1970年代を通して、ブライアン・イーノはこれまでにはなかった芸術における革新をもたらそうとしていた。
現代のインスタレーション芸術においても同じことではあるが、ブライアン・イーノという人物は、それが音楽にせよ、視覚芸術にせよ、それ自体を体験の一つと捉えており、なおかつまた、それらの音楽や芸術の鑑賞者に、一種の体験をもたらそうという意図を持っている。彼は、常に音楽や芸術を消費のためのものとは考えていない。それらの体験者に一種の気付きの体験をもたらし、それを自分なりに持ち帰り、あらためて自分の体験としてもらいたいと考えているのだ。もちろん、それはブライアン・イーノのアートの本質ともいうべきものを形成している。
「アート作品をオブジェクトとして考えるのをやめて、それらを体験のきっかけとして考え始めてほしい」と、アンビエントの創始者であるブライアン・イーノは、当時の日記に記している。ミュージシャンとしての成長と並行して発展した1960年代に彼が引き受けた視覚芸術(インスタレーション)のキャリアを支える創造的な衝動は、上記のイーノ自身の日記にかかれている精神そのものである。この概念を、カルフォルニア州立大学の美術館長であるクリストファー・スコーツ氏は、ブライアン・イーノ:ビジュアルミュージック(公共図書館蔵)で取り上げ、深く学問的に探求を重ね、40年以上にわたるイーノの音楽プロジェクト、美術館やギャラリーのインスタレーションのまたがる壮大なモノグラフ、あるいは豊富な展示ノート、それからスケッチブック、その他これまでに明らかにされていなかったアーカイブ資料について解き明かしている。イーノの芸術というのは一種の学問になぞられられてもおかしくはないのだ。
そもそも、アンビエントの発祥についても、全ては偶然性ーシンクロニシティから始まったわけであって、それを彼はかつての現代音楽家、ジョン・ケージとは異なる形で敷衍していこうとした。イーノは、生前のジョン・ケージと親交があり、少なからず音楽、あるいは芸術において直接的、間接的にかかわらず薫陶を受けていたのは事実である。そして、イーノ自身も、ロキシー・ミュージックから脱退し、ソロアーティストとしての活動を始めると、ケージの音楽に深い傾倒を見せ、自分自身の音楽との類似性と相違性に気がつくようになった。2005年の英国芸術評議会のインタビューにおいて、イーノは、以下のようにケージの作品との自作品との比較性に言及している。
「ジョン・ケージ・・・ある時点で重要な選択をしました。彼は最早、音楽コンテンツに干渉しないことを。しかし、私が選択したアプローチは彼とは異なるものでした。私は必ずしも干渉を拒否しない。私はむしろ干渉して誰かを導く手法を選びます。・・・例えば、ケージによって設計された音楽システムは、選択の余地がありません。彼は、頭から出てくるものをフィルタリングしたりしませんので、受動的にそれを受け入れるしか有りません。ところが、私のアプローチは、システムの完成を妨げたりはしないものの、最終的な決定があまり良くない場合は、それをきっぱり捨てて別のことをするというものです。これがケージと私との根本的な違いです。自分が実験音楽家であると考える場合、実験の一部が失敗することを受け入れる必要があるんです。失敗した作品も少しは面白みがありますけれど、他の人と共有したり公開するようなものではありません」
このことから、ジョン・ケージの方は割と一つの手法に拘泥するようなタイプであり、イーノの方はそれほど執着せず、多種多様な手法をアイディアの段階で変化させていこうとする策略家のような一面を持ち合わせている。
そして確かに、イーノの最も興味深いプロジェクトもまた上記の制作の途中の段階で偶然性をもたらし、一つのことで上手く事が進んでいかなかった場合は、それとは異なるアイディアを交え、完成へとこぎつけようとするイーノ独自の作曲技法が見いだされるのが、「オブリーク・ストラテジー」である。
これは、1970年代の半ばに、ドイツの作曲家ピーター・シュミットと協力し、「易経」に基づいて考案された一種の作曲技法のひとつである。芸術の革新を追求したこのプロジェクトは、当初、「百以上の価値のあるジレンマ」という字幕がつけられたデッキに、シンプルな黒のテキストが書かれた115枚の白いカードのセットによって構成されていた。これは、コンセプチュアルアートと呼ばれ、これらのカードは、本質的に、アイディアを生み出すために使われ、創造の段階においての壁を乗り越え、古い思考パターンを崩すために生み出された実用的な道具のひとつであった。
そして、この「オブリーク・ストラテジー」という概念は、デビッド・ボウイとの1997年の作品「Heroes」のレコーディング中に初めて実質的に取り入れられた。
特に、二人は、「Sense of Wonder」を制作している最中にこれらの実際音楽の作曲やレコーディング、マスタリングとは何の関係のないアイディアを記したカードを組み込むことにより、創作の段階で困難に突き当たった際、そのブロックを乗り越えようとした。つまり、ライターズブロックを打破するために生み出されたものである。そして、この「オブリーク・ストラテジー」は、本来、並んでいることとは別のなにかについて考えていたり、悩んでいることとは関係のない事柄について思いをはせている際に、実は一番良いアイディアというのは生まれるものらしい。
その後、ブライアン・イーノは、アンビエントを生み出した後に、音楽の領域だけではなく、元々芸術学校で教育を受けた人間としての素養を活かし、現代芸術のひとつ「インスタレーション」の領域に活躍の裾野を広げていった。
後の時代になり、ブライアン・イーノは「なんでも芸術であり、誰でも出来る」という大胆な宣言をし、前衛とフルクサス運動のうねりの中で、彼の正式な芸術教育で、音楽と視覚芸術の融合に直面することになった。
いうなれば、音楽においては革新的なことはやり終えたたため、その向こうにあるインスタレーションというフィールドへ踏み入れていったわけである。彼はまた、伝統的な芸術の世界の専門化や制約という概念に反旗を翻し、創造性の包括的なモデルを共感的に受け入れ、次のように主張している。
「美術学校では、段階的に何をすべきかおしえることと、あなたがやりたいことを自由にやることの間で、なんとかバランスを取ることが出来ます。学校としての方向性は、根本的に、 専門家の育成、そして、野心、目標、アイデンティティの提供に向けられています。画家、彫刻家などの正しいアイデンティティを前提にすることにより、市場にたやすく参入できるからです。しかし、その時に培われたアイデンティティというのは他方、大きな束縛ともなります。その価値観を身につけて外に出ていくのは非常に危険なことです」
また、 ブライアン・イーノ:ビジュアルミュージックの序文では、かつてイーノの教師であった芸術家、サイバネッティクスのパイオニアでもあるロイ・アスコットは、ブライアン・イーノが既存の芸術のシステムのどの領域に属するか究明しようとしている。
「イーノの作品を、歴史的な枠組みの中に見出そうとすると、三重の三角測量が必要となるでしょう。英国の伝統におけるその三角形は、ターナー/エルガー/ブレイクのようです。そして、ヨーロッパでは、マティス/サティ/バークソンです。さらにアメリカでは、ロスコ/ラ・モンテ・ヤング/ローティが当てはまるでしょう。ただし、中近東とアジアの文化に基づいた三角測量も必要になるため、この3つの観点の三角測量だけでは、不十分です。・・・ここでは、二次サイバネッティクスを採用してみる必要があるでしょう。 文化的内地を測定しようとする試みは、相対的であり、鑑賞者に依存しており、常に不安定で、変化し、制限がないというのが個人的な認識です。
しかし、イーノの芸術を理解するための彼の一連のアプローチからは、彼の降伏と瞑想の美学の本質を簡単には認識しえないでしょう。その点で、彼は一種のマルセル・デュシャンのような無関心を貫いている。彼の芸術の根底にあるものとは・・・、それは平穏の静かな祝福と呼ぶべきものです。
ブライアン・イーノの最大の成果、そして彼のインスタレーション芸術、これらを非常に特異でありながら、同時に多くの人の心に共鳴し、さらに欠かさざるものにしているのは、間違いなく、彼自身のアイデンティティの探求ともいえる。創造的自己が必然的に分裂する文化的な景観の中において、イーノはこれまで一貫して、幅広い分野ないし知的分野を跋渉し、同時に統合の芸術を積み上げてきた。ロイ・アスコットは、それを以下のように美麗に表現している。
「そもそも、このアーティスト自身のアンビエントの自我同一性を認識しなければ、 イーノの芸術における自我同一性についても把握することは出来ません。これには、哲学、視覚芸術、パフォーマンス、音楽、社会的、および、文化的解釈、活動、といった行為のどこに彼自身が立ち位置を取っているのかを十分に把握しておく必要があるでしょう。・・・少なくとも、これまでのキャリア全体を通して、ブライアン・イーノは、自我同一性を追求してきただけではなく、光、音、空間、そして色彩を自由自在に使用し、それらのアートの参加者が自己性における境界に背くことを、楽しく、そして、情熱的に共有出来るコンテクストを提供してきたことだけは確かなことです」