアーティストの録音が行われる、いわば伝説的なレコーディングスタジオとなった。他の建物には管理事務所が置かれ、1960年正式にモータウンレコードコーポレーションの名が社名として登録される。

 

ベリー・ゴーディJr.のレコード事業に対する関心は、それ以前の「3Dレコードマート」と呼ばれるジャズを取り扱うレコードショップをデトロイトに立ち上げた際に始まっていた。このレコードショップ経営において、彼はジャズの美しさについて伝道師のような役割を果たしたいと考えていたのだろう。モータウンレコードの社訓ともいえる、「白人、黒人、ユダヤ人、分け隔てなく楽しめる音楽を提供したい」という概念は、この最初のレコード店経営の際に培われたものであろうと思われる。しかし、最初のレコード店経営は、残念ながら大失敗に終わっている。彼は経営不振のため、逆に店を追い出された始末であったが、少なくとも、レコードを販売することの楽しみを、ゴーディはこの若い時代において堪能していた筈である。事実、この最初の事業が表向きには失敗してからも、ゴーディの音楽産業に対する興味が失せることはなかった。

 

ベリー・ゴーディーJr.の最初の音楽業界での成功というのは、意外なことに、レコード会社の設立者としてではなく、ソングライターとしてであった。最初のレコード店を追われてから、彼は、その後、デトロイトのダウンタウンのナイトクラブに頻繁に出入りするようになり、ここで、数奇な出会いがあったことによって、彼の人生の歯車は回転しはじめたといえる。デトロイトにある「Flame Show Bar」にて、ゴーディは、パールミュージックという音楽出版社を所有し、ジャッキー・ウィルソンのマネージャーを務めていたアル・グリーン(有名歌手とは別人物)という業界関係者の知己を得た。

 

それからまもなくして、ベリー・ゴーディーJr.は、妹のグエン・ゴーディ、ビリー・デイビスとソングライター・グループを結成し、ジャッキー・ウイルソンのヒット曲「Lonely Teadrops」のソングライティングを手掛けるようになり、1957年から翌年にかけて、この曲は、アメリカで空前の大ヒットとなった。その後も、ゴーディは「Lonely Teadrops」のA面の楽曲製作を手掛けた。1958年の一年、驚くべきソングライターの才覚を発揮し、100以上もの作品製作に携わっている。

 

1958年になると、ゴーディは、マーヴ・ジョンソンの「Come to me」という楽曲を書き、プロデュースを行った。これは、結果的に、記念すべきモータウンレコードの第一号となった。

 

このレコードの流通取引のため、ベリー・ゴーディは800ドルの資金を必要としていた。この際、ゴーディは、実業家であった両親に頼み込んで、共同組合の普通預金から予算を捻出するように働きかけた。彼の家族は、この申し出をしぶしぶ受け入れ、ゴーディーJr.に800ドルを融資し、1959年、1月にモータウンの前身、「Tamla Records」から、マーヴ・ジョンソンの「Come To Me」がリリースされた。この「タムラ」という名称は、アメリカの伝説的な映画俳優、デビー・レイノルズの楽曲「タミー」に因んでいる。当初はタミー・レコードという名をゴーディは使用していたが、ネームライセンスの面で懸念があり、時を経ずに「タムラ・レコード」に名称を変更している。


この後、マタドールズ、ミラクルズを始め、初期のノーザン・ソウルシーンを形作るアーティストたちのレコードを「ヒッツビルUSA」でレコーディングした作品をリリースし、モータウンは、シカゴ一帯のR&Bアーティストと共にソウルムーブメントの基盤を形作った。

 

モータウンレコードの最初のヒット作となったのは、それほど後の伝説的な作品ほどには有名とはいえないかもしれないが、レコード会社創設間もない頃にリリースされたバレット・ストロングの「Money」であった。これは、米ビルボード誌のR&Bチャートで堂々第二位を獲得し、次第にモータウンレコードの名はアメリカ全土に知られていくようになった。

 

 

 

3.モータウンの最盛期 1960-1970

 

 

1961年から1971年にかけて、アメリカでは空前のR&Bブームが沸き起こった。特に、南部のサザン・ソウルに対するノーザン・ソウルは、全米のミュージックシーンに対してきわめて大きな影響力を十数年もの間持ち続けた。

 

この十年間、モータウンは、110ものビルボード・トップ10にランクインする名曲を送り込んでいる。この期間のモータウンアーティストはうっとりするような偉大なグループが数多く見いだされる。ダイアナ・ロス擁するスプリームス、フォー・トップス、それから、最初期のマイケル・ジャクソン擁するジャクソン5といった豪華な面々。一方のタムラレコードにも、きわめて個性的なR&Bアーティストが名を連ねていた。スティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、マーヴェレッツ、ミラクルズを中心にヒット曲のリリースを着実に重ね、ソウルムーブメントを牽引していった。 

 

 

 

November 21-December 22: The Cosmopolitan of Las Vegas New Year’s Eve Celebration Featuring Stevie Wonder Giveaway


 

彼は、まるでこれらのヒット・ソングでは物足りぬと自ら物語るかのように、およそ信じがたいほどの活力を見せ、この時代において、モータウン、タムラ、2つのレーベル経営に飽き足らず、第三、第四、第五のレーベル経営に乗り出していった。3つ目のレーベル「ゴーディ」からは、テンプテーションズが輩出されているが、第四、第五のレーベルからはそれほど世界的なアーティストは多く出ていないところを見ると、少々事業面での拡大を行いすぎた感も見受けられる。しかし、これらの包括的なレーベルからリリースされた作品は、モータウンサウンドという異名をとるほど世界的に有名となった。

 

これらの1960年代の黒人ビックアーティストの台頭、そして、ソウルミュージックにはアメリカ社会としての変革期にあたった。キング牧師の公民権運動、その人権の勝利としての追い風は、このソウル、または、モータウンレコードの音楽産業としての勢力の拡大に密接な関係を持っている。つまり、これはさらにいえば、最初期のブルース、ソウルに引き継がれたブラックミュージックを介しての黒人たちの権利獲得の戦いでもあった。そのことを表すのが、最初期のモータウンに所属していたミラクルズのメンバー、また、後にはモータウンの副社長をつとめた、ゴーディーの片腕、スモーキー・ロビンソンの言葉の中に見受けられる。

 

 


1960年代、私達はモータウンが音楽活動だけではなく、それまでのアメリカの歴史を塗り替えているという事実にはまったく気がついていなかった。けれども、モータウンの楽曲が世界中に知れ渡るようになってから、あることに気がついたのだ。

 

私達が架けた橋は、音楽を介して、人種問題などの壁をとりのぞくものであると気がついたのだ。また、そののちに、もうひとつ気がついたことがあった。モータウン設立当初にサザン・ソウルが流行っていた南部にいっていたらどうなっていたか、私達はすさまじい差別を受けただろう。しかし、 私達はけしてそうしなかった。そして、その後、モータウンサウンドが全米に広がっていった、その時代から観客は差別されることはなくなり、さらに子供たちは手をとりあって踊るようになったのだ

 ”               モータウン副社長、ミラクルズ、スモーキー・ロビンソン

 

 

 

この後、1967年に、ベリー・ゴーディは、それまで所有していた住居を、姉アナ、その後の夫、マーヴィン・ゲイに譲渡し、デトロイトのボストンデディソン歴史地区に邸宅を構え、「モータウンマンション」という名称で親しまれるようになった。


ちなみに、この前にゴーディーが住んでいた邸宅はマーヴィン・ゲイの「What’s Going On」のアルバムカバーに写真として収められている。1968年、ゴーディは、ウッドウォード通り、それから州間高速道路75号線の交差点にあるドノヴァンビルを購入し、モータウンのデトロイトの本事務所を移転することとなった。

 



4.モータウンサウンドの魅力

 

 

この十数年間のモータウンの歴史は、およそアメリカのブラックミュージックの最初の商業化と言っても過言ではなかった。

 

そして、ゴーディーJr.は、間違いなく最初の黒人としての世界的な起業家であり、歴史にその名が刻まれるべき偉人である。この世界最大のインディペンデントレーベルの掲げる理念は「The Sound Of Young America」であった。つまり、若い世代を中心として、この理念のもとに緻密な戦略に基づいた、非常に幅広いリスナー層に向けたポピュラー音楽を数多く生み出すことに重点が置かれていた。

 

特に、このモータウンの象徴的な要素を形作ったのは、グループ形式で構成されるノーザンソウルと呼ばれる音楽である。これは、前の時代のソウルよりもはるかに親しみやすく、歌いやすく、また、リズムにおいてもディスコサウンドに近い要素があったため、アメリカ全土で流行しただけではなく、イギリスにもこのモータウンサウンドの名が広がっていったのは、その後の、人種差別を撤廃しようとする世界のコモンセンスを考えてみると、当然のことであったように思える。

 

ホーランド・ドジャー・ホーランド(H=D=H)の世相を反映したポピュラーサウンド、キャロル・ケイ、ジェームス・ジェマーソンをはじめとするジャズの要素を交えたR&Bサウンド、ファンク・ブラザーズのビートを強調するタンバリンのパーカッション。これらのノーザン・ソウルと呼ばれる音楽の一群のマテリアルは、実のところは、前のソウル音楽を継承したものでしかなかったけれども、その時代の気風にあった音楽だったこともまた事実である。多くの実力、スター性、パワフルなシンガーたちの歌唱力、そしてゴスペルを根深いルーツに持ち、ジャズを発祥とする”コールアンドレスポンス”を実に巧みにヴォーカル曲の中に、ひとつの技法として取り入れたところがきわめて画期的であった。

 

 

これらの音楽は、1960年代から1970年代にかけて、モータウンサウンドと呼ばれ、人種をとわず大人気となった。この時代、ゴーディーJr.は、プロデューサーという側面でも超絶的な才覚を発揮した。モータウンに所属するシンガーあるいはアーティストたちは、レーベルオーナー、ベリー・ゴーディJr.のプロモーションの方針に従い、洗練されたきらびやかな衣装を身につけ、上品かつ華美に振る舞い、「エド・サリバン・ショー」をはじめとする多くのテレビ音楽番組に出演した。MTVをはじめとする後のTV音楽番組の時代の先駆的なプログラムといえるかもしれない。

 

 

この時代において、モータウンは、テンプテーションズ、マーヴィン・ゲイ、グラヒス・ナイト&ヒップス、レアアースらのヒット曲を生み出す傍ら、ゴーディンは、TV系子会社モータウンプロダクションズを設立、「TCB」「Diana!」「Goin’ Back to indiana」と、名物的な音楽番組を生み出している。ゴーディーは、これらの音楽番組のプロデューサーも務めていた。

 

 

この時代から、彼は、長年モータウンに所属するアーティスト自身の楽曲プロデュースを許可するようになった。この時代、モータウンレコードは、怒涛のペースでヒット作を連発していった。看板アーティスト、マーヴィン・ゲイの「What's Goin’ On」、「Let's Get It On」、スティーヴィー・ワンダーの「Music of Mind」、「Talking Book」、「Inner Visions」といった作品は、アメリカの辛口音楽評論家を唸らせるに足る歴史的な名作群となった。1960年代には、本社のデトロイトの他にも、ニューヨークとロサンゼルスに支社を構え、1969年にはロサンゼルスに拠点を徐々に移行していった。 

 

 

Mavin Garye「What's Goin' On」

 

 

 

Stevie Wonder 「Talking Book」

 

 

レーベルからの作品リリースの流通の拡大、及び、テレビショーでの宣伝効果もあってか、モータウン・サウンドは、いよいよ国内にとどまらず、イギリスにヒットの裾野を伸ばしていった。この年代、世界的な音楽シーンにおける白人のミュージシャンの最高峰がビートルズであったとするなら、一方、黒人のミュージシャンの最高峰をなしたのが、モータウンに所属するアーティスト、シンガーたちだったはずだ。モータウンレコードについて記述しているという贔屓目を差し引いたとしても、モータウンに所属するアーティストたちは、世界に名だたるスターミュージシャンとして一世を風靡したといえよう。

 

 

 

5.モータウンのインディーズレーベルとしての幕引き

 

 

 

1980年代にかけて、無限に事業を拡大していくかのように思えたモータウンの経営に陰りが見えはじめた。

 

依然として、アメリカの象徴的なR&B曲「We Are The World」への参加で知られる、ライオネルリッチーをはじめ、コモドーアズ、リック・ジェームス、ティーナ・マリー、ダズ・バンド、ディバージなど多くのスターミュージシャンを抱えていた。1983年には、モータウンの25周年記念コンサートが行われていたし、NBCが、その公演の模様を録画放送した。モータウンの勢いはとどまらぬように見えたが、時代は、レコード産業の最盛期にあたった。

 

その他、アトランティック、ゲフィンといったロックサウンドを主要なカタログとしてリリースする大手のレコード会社、そして、MTV産業がこの時代において最盛期を迎えており、オーバーグラウンドではマイケル・ジャクソンなどの黒人シンガーは依然として大活躍してはいたものの、それはあくまでコアなソウルではなく、ポップ・シンガーとしての話だ。また、R&B,ソウル音楽が依然に比べて、時代遅れの音楽のようにみなされる向きもあったかも知れない。

 

そういった時代の流れを受け、1980年代半ばに差し掛かると、モータウンは経営不振に陥るようになった。ベリー・ゴーディJr.は、1988年にロックの殿堂入りを果たしているが、また、同年6月にモータウンの所有権をMCAレコード、ボストン・ヴェンチャーズに、6100万ドルの値で売却したことにより、インディーレーベルとしての史実に終止符を打った。

 

その後は、メジャーレーベル、ユニヴァーサルミュージックに吸収合併され、傘下に入り、子会社化し、モータウンは現在も存続している。かつてモータウンの伝説的レコーディングが行われた「ヒッツビルUSA」は、現在、モータウン博物館としてデトロイトの観光名所となっている。