Superstarは、STAN SMITHと並んで、アディダスブランドの看板モデルともいうべき代名詞的なシューズとして知られる。
シンプルなデザイン、三本のストライプというシンプルかつシンボリックなデザインで、今もスポーツシューズとして根強い人気を誇り、アディダスブランドの看板ともいうべき普遍的なモデルである。Superstarというモデルは、スポーツウェア、ストリート、カジュアル、如何なるスタイルにも馴染み、ファッションの中に気軽に取り入れられる利点がある。一切の無駄を削ぎ落としたシンプルなデザイン性、足の形を選ばず、フィットしやすいという点では、スニーカーの代表格と称することが出来るはずだ。
このスーパースターは、アディダスというブランドの知名度の普及に大きな貢献を果たしたモデルには違いない。1969年に、バスケットシューズ、いわゆるバッシュとして発売されたモデルである。ラバーのトゥーキャップをプロテクターとして採用することで、靴業界に旋風を巻き起こした。
1970年代には、アメリカのNBAの選手が挙って、スーパースターを着用して魅力的なプレーを行った。シンプルなデザイン性はもとより、軽量で動きやすく、何より、見栄えのするこのスーパースターは、コンバースと共に、大人気のバスケットボールシューズブランドとして認知されるようになる。特に、伝説的なNBAのセンタープレイヤーで史上最強の選手と称される、カリーム・アブドゥル・ジャバーがこのスーパースターを履いてプレーを行い、ブランドの知名度を高めた。
そして、同時期、このアディダスのスーパースターは、スポーツウェアからストリートファッションの中に組み込まれていくようになる。このスーパースターを若者のファッションとして最初に流行させたのは、NYブロンクス出身のオールドスクールヒップホップのカリスマであり、エアロスミスとの「Walk This Way」のコラボレーションで有名なRun-DMCをさしおいてほかは考えづらい。
ニューヨークでディスコムーブメントが過ぎ去り、ダンスフロアのミラーボールが廃れかけた頃に、ヒップホップは彗星の如く現れた。特に、この1970年代のNYで、貧しい黒人の若者たちのクライムに向かう暗く淀んだパワーを、それとは真逆、音楽という、前向きで明るく、建設的な方向に転換させた。NYブロンクスを中心に発展した原初のヒップホップムーブメントの最中、Run-DMCは、最初期のオールドスクール・ヒップホップのシーンが形成される際のきわめて貴重な数少ない体験者でもある。彼らは、見事に、その文化性を、音楽、ファッションという形で世界に発信していくことに成功したアイコンと称するべきスター。 実のところ、Run-DMCの面々は、パンクロックのラモーンズと同じく、ニューヨーク、クイーンズ出身であり、どちらかといえば、中産階級の生活圏内にある若者たちだったはずだが、その最初のヒップホップの内核にあるハードコア精神を受け継ぐ重要なミュージシャンであり、ブロンクスのコアな音楽性または文化性をポピュラー音楽として普及させた偉大な貢献者である。
オールドスクール・ヒップホップもまた、パンク・ロックと同じような発生の仕方をしたムーブメントである。その音楽の源流には同じく、DIY、つまり、言葉はふさわしいかどうかわからないが、君たちのちからでやれという重要な精神が宿っているのである。1973年頃から、このブロンクス地区では、驚くべきことに、ストリートの電灯から電源や電気をことわりもなしに引いてきて、それをPA機器に接続し、バカでかい音量でサウンドをかき鳴らすところから始まった違法的なムーブメントである。
いくつかの疑問は残るものの、この寛容性によって文化が育まれた。抑制、禁止、束縛、もちろん、そこからは何も生まれでない。はたから見てみれば、どこからともなく集まってきて実に楽しそうに音を鳴らしている連中に口出しできなかったというのが実情といえるだろう。そして、このブロンクス地域の公園で開かれる「ブロックパーティー」という催しの際に、ジャマイカ出身、DJクール・ハークがPA機器を持ち込んで、最初にジャムセッションを行ったのがこのオールドスクール・ヒップホップの出発である。
その後、他の黒人の若者たちも、この公園に自前のテープレコーダーのような録音機器を持ち込んで、この公園で流れている音楽を録音し、それを自身のトラックメイクに繋げていった。ギターやドラムセットのような高価な楽器を買ったり、スタジオ設備のようなレコーディング機械を必要としない、テープレコーダーとマイクがあれば、貧しくても、音楽が生み出せる。つまり、最初期のDJたちは、ダブ的な多重録音の手法を行うことにより、ヒップホップは確固たる「音楽」としての形になっていくようになる。
この音楽を最初に商業面で成功させ、知名度の面で世界的に普及させたのがこのブロンクスの公園でのムーブメントを間近で見ていたRUN-DMCであった。この1970年代のニューヨークでは、ウォール街やブロードウェイのような表向きの文化性の背後に、バックストリートカルチャー、パンク・ロック、それから、ヒップホップという相反する側面を持つカウンターカルチャーが現れたのはあながち偶然であるとは言えない。表側のウォール街、ブロードウェイに代表されるメインストリートの資本主義のエネルギー、そして、その背後の世界にうごめくバックストリートの生々しい人々のうねるようなエネルギーが微妙なせめぎあいを続けながら、この当時、1970年代から80年代にかけてのニューヨークには、流動的な社会が形作られていたように思える。
表側から見えないバックストリートにも、人間は確かに息づいており、そして、そこに暮らす黒人の若者たちは、表側のメインストリートの概念、価値観を初っ端から信用しちゃいなかった。だからこそ、というべきか、ブロンクスの黒人の若者たちは、ヒップホップを始めとする、独自の若者文化を形作していく必要に駆られたといえるのである。自分たちの人間としての権利が決して消滅してしまわないようにするため、彼らは、独自の引用の音楽を、DIYスタイルで始める必要があった。そして、この最初のブロンクス地区のムーブメントの渦中にいたRUN-DMCも、メインストリートの概念には対し、強い反証を唱えるべく登場した3人の若者たちであったように思える。
ジョセフ・シモンズ、ダリル・マクダニエルズ、マスター・ジェイ。彼らは誰にでも理解しやすい音楽性を生み出しただけではなく、ファッションの側面においても多くの人を惹きつけるだけのカリスマ性を持っていた。特に、彼らは同クイーンズ出身のラモーンズのように、バンド名を自身のステージネームとし、3人揃って同系統のファッションで統一することにより、ヒップホップのキャラクター性をより一般的にも理解しやすくした。もちろん、これというのは前の時代のブロンクスの最初期のヒップホップアーティストたちから引き継がれた重要なファッションスタイルでもあるが、彼らはその頃、NBAで取り入れられていadidasファッションをクールに、スタイリッシュに、取り入れることに成功したところが他のアーティストとは異なる。
黒いポーラーハット、3本のストライプの入ったアディダスのジャージ、それにだぼだぼのワイドパンツを併せ、それに彼らはadidasのスーパースターを紐なしでクールに履きこなした。
これはRUN-DMCのロゴと共に彼らの代名詞的なスタイルとなった。後には、RUN-DMCのライブでは、メンバーのスーパースターを見せてくれという呼びかけに観客が答えてみせ、何千、何万という数のスーパースターが掲げられたことは、彼らのスターミュージシャンとしてのほんのサイドストーリー、いわば、飾り噺の一つでしかない。また、RUN-DMCは、adidas公認のアーティストでもあるのをご存知の方は多いはず。後には、RUN-DMCモデルも発売されていることも付け加えて置く必要がある。
同年代のNBA文化を時代のトレンドに則して、本来はスポーツウェアであったものを、実に巧みにヒップホップファッションに取り入れてみせたRUN-DMCのファッションスタイルはあまりにも画期的であったといえる。
今やオールドスクールと呼ばれるようになってはいるものの、それは本当にオールドといえるのだろうか?
いや、そうではない。この三人組の確立したクールなファッション性は普遍性が宿っているようにおもえる。 それは、ヒップホップのキャラクター性という形で今もなおカニエ・ウェストらをはじめとする現代のヒップホップアーティストに引き継がれている重要な概念でもあるのだろう。
References:
ヒップホップカルチャーに愛されるadidas
https://jasonrodman.tokyo/adidas-hiphop/
まさにスーパースター! RUN DMCを聴いてadidasを履こう!
https://shoeremake.site/archives/615
RUN DMCは何が画期的だったのか?
http://suniken.com/feature/run-dmc-and-old-school-hip-hop-and-my-adidas.html