60年中頃の音楽のニューヨークのアンダーグラウンドミュージックは、表側のウォール街を中心とする金融世界と裏側のアートの最前線から生まれた。ウォーホールの手掛けたアートプロジェクト、彼の仕事場であるFactory、さらには彼の最高傑作であるThe Velvet Undergroungの価値は、その音楽の革新性とメインカルチャーへの強烈な反骨精神に求められる。
「Sunday Morning」に見受けられるポップな要素とそれと対極にある「European Son」に象徴されるようなアバンギャルドな性質はデトロイトのイギー・ポップと並んでプロトパンクの素地を形成したのみならず、そしてサイケデリックの概念はオルタナティヴの出発点でもあり、そして、米国のインディーロックの型をつくり上げたのである。それでは、このバンドの中心人物で発起人でもある伝説的な存在、ルー・リードはどのようにしてこのバンドを出発させたのだろうか、それを探ってみよう。
ルー・リードは、1944年(43年の説もあり)3月にニューヨークで生まれた。五歳にしてピアノ、14歳でギターを始め、高校を卒業するまでに、ザ・ジェイズを始めとする複数のローカルなバンドを複数経験した。地元のシラクサ大学に入学すると、ドロップアウトを決意し、サーフィンやホット・ロッドソングを書く単発の仕事を得るが、強烈な自己意識が災いして、社会的な立ち位置を見出すことが出来ない日々を過ごした。
ルー・リードの人生を変えたのは、盟友、ジョン・ケールだった。のちにケールはVUの音楽的な側面を支え、エレクトリックビオラ奏者としてバンド内の重要なポジションに就くことになった。ジョン・ケールはイギリスの南ウェールズ出身で、幼い頃からクラシックを学び、現代音楽家、ジョン・ケージに師事するため、バーンスタイン奨学金を活用し、イギリスからニューヨークに留学しにきた人物であった。2人はすぐに意気投合し、グリニッチ・ビレッジのクラブのステージにデュオとして立つことになった。65年、2人は、トランペット奏者のスターリング・モリソン、ガールズバンドの出身者、モーン・タッカーを加えて最初のヴェルベット・アンダーグランド(当時は、ザ・フォーリング・スパイクスを名乗った)の編成を整えた。バンドのライブ・デビューとなったのは、ニュージャージ州のハイスクールコンサート。のちの伝説的なエピソードとは違い、華々しいデビューではなかった。このときの最初の報酬は75ドル。観客の興味を惹くことにも失敗して、途中で席を立たれる始末であった。
ところが、この一般的には見向きもされなかったヴェルヴェッツの音楽に一定の評価を与えていた人物がいた。このグループには、女流映画作家、ハーバラ・ルービン、詩人、ジェラード・マランガがいた。彼らはアヴァンギャルドな表現を好む女優や作家、詩人などがバンドの音楽性を厚く支持した。 ハーバラ・ルービン、ジェラード・マランガは、ポップアートの先駆者、アンディ・ウォーホールにバンドのメンバーを紹介し、ヴェルベット・アンダーグラウンドの運命の歯車は回りだした。この点について、よく言われるアンディー・ウォーホールがバンドを育てたという定説には懐疑的な意見も見られる。つまり、現代アートの巨匠とバンドの邂逅は偶然的なものであったというのだ。少なくとも、よく知られているように彼はバンドのプロデューサーの役割を担ったことは事実といえるだろう。
その後、晴れてヴェルヴェッツのメンバーは、ウォーホールの仕事場であるFactoryに出入りをゆるされる。そしてウォーホールの勧めにより、ザ・フォーリング・スパイクから改名を決意する。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドという名前は、既に伝説化している通り、ルーがタイムズ・スクウェアのポルノショップでみかけたSMのペーパーバックのタイトルをバンド名に。そして、同時に、西ドイツのコローニュ生まれで、60年代初頭にパリを舞台にモデルとして活躍したニコをヴェルヴェット・アンダーグラウンドのシンガーとして迎える。当時、ニコは65年頃からロンドンでシンガーとして活躍し、翌年にはアンディ・ウォーホールの映画『チェルシー・ガール』にも出演した。デビュー作の同名曲はこの映画にちなんでいる。このバンドの代名詞となる激しいステージライトと轟音を交えたライブをマンハッタンのディスコ”ドム”で開催し、Plastic Exploding Inevitableにも出演。これはウォーホールが企画した実験総合芸術としての演出として彼らのアバンギャルドな音楽が生み出されたことを表している。
上記の写真を見ると分かる通り、発足当初のヴェルヴェット・アンダーグラウンドは、黒いサングラスをかけ、常に聴衆に背中を向けて演奏していたが、これは60年代のアンプのフィードバックを最大限に活かすための演出である。そしてステージでは激しいフラッシュがたかれていたため、彼らはそれらの光から目を守るためにサングラスをかけていた。この当時、背を向けての大音量のライブは前衛的な印象を聴衆に与えるとともに、時にそれは”暴力的”と称されることもあった。しかし、アンディとのコラボレーションというのが取りざたされ、現地の各新聞はこのバンドの前衛的なライブについて大々的に報じたのだった。この新聞の報道により、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは一般的にその存在を知られるようになったのである。
67年3月には、後に伝説となるデビュー・アルバム『The Velvet Underground& Nico』をVerveから発売する。
このアルバムは一般的に知られているように、急進的な造形芸術家を中心にもてはやされたが、オーバーグラウンドでヒットしたわけではない。よく言われるように、アンディ・ウォーホールがこのバンドに直接的な影響を与えたという点についても懐疑的な意見もある。理由は、このデビュー・アルバムの大半の収録曲はFactoryで制作されたのではなく、ウォーホールとルー、ケールが出会う以前に、じっくり煮詰められていたものだった。そして、ルー・リード自身は名物的なバナナのアートワークについても心にしこりを残し続ける要因となった。これはセクシャルな暗喩が込められている。(デラックス・バージョンを参照)ちなみにこのアルバムが発売されたのはザ・ビートルズの傑作アルバム「サージェント・ペッパーズ」と同年である。
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのメンバー、そして音楽は近代ヨーロッパのパトロン方式のような形で親しまれるようになった。彼らは米国の上流階級のパーティーに呼ばれ、演奏するようになったというが、それについても若い時代の戸惑いが心には残っていたのだという。その後、デビュー作で異彩を放っていたニコはソロアーティストとして活動するためにバンドを脱退。その頃から、ヴェルヴェット・アンダーグランドのメンバーもウォーホールの仕事場のファクトリーと距離を置くようになった。残されたルー、ケール、スターリング、モーリンの四者は、ニューヨークのライブハウス、ビル・グラハムのフィルモア・イースト&ウェスト、LAのウィスキー・ア・ゴー・ゴーに出演し、ウォーホールの手から離れた独立したバンドとして活動を行うようになった。68年には、ウォーホールとニコと別れを告げ、2ndアルバム『White Light&White Heat』を発表する。この伝説的なアルバムはストゥージズの『Raw Power』と並んでプロト・パンクの原型となったのみならず、ローファイの原型ともなった。
二作目の発表後、ジョン・ケールは音楽性の意見の相違からバンドに別れを告げ、新たにバンドはダグ・ユールを迎え入れる。
69年4月に発表されたタイトルアルバム『The Velvet Underground』では内的な暴露や宗教観の吐露を交えポップ性とオルタナティヴ性を織り交ぜた快作をリリースする。70年には、最初期からのメンバー、モーリンが脱退し、バンドの運命は急転する。8月には、ルー・リードすらもマックス・カンサス・シティの公演時に前触れもなく姿をくらまし、放浪の旅に。この段階に来て、バンドの運命はほとんど決定的なものとなった。70年には『Loaded』を発表。この中でルー・リードは自身の代表的な名曲「Sweet Jane」を生み出した。
その後、ルーはソロ活動に転じ、「Walk On Wildeside」を始めとする数々の伝説的な名曲を生み出した。また、ルー・リードは生前、メタリカのライブにも出演し、「Sweet Jane」を一緒に演奏している。ヴェルベット・アンダーグランドの公式なスタジオ・アルバムは四作にとどまるが、その他、最盛期のライブを収録した『Live At Max Kansas City』、シンガー、ニコとの貴重なライブ音源を収録した『1969 Velvet Underground Live With Nico』の録音も残されている。