Prince Rogers Nelson ミネアポリスが生んだスーパースター  メジャーデビューまでの道のり

1.プリンス誕生

 

 

ミネアポリスサウンドの原点はどこにあるのか?

 

 

Prince ‘purple rain’"Prince ‘purple rain’" by Stephen Alan Luff is licensed under CC BY 2.0

 

 

通称プリンス、プリンス・ロジャーズ・ネルソンは、アメリカ、ミネアポリスが生んだ最大のロックスターです。いわゆる、ミネアポリスサウンドの立役者といわれており、ロック、R&B、電子音楽、はてはヒップホップまでを取り込んだ、クロスオーバー・ミュージックの元祖ともいえるアーティストです。ここでは、プリンス・ロジャーズ・ネルソンのメジャーデビュー迄の道のりについて大まかに記していきます。


 

プリンスは、1958年6月7日、アメリカ、ミネソタ州ミネアポリスに生まれました。 プリンスという名は、後のミュージシャンとしての名でもあり、また、両親が彼に授けた本名でもあります。この王子という名はそもそも父親のジャズグループから取られたもので、ジョン・ルイスの思い、息子に素晴らしい音楽家になってもらいたい、という悲願が込められていたのです。

 

プリンスの両親、特に、父親のジョン・ルイス・ネルソン(John L Nelson)は、ジャズ演奏家として活躍した存在でした。1950年代、ジョン・ネルソンはピアノを弾き、ノースサイドのクラブやコミュニティセンターで演奏するジャズグループ、プリンス・ロジャー・トリオを率い、ストリップクラブの舞台裏でギグをし、ミュージックシーンで名をはせていました。ルイス・ネルソンは、フィリス・ホイートリー・ハウスと呼ばれる場所で、後にプリンスの母親となるマティー・デラ・ショーと出会い、彼女を自分のバンドで歌うように言った。その後、彼らはこの音楽グループの活動を通じて仲を深めていき、それは、ロマンチックな意味を持つに至る。後、ジョン・ルイス・ネルソンは1957年8月31日にデラ・ショーと結婚、その数カ月後に息子プリンスを授かる。

 

若い時代の最初の記憶について、プリンスは、晩年になって手掛けたこのように記しています。

 

「私達が住んでいた家には、 プリンスと呼ばれる存在が、実は二人いたんです。家計を率いるすべての責任を負っている年配の人間、そして、素行だけが面白い年下の人間」

 

プリンスは、家族内で”スキッパー”という愛称で親しまれ、上記のプリンス自身の言葉からも、家庭の中でも活発な気質をもつ子供であった。彼は、特に父親のルイス・ネルソンのピアノの演奏に触発され、父親からピアノ演奏の手ほどきを受けたようですが、ジョン・ルイスほどにはピアノは上達しなかったようです。また、プリンスは、幼い時代に、小児性てんかんを患っていましたが、成人する頃になると、その病を克服しています。後のプリンスの派手なパフォーマンスやステージングについては、この幼少期に培われた暮らしによるものが大きいようです。後に、ルイス・ネルソンとデラ・ショーは7歳の頃に離婚し、プリンスは父親方に引き取られます。

 

プリンスは、学生時代、ミネアポリス中央高校に通い、様々なスポーツに親しむようになります。サッカー、バスケットボール、野球をプレイし、中でも、バスケットボールに夢中になった。一度は、プロ選手になることを夢見ますが、身長が5フィート1インチという小柄な体格であったため、その道を断念する。

 

彼は、この後に、ジャズプレイヤーであった父親と同じように、ミュージシャンとしての道を歩むようになります。ハイスクール時代の二年生の半ば、プリンスはバスケットボールを辞め、音楽室でのジャムにあらゆる時間を捧げるようになる。しかし、彼は他の音楽好きの生徒のように、スクールバンドに参加したり、正式なレッスンを受けることはしなかった。それどころか、なんらかのグループに入ったり、体系的な音楽教育を受けることに対して嫌悪感を抱いていたようです。

 

このとき、プリンスは、楽譜が読めないミュージシャンとしての道、自由な気風のミュージシャンであることを選択した。この学生時代、プリンスは、さらに音楽にのめり込んでいき、あらゆる音楽を探求、吸収しようと、北ミネアポリスのAMラジオ曲KUXLでオンエアされているアーティストの楽曲、とりわけ、ジョニー・ミッチェル、マリア・マルダー、カルロス・サンタナ、そのほか、グランド・ファンク・レイルロード、スライ・ザ・ファミリー・ストーン、ジミ・ヘンドリックス。R&B,ソウル、ファンク、ロックを中心に聴いていたようです。

 

 この後、プリンスは、アンドレ・アンダーソン、そして、従兄弟であるチャールズ・チャズ・スミス、アンドレの妹であるリンダ・アンダーソンと協力し、”グランド・セントラル”という最初のミュージックグループを結成して、地元ミネアポリスを中心に、バンドとして活動をはじめています。


Grand Central



グランドセントラルは、近隣の対バンのショーケースで、悪名と自慢の程を競っていた。この頃の音楽活動について、ロジャー・ネルソンは、1981年になって、Aquarian Night Owlに以下のように語っています。

 

 

「私達は他のバンドと競い合うようにして活動していました。その理由は、同じようなバンドが地域内に混在していたからです。

 

多くの精神的なものが培われた時代でした。それは、私が自分自身から抜け出し、なにか新たな存在になり代わることに大変役立ったと思います。他のバンドから何かを模倣すると、大変な苦労を強いられましたし、コピーバンドに留まる事自体が困難だったのです。

 

本当に競争力というものが問われた時代だった。この時、私はできるだけ活動的になり、他の人と違った何かをせねばならず、そして、できるだけ多くの楽曲を積極的にプレイしなければならなかった。そうでなければ、音楽家として注目を浴びることすら出来なかったんです。

 


驚くべきことに、後に、世界的に有名となる”ミネアポリスサウンド”の萌芽は、このハイスクール時代に見いだされるわけです。ファンク、ロック、パンク、ディスコ、モダンミュージックとオールドミュージックのクロスオーバーサウンド。後の「パープル・レイン」や「1999」の時代に花開く、奇抜で斬新で艶やかなプリンスの音楽の雛形の原点は、この時代に求められるといえるでしょう。ハイスクールを卒業するまでに、プリンスはミネアポリスサウンドを開発し、そして、ミネソタからの脱出、さらに、世界的なミュージシャンとしてのスターダムへの階段を一歩ずつ着実に上っていた。そういった様子がこの時代のエピソードから明確に伺えるのです。

 

 

 

2.レコードデビューまでの足がかりを作る 

 

 

ミネソタとニューヨークの往復 

 

この頃から、ロジャーズ・ネルソンは、プロミュージシャンになるための目策を立て始めました。彼はレコード契約を結び、ヒット曲を生み出すためには、ミネアポリスから抜け出す必要があることを知っていました。
 
そこで、プリンスはハイスクールを卒業するまもなく、地元のソニー・トンプソンのバンド、ザ・ファミリー、グループ94イーストとのレコーディングセッションで得た資金を利用し、ニューヨークへの旅行計画を立てます。
 
 
Group 94 East

 
 
彼はこの計画を立ててからすぐに、ぺぺ・ウィリー、姉のシャロン・ネルソンと新天地に滞在、そしてレコード会社に自分自身の名を売り込むために、ニューヨーク市へのフライトを予約します。
 
 
しかし、ニューヨークに滞在していた頃、彼はコネクションを作るのに苦労し、容易にはレコードプロデューサーとの知己を得られずにいたようです。
 
 それから、プリンスは一度、ミネアポリスに戻り、クリス・ムーンと呼ばれる若いプロデューサーと一緒にデモテープを作製し、「Soft And Wet」という一曲を生み出します。プリンスはこの曲をライティングした際、すでにこの楽曲がミュージックシーンに強い影響を与えることを確信していました。
 
クリス・ムーンは、この楽曲「Soft And Wet」をオーウェン・ハズニーという著名なコンサートプロモーターに紹介し、プリンスという存在がいかに際立っているかを知らしめようとします。
 
 
 
Owen R.Husney 

 
 
すでに、音楽業界の大のベテランだったオーウェン・ハズニーは当時、ミネアポリスのローリングパーク地域で個人広告事務所を運営しており、なおかつまたレコードプロデューサーとしても活躍していて、何年にも渡り、数多くのデモテープを聴いて新人を発掘を行っていた人物です。
 
 
しかし、このプリンスのデモテープを聴いた瞬間、オーウェンは、凄まじい衝撃を受けたといいます。
 
このプリンスと名乗るハイスクールを卒業したばかりのアーティストが既存のミュージシャンとは全く逸脱した存在であることを見抜く。プリンスの提示する音楽は当時としてはあまりに革新的でした。
 
スライ・ザ・ファミリー・ストーン、ジミ・ヘンドリックス、サンタナ、といったファンクとロックの偉人たちを彷彿とさせ、ボーカルについても想像をはるかに上回り、強力でありながら繊細なファルセットが感じられたという。
 
オーウェン・ハズニーはプリンスの音楽を最初に聴いた時のことを、以下のように回想しています。
 
 
 
 
「ああ、これは何かが違う、すぐに気が付いた。私は楽曲「Soft And Wet」の再生を終えるや否や、デモテープを持参したクリスの方に向きなおった。
 
 
「ふうん。で、じゃあ、この曲は、どのバンドがやっているの?」と尋ねた。
 
 
クリスはこんなふうに言った。
 
 
「ああ、オーウェン。その曲を演奏しているのはバンドじゃあないんだ。そう、バンドではないんだ」

 
それで、私は釈然とせず言葉を継いだ。

 
「ああ。わかったぞ。これはスタジオ・ミュージシャンの集まりなんだな? うーん、でもなあ、私は正直なところ、スタジオ・ミュージシャンとは仕事をしたくないんだ。 なぜって彼らはツアーが出来ないじゃないか?」

 
「いや、オーウェン。本当に、これは、スタジオ・ミュージシャンが演奏しているわけじゃないんだよ。いいかい? 今から、僕が言うことをよーく聞いてくれ。この曲を演奏しているのは一人の少年だ。十八歳になったばかりのプリンスという少年だ。彼は、この曲のすべてを自分自身の手で演奏している。自分で歌い、すべての楽器を演奏しているんだ」
 
 
 
ミネアポリスの敏腕レコードプロデューサー、オーウェン・ハズニーのお眼鏡にかなったことにより、プリンスのレコードデビューへの道筋はついに開けたといえるでしょう。それから一週間程して、プリンスは、再び、ニューヨークからミネアポリスに戻る飛行機に乗り、ハズニーを介して、レコード契約を結ぶ。ハズニーは、プリンスと仕事を行い、ほとんど二十四時間体制で、彼の音楽活動をバックアップしました。それほどまでにこのプロモーターは、プリンスというもうすぐ18歳になろうかという年若い少年の音楽にただならぬ期待を寄せていたのです。
 
 その後、プリンスは、この専属に近い意義を持つレコード契約によって、アンダーソンズの地下室から、彼の地下室ともいえるミネアポリスのアパートメントを行き来しながら、楽曲の制作作業に専心する。
 
この頃、プリンスは、最初のプロミュージシャンとしての活路を見出すきっかけとなる知己を得ている。それが、”David Z”と呼ばれる、兄弟のミュージシャンでした。
 

 
David Zは、他でもなく、後に、プリンスの最初のレコード、「For You」リリースへの足がかりとなるデモテープ楽曲のエンジニアを務めたミュージシャンであり、ミネアポリスサウンドの原型を作ったプロデューサー、又は、立役者として、多くの人の記憶に残る必要がありそうです。

David Zのボビー・Z・リブキンは、ムーンサウンドスタジオ、そして、ハズニー広告代理店の双方に勤務していた人物で、プリンスのデビュー前の活動をサポートしていた重要な裏方ミュージシャンです。この後、プリンスのプロフィール用の写真撮影、また、彼のアーティストの予定を管理する専属マネージャーのような役割をも兼任し、また、実際に、バンドサウンドとしても重要な役目を果たし、プリンスのバンドで、ドラム演奏をするためのミュージシャンとして抜擢されています。
 
 
 
 

3. ワーナー・ブラザーズとの契約

 

 

デビュー・アルバム「For You」のリリース

 
 
David Z のボビーは、いざスタジオでプリンスとのセッションを始めると、とても18歳のアマチュアミュージシャンの若者とは思えないほどの演奏の熟練度に驚かされます。
 
 
 
プリンスがハズニーのオフィス内で楽器から楽器へと移動し、楽曲トラックのあらゆる要素を配置している時のことをこのように回想しています。
 

プリンスに出会った最初の一時間、私はどうしていたのかさえ覚えていない。ただ、私は目がくらみ、驚き、そして、彼の演奏に魅了されるだけだった。もちろん、あの時のことは、私にとって、生涯にわたり強い思い出として残っているんだ
 
 

夕方、プリンスは、オーウェン・ハズニーのオフィスでボビーと一緒にジャムセッションを繰り広げ、家具を演奏の邪魔にならぬように隅っこに押しやり、部屋のど真ん中にドラム、アンプリフターを据え置いた。朝日が昇ろうとする時、彼らは家具を元の位置に戻す必要がありました、なぜならそこは、他でもないオフィスであったからです。このようにして、ハズニーとボビーはプリンスに長い時間、プロレベルでの演奏をさせることで、プロミュージシャンになるための鍛錬の時を提供し、また、プリンスとジャムセッションを繰り返すことで、彼のレコードデビューの足がかりを作ったのです。


ミネアポリスのコンサートプロモーター、オーウェン・ハズニーは、プリンスのデビューへの機が熟したと見て、その道のりを開くためにロサンゼルスに向かう。ハズニーは、ワーナーブラザーズ、A&M、コロンビアとの会合を取り付けました。レコード会社側の反応は、軒並み好いもので、一週間以内に上記メジャー三社すべてが、プリンスと署名を行う最終決定を下しました。
 
 
その後一ヶ月以内に、オーウェン・ハズニーはこのメジャー最大手の三社の内から、ワーナー・ブラザーズを選択し、アルバム三作リリースの契約を取り付ける。オーウェンは間違いなく、プリンスという存在に、俳優としての潜在能力も見込んでいたため、ワーナーを選択したものと思われます。
 
 
そして、この時のオーウェン・ハズニーの決断は、のちのプリンスの自伝映画的な意義をなす「Purple Rain」、そして、サウンドトラックの商業的な大成功を見るかぎり、彼のこの時の決断は、疑いなくプリンスの明るい未来を約束したものでした。その後、トントン拍子で事は運んでいき、プリンスがワーナーのスタッフ20名との昼食会に参加した際、ついに、プリンス・ロジャーズ・ネルソンは、弱冠18歳という若さにして、ワーナーとの契約に正式に署名を果たす。この時のことについて、オーウェン・ハズニーは以下のような諧謔みを交えて回想をしています。
 
 
そうです。この時のワーナーブラザーズとの昼食会での契約は、確かに、プリンスの人生を変えた瞬間といえるかもしれません。しかし、はたから見てみれば、プリンスはこの昼食会を、それほど心から楽しんでいたようには見えませんでしたね。なぜなら、天性のスーパースターである彼にとっては、20人と昼食をともにするより、12000人の大観客の前で演奏をするほうが、はるかに心楽しいことであるはずなんですから


ほどなく、プリンスは他の殆どの言語よりも流暢な話法、つまり、メジャーレーベルとの契約に浮かれることなく、音楽制作に専心し、レコードデビューのために新しい曲を書き始め、レコーディングを開始します。
 
 
 
「I Hope We Work It Out」のプリンス直筆歌詞



このワーナーのスタッフとの重要な昼食会の後、プリンスは、ワーナーブラザーズの幹部をオーウェン・ハズニーのオフィスに連れていき、すでにデモテープとして完成していた「I Hope We Work It Out」を聴かせました。


この時、正式にアーティストデビューもしていない若者、プリンス・ロジャーズ・ネルソンの「I Hope We Work It Out」に接した時のワーナーブラザーズの幹部の驚愕について、オーウェン・ハズニーは、以下のように回想しています。
 
 
十八歳のまだ何者でもない若者が、レコードレーベルのために特別に楽曲を書いた、という事実に、誰もが感動を隠すことが出来なかったのを今でも覚えていますよ。なぜなら、この時、ワーナーのトップエグゼクティヴ達は、このプリンスという若者が音楽に対して、どれくらい信頼性があるのかを探りたかったのです。実際、「I Hope We Work It Out」のデモトラックによって、プリンスは自らのミュージシャンとしての実力にとどまらず、自分自身の実力以上の何かを彼らに提示することに成功したのです。もちろん、ワーナーの幹部が、この曲に真剣に聞いているのを眺めているのは、私の人生にとってもとても有意義な瞬間でもあったのです。
 
 
 
 ワーナーブラザーズから発売されたデビュー作「For You」は、1978年にリリースされました。 この時、プリンスは20歳でした。 
 
 
Prince 「For You」
Princeの鮮烈なデビュー・アルバム「For You」
 


 
デビュー・アルバムには、八曲のオリジナル曲に加えて、クリス・ムーンとのコラボレーション曲「Soft And Wet」が追加収録され、無事リリースに至りました。この作品は、ロック、ポップ、R&B、ファンクをクロスオーバーしたミネアポリスサウンドが一般に膾炙された瞬間といえます。勿論、このデビュー作「For You」はセールス面で、プリンスの後の代名詞となるスタジオ作「1999」や「Purple Rain」のような商業的な大成功を収めるまでにはいたりませんでした。しかし、それでも、「Soft And Wet」「Just Long As We're Together」の二曲がビルボード・ホット100にランクインを果たし、プリンスの存在感をアメリカのミュージック・シーンに力強く示し、のちのスーパースターへの最初の足跡を形作った瞬間でもあったのです。