渋谷慶一郎 「ATAK026 Berlin」
Label: ATAK
Release: 2022年9月11日
Review
本作「ATAK026 Berlin」は、渋谷慶一郎が主宰するATAKの設立20周年を記念してリリースされました。2008年にドイツ・ベルリンのメディアアートの祭典「Transmediale」で行われたライブパフォーマンスのために作曲された楽曲群を2022年に再構成、細部に至るまでエディットしなおしたという。また、このアルバムでは、ドイツの生物学者、カオス理論のレスラーアトラクター、オットー・E・レスラーとの2008年当時にベルリンで行われた対話から引用されたサンプリングも「War Cut」に導入されているのに注目です。
これまで、最愛のパートナーであったMariaの死去に捧げられた美麗なピアノ曲、Alva Notoを彷彿とさせるようなノイズ・グリッチ、さらに、その他、初音ミクとの大掛かりなコラボレーション・ミュージカル、常に前衛性に重点を置いた実験音楽に挑戦してきた渋谷慶一郎氏は、この作品において、ノイズ・グリッチの先鋭的な方向性を探っている。この新作アルバムに収録されているサウンドは、東京大学教授の池上高志とのコラボレーションを元に生み出されたもので、サイエンスデータをコンピューター内部で変換し、再生されたノイズをかけ合わせたものとなっています。
ここで、渋谷慶一郎は、最新鋭のグリッチ作品を提示しており、それらは数学と映像を融合させた池田亮司のアプローチに近い音楽性を選んだようにも見受けられる。元々、グリッチはコンピューターの誤作動、エラーにより発生した電子音楽の一つなんですが、そのノイズを物理的あるいは数学的に組み直そうと、これまでに存在しえなかった実験音楽にチャレンジしています。
物理学には疎いので、どういった意図でテクノロジーのエラーが作製されたものなのかを指摘することは難しい。しかし、これは、どちらかと言えば、これは、Ovalの最初期のグリッチの流れを汲むもので、徹底して感情性を排したかのような無機質なミニマル・ミュージックが展開されている。「ATAK026 Berlin」は、決して人好きする音楽を狙ったわけではないし、一般的な音楽とも言いがたいものの、日本の電子音楽アーティストとしてヨーロッパの最前線の電子音楽に勇猛果敢に挑戦していることは、正当に評価されるべきでしょう。明らかにノイズ性を突き出した前衛的なアプローチを、渋谷慶一郎は今作において追究しているように思えますが、それは、この上なく洗練された形で提示されている。これは、レコーディングやミキシングを深く知悉した音楽家・プロデューサーだからこそ生み出すことが出来る実験音楽とも言えるのです。
アルバム全体は、SF調の雰囲気が漂い、各々の楽曲は精細な音によって構成されている。これらのノイズが既存の音楽と異なる点は、分子や粒子ひとつひとつが集積し、「音」というエネルギーを構成するという、科学の神秘を解き明かしているように思えます。さらに、精細なノイズにより、どのような音響空間を演出するのか、また、サウンドスケープを描くのかが、この作曲者が念頭に置いていたテーマだったと推察される。であるとするなら再構成によりその意図はほぼ完全な形として昇華されている。
アルバム全編には、一貫して、ノイズ・グリッチのアプローチが取り入れられていますが、それは必ずしも単調なものであるとは言いがたく、わずかに電子音楽としてのストーリー性を感じさせるものとなっています。例えば、「Metaphysical Things」では、それらの手法の延長線上にあるアシッド・ハウスにたどり着く。さらに、クローズ・トラックの「Near Death Experience」はその手法を受け継いだ上、ドローンに近い音楽性へと転化する。これはノイズの連続音の行き着く先がアンビエントと証明づけた音響学の発見と称するべきでしょう。そして、これほどまでに緻密で物理的なアプローチをこの作曲家が取ったことは近年なかったようにも思える。もっと言えば、既存のATAKの作品の中で、もっとも先鋭的な作風として位置づけられるかもしれません。
物理学や工学の要素を大々的に宣伝するまでもなく、今作は、ノイズ/グリッチとして画期的な作品であることに変わりありません。そして、おそらく、現在の日本のミュージック・シーンを見渡すかぎり、「ポスト・サカモト」のポジションを引き継ぐ人物がいるとするなら、バイオグラフィーの観点から言っても、渋谷慶一郎氏をさしおいてほか誰も見当たらないという気もします。
85/100