Green Day 1991 |
ご存知のように、カルフォルニアのパンクバンド、グリーン・デイは、1994年に『Dookie』で世界的なブレイクを果たし、大きな成功を手にした。このアルバムは世界で天文学的な売上を記録した。その後のオレンジ・カウンティを中心とするメロディック・パンクのムーブメントは2000年以降まで続き、彼らのフォロワーが数多く出現する。New Found Glory、Blink-182、Bowling For Soup、Sugarcult等は、その2ndジェネレーションの代表格と言える。
グリーン・デイの最初の成功作としては『Dookie』が有名だが、それ以前に彼らは素晴らしいパンク・アルバムをリリースしていることはマニアなら知っているはず。そして2ndでグリーン・デイはヨーロッパツアーを敢行している。既に『Dookie』以前にブレイクの予兆はあった。
1991年12月17日、グリーン・デイはセカンド・アルバム『Kerplunk』のレコード盤を手にした。
この寒い冬の夜、グリーン・デイは、イギリス/サウサンプトンの”Joiners Arms”というライブハウスに出演していた。このイベントはすぐに即席のアルバム・リリース・パーティーとなり、三人のミュージシャンたちは、最初のヨーロッパツアーで溜め込んだ服とウィッグをすべて着用し、ビリー・ジョー・アームストロングがステージから落下し、興奮は最高潮に達するという事態になった。
この1991年の時代、グリーン・デイは、ヨーロッパに2ヶ月近く滞在し、とんでもない目にあったという。一説では、バンドは、4人が入場料を払って雪に覆われたライブに向かう途中、火がついたバンで移動したといい、ある晩、彼らは物置でホルムアルデヒドの瓶に入った人間の頭と一緒に寝た。また、コペンハーゲンの会場では、カップルがステージ上で騒がしくセックスしていたという。他にも、ドイツでは、剣呑にも、銃を突きつけられもした。イギリスのウィガンでは、イースター・バニーとサンタクロースを登場させ、トレ・クールが赤ん坊のイエスを演じたキリスト降誕劇を上演した。数日後、3人のメンバーは、クリスマスの日をバースのスクワットでマジック・マッシュルームを摂取し、熱したナイフに乗せたマリファナの煙を吸って過ごした。これらのエピソードはどこまでが本当かわからない話ではあるものの、このバンドの破天荒なエピソードの数々は、ロックスターとしてブレイクする予兆だったと言える。
ヨーロッパ・ツアーが終わる頃には、ビリー・ジョー・アームストロングはドイツに長く滞在していたため、話すスピードが遅くなり、カリフォルニア訛りもほとんどなくなっていた。あまりにツアー自体が劣悪な環境だったため、フロントマンのビリーは全身シラミに感染し、体毛をすべて剃ることを要求されたという話もある。
Green Dayとファン 崩壊後のベルリンの壁を背に |
「ヨーロッパに着いたとき、俺たちは何も知らなかったんだ」と、フロントマンのビリー・ジョーは後に語っている。「でも、いざ行ってみると、急に不安になったんだ。いくつかのショウは滅茶苦茶怖かった。ツアー中のバンドが正気を失い、再び人生を意味あるものにするために互いを見つけなければならないような状況だった。だから、みんな辞めちゃうんだよ、おかしくなっちゃうから。狭い車内でピエロの集団になったような気分だったよ。ある意味では最高だったよ」
グリーン・デイがサウサンプトンで手にした新作レコードは、ラリー・リバモアが持ってきてくれたものだ。ヒースロー空港で、Look Out! Recordの主宰者は、税関の係官に、「イギリスに持ち込むアルバムはプレゼント用だ」と説得するため、話を聞く人が生きる気力を失うまで話す、というテクニックを駆使したという。もちろん、空港を出るとき、グリーン・デイは自分たちが運んでいる音楽が、そのレーベルで録音する最後の作品になるとは思ってもいなかったという。
その2年後、彼らはパンクロックの金字塔『Dookie』をRepriseからリリース、ポップパンク旋風を巻き起こした。今なお輝かしい「Basket Case」を始めとするパンク・アンセムは、彼ら三人を押しも押されぬ世界的なスーパースターへ引き上げることになった。2ndアルバム「Kerplunk」は、以後のブレイク作品に比べると、荒削りなアルバムだが、『Dookie』に見られる淡い青春の雰囲気に満ちたパンク・アンセムの原型は、ほぼ完成に近づいていることがわかる。