アフリカの映画文化 「Ghallywood(ガリウッド)」 映画産業と植民地統治

アフリカでは、二十世紀を通して、特に、ガーナの首都アクラ地域を中心として、キネマ文化が大きく花開いた。

 

しかし、現在、一時代を築き上げたアフリカの映画産業は、今後発展していく可能性を秘めているものの、前の時代のガリウッド、ノリウッドのもたらした暗い影、負の遺産になっているのではないかとの否定的な見方もあるらしい。

現在、1980年代から1990年代にかけて、アメリカのハリウッド映画が盛んに上映されていたガーナの首都、アクラの映画館はほとんど閉館し、半ば廃墟化しているという。この事実から鑑みると、最終的には、この土地には映画産業は、一般的には浸透していったものの、完全にはカルチャーとして根付かなかったという意見もある。

 

ナイジェリアでは「ノリウッド」、ガーナでは、「ガリウッド」という呼称がつけられている独特な映画文化。近年、アメリカやイギリスでは、このガーナの映画の個人の芸術家が描いたポスターが収集家の間で話題を呼んでいることをご存知だろうか。

 

アメリカ、イギリスの美術館、博物館では、このガーナのモバイルシネマのポスターが独自の芸術として再評価を受けており、欧米人の間で一種のアート作品と見なされている。今回、一般の人々にとっては馴染みがないように思えるアフリカ大陸のキネマ文化について、あらためておさらいしておきたい。

 

 

 

 

 

 

1.アフリカの映画産業の原点

 

 

アフリカの映画文化の起こりは、政治と思想、特に、プロパガンダと深く結びついている。言うなれば、白人としての優位性をもたせるため、映画文化が活用されたのである。このような言い方が穏当かはわからないにせよ、アフリカを統治していたイギリス政府がアフリカの民族の牙を削ぎ落とそうとするための意図も見いだされるようだ。

 

さらに、極端に論を運ぶことをお許し願いたいが、イギリス人は、アフリカの先住民の思想性、文化性を植民地化するために、この映画産業をアフリカにもたらしたともいえるかもしれない。考えてもいただきたいのは、そもそも戦争や侵略の後に行われる地域の植民地化というのは、土地を収奪することが重要なのではなく、その土地の人間の思想性を奪うことに大きな意味が見いだされるのである。

 

19世紀後半から20世紀にかけて、ケニア、ウガンダ、北ローデシア、ニヤサランド、ゴールドコーストを統治するイギリスの植民地時代、イギリスはアフリカの先住民を教育という名目で統治し、啓蒙を行う様々な方法を模索していた。

 

そのため、1935年、英国植民地省は、「バンドゥー教育映画ユニット」をアフリカに設立することを決定する。このユニットは、1937年まで運営されていたが、これは取りも直さず、イギリス植民地の先住民族を文明化する方法として組み込まれた計画であった。


この「バンドゥー教育映画ユニット」の責任者は、ケニアの大規模農場(プランテーション)の所有者で、アフリカについて深い知識を持っているといわれていたイギリス人、レスリー・アレン・ノットカット少佐だった。

 

その後、レスリー・アレン・ノットカット少佐は、このバンドゥー教育映画ユニットの運営を任されるや否や、植民地文化への影響、費用を最小限に抑えるため、地元俳優の起用を取り決めた。1937年になると、ノットカット少佐は、英国植民地省に対し、北ローデシア、ケニア、ゴールドコースト、ウガンダのイギリス植民地で別々の映画ユニットを立ち上げ、ロンドンからの管理を一元化するよう説得を試みたのだった。

 

結果として、英国植民地省は「ゴールド・コースト・フィルム・ユニット」の設立を決定したことに伴い、”ゴールド・コースト”といわれる後のガーナに当たる地域で、アフリカの最初の映画産業が立ち上がった。

 

 

 

 

 

2.アクラに設立された映画ユニット、アフリカ映画文化の黎明の時代

 

 

アクラという土地は、ギニア湾に面した土地で、現在はガーナの首都に当たる。とすれば、この土地に最初の映画産業のゴールド・コースト・フィルム・ユニット、所謂、ハリウッドの撮影所のような施設が設立されたこと、それがそのまま、独立後にガーナの首都となったことは偶然ではないかもしれない。都市というのは、文化の栄華により、人間の文化の営みにより形成されていくからである。特に、このアクラという地域は映画産業を通じて二十世紀を通して産業発展に寄与した土地であったのだ。

 

ゴールド・コースト・フィルム・ユニットが設立された後、さらにこの映画産業はハリウッドのような形で推し進められようとしていた。

 

英国植民地省は、アメリカのハリウッドのような文化をこのアフリカ大陸にもたらそうとしていたように思える。次いで、英国植民地省は、現地アフリカの映画製作者及び俳優を育成するために、「コロニアルフィルムユニット」と呼ばれる映画学校をこの後にガーナの首都アクラという土地に開設することを決定した。

 

これは、LAのハリウッドのような夢のある話に思えるかもしれないが、そのような甘い話ではないようだ。その出発点としては、イギリス植民地省の統治の一貫としての産業発展のための政策のひとつであったといえる。

 

コロニアルフィルムユニットといわれるアクラの映画学校は、地元の映画産業を厳格に管理するように運営されていた。アフリカの最初の映画製作者に、自由性を与えず、厳しい管理下においた制作を行わせようと試みていたのである。英国植民地省は、アフリカの人々に既存の映画を鑑賞させ、以前の知識に基づいた映画文化を再発展させ、アフリカの市民、あるいは創作家たちに創造性を与えようという意図はなかった。

 

 

 

 

入植後、イギリスはアフリカの文化性について、あまりに原始的であると断定づけていたから、英国人はアフリカの先住民に対し、 基本的な映画制作の技術を教えたのみであった。これに加え、この映画産業の勃興に関して問題点を見出すなら、思想的な手法、プロパガンダの手法が、アフリカの最初の映画産業の設立には組み込まれていたことだろう。

 

この映画産業は、イギリスの支配と文明を正当化するために行われたともいえる。これは、さらに踏み込んで言及するなら、ヨーロッパの優位性をアフリカに対して示すために組み込まれた統治政策のひとつだったという見方もある。これらのコロニアル映画ユニットの撮影所で制作された最初期のアフリカ映画は、アフリカの伝統、あるいは古くから伝わる文化性を飽くまで迷信として描写していた。

 

もちろん、アクラに設立されたゴールド・コースト・フィルム・ユニットには、こういったアフリカ先住民の持っていた文化性を薄れさせるという負の側面もありながら、西欧の観点からいう文化産業を発展させる側面もあったことは事実ではないだろうか。


1957年には、ガーナが国家として独立した際、クワメ・ンクルマ大統領は、映画業界のインフラを構築し、制作、編集、配信の設備を充実させ、1980年代にかけてのガリウッド文化の基盤を形作った。

 



3.クワメ・ンクルマ政権下でのガーナの映画産業

 

 

1957年から1966年のンクルマ政権下、ガーナの映画産業はアフリカで最も洗練された文化、映画産業に成長した。クワメ・ンクルマ大統領は就任当初から、映画産業を国家の大きな推進力として事業を構築するという強い政治戦略を打ち出していた。 

 

J.F.ケネディ大統領とクワメ・ンクルマ大統領
 

 

クワメ・ンクルマ大統領は就任以後、ゴールド・コースト・フィルム・ユニットを国別化することを決定し、名称を「State Film Industry Corporation」に変更する。さらに、最終的には、「Ghana Film Industry Corporation」(通称GFIO)として国策の映画産業にまで発展させた。この時代、大統領は、映画産業を通して、ガーナの国家的発展を企図しようとしていたのである。

 

ンクルマ政権時代、ガーナの映画産業は国策の名目により推進がなされていき、国営企業であるガーナ映画産業公社により独占されていた。ガーナの映画産業は厳しいコントロール下において推進されていった。

 

また、1959年には検閲委員会が設置され、ガーナ政府から資金提供を行い、 上映する国際映画を決定し、強い影響を映画業界に与えていた。

 

映画産業の権力のシフトは、1957年から1966年の間に移行し、映画産業の健全な生産性が確立される。少なくとも、産業としてガーナ国内で確立されていく過程、映画館で上映される作品自体がなんらかの政治的思想性、プロパガンダの意味を持っていたことは事実のようである。

 

 

4.ガーナ映画産業の最盛期

 

 

1966年、映画産業を肝いり政策として打ち出していたンクルマ政権が終焉を迎えた後、ガーナのコロニアル映画産業は、一時的に、ゼロからの出発の時期を迎えざるをえなくなった。

 

政権が崩壊してまもなく、彼の政権時代に上映されていた映画作品は全て没収されてしまったのである。しかし、一方、映画産業を再構築させようという動きも起こった。ガーナ映画産業公社には新たなシステムが組み込まれ、ガーナ国外の映画関係者が共同制作、共同監督を手掛けることが可能になったのである。


このガーナの内向きな映画文化に新鮮な空気を与えようとする政府の決定については、ガーナの映画産業の救済策として打ち出されたものであるが、これはガーナの映画文化を発展させるどころか衰退させる負の要因となったという見方もあるようだ。

 

映画業界が国外からの資金調達を検討する必要有りと感じたため、反面、ガーナ政府は、国内の業界全体に対する資金調達を削減した。これにより、ンクルマ政権下では長編映画の制作が盛んであったが、この後代には長編映画制作が減少の一途をたどった。

 

さらに、シネマティックメインストリーム(映画館での上映)は国際映画、例えば、ハリウッドの映画で独占されていたため、国内の映画作品の上映機会が減り、唯一、ガーナのテレビネットワークだけがガーナ国民にとって国内の映画を鑑賞できる数少ない機会となった。

 

結果、ガーナの映画産業は一時的に創作面で衰退していかざるをえなくなり、1966年から1980年代にかけて、ガーナ映画はおよそ20本しか制作されることはなかった。国家の支援、資金不足、および、ガーナの全体的な経済の衰退によって、国内事業の一貫である映画産業は、株価の変動に喩えて言うなら、底を打ったというふうにもいえるだろう。

 

 

5.独自のキネマカルチャーの確立

 

 

ガーナ映画産業公社が国内の映画産業を独占していたこと、映画業界内での資金不足のために、その後、ガーナ人はより独立した映画産業の構築に活路を見出そうとした。それがガーナ内でのインディー・シネマともいうべきカルチャーへと変化してゆく。

 

この動きは、独学の映画製作者であるウィリアム・アクフォによって推進されていった。他の多くの人と同じく、アクフォは自分の映画のために州から資金を調達することが出来なかったので、自分のポケットマネーで自主映画を作成しようと試みたのである。

 

ウィリアム・アクフォは4つの壁方式(映画製作者が映画の全期間に渡ってスタジオ、ステージを借り入れ、劇場の所有者の対価を支払うのでなく、自分のためにチケットの収益を維持する)に従い、映画を低予算で撮影し、自作のスタジオで上映をすることにより、コストを軽減した。

 

ウィリアム・アクフォのこの4つの壁方式として制作された映画の中で最も代表的な作品が、1987年にリリースされた長編ビデオ映画の「Zinabu」だった。この映画は、ガーナのビデオ映画業界に大きなブームを引き起こした。

 

 


 

それから時を経ず、ガーナの首都アクラには、数多くの新しい映画館が建設され、映画ライブラリーが作成され、アクラの町の隅々まで新しい映画を宣伝するバナー、ポスターが沢山貼り出されるようになった。これに従い、ガーナの映画産業は新しい段階に入った。この頃から、ガーナの映画業界は「ガリウッド」と呼ばれ親しまれるようになった。



6.1980年代から1990年代のキネマブーム、モバイルシネマ



1980年代からイギリスの植民地支配以来、初めて、映画はガーナの人々の現代の信念や社会問題を活写する芸術表現へと昇華されるようになった。この時代から、ようやく一般の人々が映画で描かれる日常的な問題について、自分たちの生活と直結した身近なテーマを見いだせるようになった。

 

この時代から、ガーナには移動式の映画館が街なかにお見えするようになった。車の荷台に自動の発電機を取り付けて、その電力により映画を上映するというモバイルシネマという独特の文化が登場した。

 

Ghana Moblie Cinema

 

多くのガーナ人は、この移動式のモバイルシネマに夢中になったはずだが、この文化から副産物的なアート形態が登場した。

 

それが映画の宣伝の為の広告ポスターであった。これは、当初、ハリウッドから輸入された映画、アクション映画、ホラー映画、あるいはセクシー映画などの広告をガーナのデザイナーたちが手掛けるようになったのだ。

 

その始まりというのも、最初は、紙の原料が不足してたため、苦肉の作として小麦袋に絵を描くという原始的な手法であったが、独特のB級の味わいのあるポスター文化が花開いたと言える。

 

そこで描かれるポスターはどことなく不気味な印象でありながらコミカルなタッチが魅力の独特のドローイングアートが生み出されるに至った。 

 

 


 

にわかに信じがたいのは、ハリウッドの配給会社から事前に実際の映像が提供されることは稀であり、これらのポスターのデザイナーたちは映画の内容を自分たちでイマジネーションして描いていたというのだから驚きである。このモバイルシネマ時代のポスターを見るにつけ感じるのは、いかに人間の想像力は素晴らしいものであるのかということだろう。

 

 

7.GFIOの事業売却とガーナ国内の映画産業の終焉


 

1980年代にかけてガーナの映画産業は最初の植民地時代からの長い年月を経てようやく花開いたが、1990年半ばに入り、急速に衰退していくことになった。この要因というのは、最初は厳しい監視下で開始された映画産業が、ガーナ国内でコントロールしきれなくなっていったからだ。

 

結果として生じた問題が、映画自体が、巨大産業というより、自主的に楽しむ芸術としての要素がつよまっていったのではなかったかと思われる。

 

最終的には、植民地政策の一貫として国策事業として始まった「Ghana Film Industry Corporation」(GFID)の存在感する意味も、1990年代からミレニアムの節目にかけて徐々に薄れていかざるをえなかった。

 

その後、ガーナ国内では、映画の違法コピーと配布の割合が高くなり、「性別、暴力、強盗、人権的な偏見、女性差別」といった過激なテーマの映画が頻繁にマーケットに出回り、制作内容の検閲が全く行われなくなり、ガーナ国内の映画産業は無法状態に近くなっていた。おのずと、国家的な事業として始まったGFIDはガーナ政府の重荷になりかわっていた。


そのため、州政府は、このGFIDの株式の約70%をマレーシアのクアラルンプールの制作会社に譲渡することに決定した。

 

これはガーナの映画産業を救済する試みに思えたが、結果としてこの譲渡は産業を閉じていく要因ともなってしまった。

 

GFIDは、「Gama Media System LTD」に名称が変更されたが、新会社は既存の弱りかけた産業構造を回復することも新システムを構築することも出来なかった。2000年代には、1980年代から盛んだった映画館も軒並み閉館となり、コロニアルシネマとして栄えた栄華産業も衰退の一途をたどった。

 

アクラ地域の街には、現在も閉館となったまま土地の買手のつかない映画館の建物だけが多く残されている。



 

もし、仮に、このガーナで映画産業が再興するか、それに類する華やかなカルチャーが再び花開く時があるするなら、本当の意味で、このガーナの首都アクラの人々が国策として押し付けられた思想文化を無理矢理に推し進めるのではなく、自分自身の手に「真の権利」というものを誇り高く勝ち取り、その後アフリカ独自の芸術表現が生み出されるかどうかによる。 その時まさに、本来の意味のアフリカ、ガーナの独自の芸術、表現形態と呼べる素晴らしきものが新しく出来するはずだ。