Dr.Martens  パンクスから広がった反逆の象徴


Dr.Martens




 

 

モッズ、パンクロックの象徴としてだけではなく、VOGUEのファッションショーにも取り入れられた歴史を持つDr.Martens。現在、ドクター・マーティンはセールス堅調で、根強い人気を誇る革靴です。


ゴムソールという動きやすさを追求した画期的なブーツは、どのように生まれたのでしょうか、ドクター・マーティンが市場に流通するようになっていったあらましを今回追っていきます。

 

 

戦後の混乱の時代

 

そもそも、ドクター・マーティンは、現在、革靴生産の盛んなノーサンプトンシャーのシューメイカーとなっていますが、起源は第二次世界大戦後に求められます。当時、ドイツの軍医であったクラウス・マルティンス博士が1945年の休暇中、バイエルン地方のアルプス山脈でスキーをしていた際、足首に怪我を負った。彼は、その後、軍から支給されたミリタリーブーツは、自分の怪我をした足には適さないことに気が付きました。なにせ、当時の革靴の素材といえば、どれだけ履きつぶしても壊れない頑丈さを重視していたため、固く、重く、あるきにくい素材が主流だったのです。そこで、マルティンス博士は、怪我から回復する間、柔らかい靴底のゴムソールと空気を取り入れるためのホールを設けたブーツを生み出そうという計画を立て始めたのです。


高価な皮革の原材料の問題について、マルティンス博士は濡れ手に粟といった形で獲得してみせます。第二次世界大戦後の混乱の中で、ミュンヘンでは、ドイツ人の貴重品掠奪が始まった際、マーティン博士はチャンスを見出し、廃材中からゴムや革の素材を廃屋となった靴屋から奪取する。革の素材を用い、現在、有名なエアークッションの効いたゴムソールと組み合わせ、マルティンス博士は改良を重ねながら、新しいブーツを生み出しました。これがドクター・マーティンの始まりでした。

 

マルティンス博士は、この革靴を個人的なものにするだけではなく、一般の人々にも履いてもらいたいと考え、このブーツの製品化の計画を立てはじめました。 その後、彼はミュンヘンで大学時代の旧友だったハーバート・フンクに再会を果たす。この時、マルティンスはもの試しと新たな革靴をフンクに紹介しました。たちまち、フンク博士も、友人の制作した革靴に興味をそそられ、開発に協力し、尽力するために手を貸す。二人は、ドイツ空軍飛行場から廃棄されるコムタイヤを原料にして、ドイツのゼースハウプトにて、本格的なブーツの生産に乗り出します。


マルティンス博士とフンク博士

 

マルティンスとフンクは、1947年に正式な靴生産を開始し、クッション性に優れたゴムソールを生み出し、この製品はミリタリーブーツしか履いたことがなかった主婦や年配の女性の間で人気が高まり、次の十年間において、ドクターマーティンはビジネスとして、急激な成長を遂げていきました。最初の十年間のドクターマーティンの売上は、意外なことに、その80%が40歳以上の女性で占められていた。これらの人々は、頑丈で、軽く、動きやすい革靴を求めていたのです。

 

 

グリッグ社の買収、さらなる事業拡大 

 

ドクター・マーティンの売上は1952年、ミュンヘンに工場を開くほどに増大。1959年には、マルティンとフンクの両博士が、国際的な製靴市場を視野に入れる規模に成長した。マルティンは、この後、さらなる事業拡大を視野に入れ、ヨーロッパ中の雑誌で、マルティンスの靴の大々的な宣伝を打ち、ドクター・マーティンの名を広める。

 

同時期、イギリスの主要な靴製造メーカーであったR・グラッグス・グループLtd(当時、グリッグスは、英ノーサンプトンシャー州のウォラストンという街で創業したシューメイカーで、55年の長い歴史を持ち、頑丈なワークブーツを生産することで確固たる評判を獲得していた)のグリッグス社長が、ドクター・マーティンの雑誌広告に着目し、企業買収へと乗り出した。その後、グリッグLtdはイギリスでの特許権を所得。同時にドクター・マーティンのネームライセンスを買収した。

 

Griggs Ltdとの契約 マルティンス博士は左から二番目


 

買収後、グリッグは、ドクターマーティンの靴のデザインをそのまま採用し、フィット感を改良し、かかとを丸みを帯びた球根上のアッパーを追加し、現在の商標である対象的な黄色いステッチを施し、靴底をエアーウェアーという名称で商標登録を行った。グリッグは、1960年に、ドクター・マーティを伝説的な8ホールブーツ、「1460」として英国内で大々的に紹介し、このメーカーの代名詞的なモデルとなった。

 

 

8ホールブーツ、「1460」


「1460」は、1960年4月1日に、現在も稼働しているノーサンプトンシャーの工場で最初に生産された。この製品は、当初、イギリス国内で、二ポンドの低価格で売り出された。ドイツでは、主婦層に人気であったのに対し、イギリスでは、郵便局員、警察官、工場労働者など男性の労働者階級の間で大きな人気を博しました。

 

 

 

サブカルチャー、反逆の象徴としてのドクター・マーティンの浸透


最初に、このドクターマーティンを音楽業界にもたらしたのは、モッズシーンの代表格ともいえるザ・フーのギタリストであるピート・タウンゼントだった。彼は、ビートルズのはきこなしたチェルシーブーツよりも動きやすいライブ向きの革靴を探していたところ、この8ホールの「1460」を見つけて購入した。ピート・タウンゼントは、このドクター・マーティンを最初にライブステージ上では着こなした人物で、見事なジャンプをしている写真も残されています。

 

The Who Pete Townshend


 その後、スキンズと呼ばれるサブカルチャーがロンドンを席巻した時、ドクター・マーティンは、労働者階級のユニフォームの一部として取り入れられていく。ドクター・マーティンはパンクロックの若者のアイコン、特に、スキンズ、ハードコア・パンクの象徴と変化していきます。1970年頃になると、イギリスのパンクロックスターの間で人気を博し、彼らの取り巻きもこのドクター・マーティンを履き好むようになりました。この1970年代当時、特に、「God Saves The Queen」でおなじみのSex PistolsのSid Vicisio、「London Calling」でおなじみのThe Clashのジョー・ストラマーが、ドクター・マーティンを履き好んでいたようで、

 

The Clash

 

黒いライダースの革ジャンとともに、ドクター・マーティンの革靴をパンクロックのシンボル的な存在に引き上げています。また、ドクター・マーティンの名は、アレクセイ・セイルの歌の題名にも使われ、スカバンド、Madnessの「The Business」のカバーアートにも登場するようになります。

 

 

いわば、この1970年代のロンドンにおいて、ドクターマーティンとパンクスの若者は、深い関係を結び、靴をカルチャーの一部としてファッションを取り込んでいったのです。すぐに8ホールの1460と呼ばれるブーツは、デニムやスタプレストのズボン、ボタンダウンジャケットと組み合わさって、スキンヘッド文化の象徴ともなっていきます。1970年代後半になると,セックス・ピストルズを始めとするパンクバンドが挙って、大手のメジャーレーベルと契約を果たし、スターミュージシャンとなったのが要因となり、サブカルチャーとしての文化が急速に衰退していきます。

 

それに伴い、パンク文化は急速に衰退し、The Exploitedはそれを嘆き、「Punks Not Dead」と歌うようになりますが、ドクター・マーティンは、パンクロック文化はその後も、スキンズの復活、グラム・ロック、ゴス、ニューロマンティックらのバンドのファッションとして継承されていきます。そして、ひとつ重要なことは、これらのイギリスの若者がドクターマーティンを革ジャンとともに愛用しまくっていたのは、おそらく、このファッションアイテムを社会にたいする反逆の象徴としてみなし、その概念に、若者として、大きな賛同をしめしていたからなのです。

 


ドクターマーティンとグランジ


1980年代になると、ドクター・マーティンは、イギリスの若者文化と労働者階級の象徴として認めらました。当時、保守党が提案した緊縮財政と社会改革は、イングランド国内において、多くの不安と多くの若者たちの反感を巻き起こす。

 

そんな中、ロックンロールに代わるオルタナティヴロックがミュージック・シーンを席巻するようになる。そして、このことは海を隔てて遠く離れたアメリカも全然無関係ではなかったのです。いつしか、ドクター・マーティンはその反骨精神という概念を携えて、シアトル、アバディーンを中心に形成されたグランジシーンのバンドのファッションに取り入れられていくようになりました。

 

これらのグランジロックに属するアーティストは、そのほとんどがパンクロックにルーツをもち、好んでドクター・マーティンを履きこなして、アメリカにおけるドクター・マーティン人気に拍車をかけました。

 

Alice In Chains

 

 

メルヴィンズ、アリス・イン・チェインズ、パール・ジャム、サウンドガーデン、これらの1980年代のアメリカのロックンロールにノーを突きつけ、暗鬱で重苦しい雰囲気を持ち、不敵な雰囲気をたずさえたロックバンドたちが、アメリカのインディーロックシーンを席巻していく中、ドクター・マーティンは、これらのグランジアーティストのファッション面で重要な役割を果たし、アメリカにとどまらず、世界的な資本主義社会の完全な行き詰まりを暗示した1990年代のグランジロックの重要な概念のひとつである「敗者の子供」の美学と調和を果たしながら、この年代を通して、アメリカでのドクター・マーティン人気を高めていったのです。

 

 

近年のドクター・マーティンの事業

 

1990年代になっても、ドクター・マーティンは根強い顧客を持ち、高い収益率を保持するシューメイカーであることに変わりはありませんでした。ドクター・マーティンは、ロンドンのコベントガーデンに六階建てのデパートを持ち、毎年1000万ペア以上の靴を製造する生産ラインを所有していました。

 

しかしながら、2000年代前後、ミレニアムの変わり目に収益が落ち込み、2003年に利益が著しく急落し、破産申請を行っています。その後、ドクター・マーティンは、イギリス国内で1000人規模の雇用者を削減し、生産コストを極力抑えるため、ドクター・マーティンの主要な生産工場を、イギリス国内から、タイ、中国に移行しています。

 

この動向に関しては、 これまでのメーカーの理念、英国のミッドランドの中心部で作られた純英国製の高い品質のブーツを顧客に提供する、というドクターマーティンの考えにそぐわないものでしたが、これはこのメーカーの生き残りをかけて選択された苦渋の決断のひとつといえるでしょう。

 

その後、ドクター・マーティンはかつてのような勢いを取り戻し、2010年代には売上が再上昇。2021年現在も数々のコレボレーション企画のドクターマーティンモデルを発売しyたりと数々の試行錯誤を重ねながら、安定した販売数を獲得。 その中のコラボレーションの何はYohji Ymamoto,Nepenthes,Suprem Bathing Apeといった素晴らしいデザイナーが並んでいます。

 

また、近年は復刻版のクラシックモデルのDr.Martensの生産も行われています。1960年代のDr.Martensのモデルの再現に焦点を絞った「The Vintage Collection」、またオリジナルのR。Griggのスペシャルコレクション「Made In Rngland」など、現在も魅力的な製品ライナップが展開されています。

 

パンクロックの反逆の象徴としてでだけではなく、近年には、デイリーカジュアルとしても普及しているドクター・マーティン。その魅力は、実際に履いてみてこそ分かるといえるかもしれません。