1970年代のイギリスのパンクムーブメントに欠かせない存在であったファッションデザイナーで活動家のVivienne Westwoodが死去しました。81歳でした。
「ヴィヴィアン・ウエストウッドは今日、南ロンドンのクラパムで家族に囲まれながら安らかに息を引き取りました」とウエストウッドの公式ツイッターには投稿された。「世界はヴィヴィアンのような、より良い変化をもたらす人を必要としています」
ヴィヴィアン・ウエストウッドは、1941年4月8日にイギリスの中部、チェッシャー州で、ヴィヴィアン・イザベル・スワイヤーとして生まれ、労働者階級の家庭で育ちました。ウェストミンスター大学(当時はハロー・アート・スクール)で銀細工を学ぶが1学期で退学、その後小学校の教師となり、副業としてジュエリーを作り、ロンドンのポートベロ・ロードで販売するようになる。
1960年代半ば、ウエストウッドは、セックス・ピストルズのマネージャーとなるアーティストのマルコム・マクラーレンと出会う。
彼女は、マクラーレンとともにキングスロード、430番地に、ブティック「Let It Rock」を開業した後、自分たちがデザインした服を販売する店「SEX」をオープンした。SEXは、当初、ジョン・ライドンとシド・ヴィシャスが出入りしていたことで有名で、セックス・ピストルズがウエストウッドとマクラーレンのデザインした服を着ていたことから人気が高まり、ロンドンのパンクシーンの重要な拠点となった。彼女はSMの要素をファンションに取り入れ、パンクの女王と呼ばれるに至る。ウェストウッドは、パンクを「システムにスポークを打ち込むことができるかどうかを見る」方法として捉え、反体制のテーマをそのファッションの製品に込めていた。
ウエストウッドは、パンクムーブメントを主流に押し上げた功績にとどまらず、ファッションと音楽業界を統合させたという点で大きく評価された。彼女の名を冠したブランドは、大胆なチェック柄、ボリュームのあるチュールやタフタ、伝統的なヴィクトリア朝のモチーフの再創造といった要素で認知されるに至る。また、ウエストウッドは、気候変動問題など、さまざまな問題や運動に積極的に取り組み、その政治的活動をデザインに取り入れることもしばしばあった。
2006年にはファッションデザイナーとしての功績が讃えられ、DAME(デイム)の称号を得ている。後に資産家となってもなおその反体制の思想は引き継がれ、2015年にはシェールガス採掘に反対を示すため、キャメロン首相に対して戦車による抗議デモを行った。晩年まで反体制の精神は衰えを見せることはなかった。