一柳慧、ジョン・ケージと 1981 写真: 松本徳彦 |
ジョン・ケージに師事し、日本の実験的現代音楽の発展に大きな貢献を果たして来た前衛ピアニスト・作曲家の一柳慧(いちやなぎ・とし)氏が死去されました。89歳でした。
一柳慧が10月7日(金)に死去したとの訃報については同氏が総合芸術監督を務めていた神奈川芸術文化財団が公表している。死因の詳細については明らかにされていません。同財団の玉村和美理事長は、土曜日の声明で、「生前、彼を愛していたすべての人々に心から感謝の意を表したい」と述べています。
一柳は、ニューヨークのジュリアード音楽院で学び、日本の伝統的な要素や楽器だけでなく、電子音楽も取り入れた自由な発想の作曲法で、ミュージックシーンのパイオニアとして頭角を現した。ジャスパー・ジョーンズ、マース・カニングハム、建築家の黒川紀章、詩人・劇作家の寺山修司といった日本の革新的なアーティスト、1950年代半ばから数年間結婚していたオノ・ヨーコ、ジャンルの枠にとらわれない多彩なコラボレーションでその名を知られるようになった。
一柳慧は、かつてアーティスト・ステートメントの中で、「私の創作は、音楽においてしばしば対照的で対極的なものとして別々に考えられてきた様々な要素を、共存させ、浸透させることを試みてきた」と述べている。
日本の伝統音楽は、「時間芸術」としての通常の音楽の定義や、彼が「区分」と呼ぶ、相対と絶対、新と旧といったものにとらわれていないため、インスピレーションと勇気を貰ったと一柳は語り、現代音楽はむしろ「音楽がもたらす精神的な豊かさを回復するための実質的な空間」であると言った。
オーケストラのための代表的な作品に "ベルリン連詩 "がある。連詩とは、日本の共同詩の一種で、「連句」のような厳格な形式でなく、自由詩に該当する。1989年、一柳は伝統楽器と声明に焦点を当てたオーケストラ・グループ、東京国際ミュージック・アンサンブル-ザ・ニュー・トラディション(TIME)を結成した。
一柳の音楽は、前衛的なミニマリズムから西洋のオペラまで、文化や国境を超えて自由にクロスオーバーしている。ニューヨークのカーネギーホールやパリのシャンゼリゼ劇場などで初演を行い、国立劇場の委嘱を受けるなど、世界各地で活躍した。また、国立劇場からもいくつかの音楽作品を委嘱されている。
2013年には「マリンバとオーケストラのための協奏曲」、2016年には「ピアノ協奏曲第6番」を発表し、東京のフェスティバルで独奏を披露するなど、長年にわたり多作を続けていた。受賞歴もきわめて多い。ジュリアード音楽院のアレクサンダー・グレチャニノフ賞、フランス共和国の芸術文化勲章、日本政府から旭日小綬章、紫綬褒章など、数多くの名だたる賞を受賞している。
一柳慧は、神戸の音楽一家に生まれ、若くして作曲家として将来を嘱望された。戦後の日本では珍しかった10代での渡米を前に国内の大きなコンクールで優勝を果たしている。