【Weekly Music Feature】 Bodywash 「I Held The Shape I Could」 カナダ/モントリオールのシューゲイズデュオによる新作

Weekly Music Feature 

 

Bodywash 






モントリオールのデュオ Bodywashが見据える未来の音


モントリオールのデュオ、ボディウォッシュのセカンドアルバム『I Held the Shape While I Could』では、"故郷"とは移ろいやすいもので、完全にそうでなくなるまで心に長く留められている場所であるということが示されている。ボディウォッシュのメンバーであるChris Steward(クリス・スチュワード)とRosie Long Decter(ロージー・ロング・デクター)は、アルバムの12曲を通して、場所の感覚を失ったという、別々の、そして共通の経験、一度固まったものが指の間をすり抜けてしまう過程、そして、その落差から新しい何かを築こうとする試みについて考察しています。

クリス・スチュワードとロング・デクターの二人は、2014年に大学で出会いましたが、すぐに音楽言語を共有したというわけではなかった。クリスはロンドンでブリティッシュ・ドリーム・ポップとクラシックなシューゲイザー、ロージーはトロントでフォークとカナディアンを聴いて育った。彼らが最初に出会ったのは、カナディアン・フォークの血統を持つドリーム・ポップ・バンド、Alvvays(オールウェイズ)だった。風通しの良いボーカル、複雑なギターワーク、雰囲気のあるシンセサイザーという独自のブレンドを目指して、2016年にBodywashとしてデビューEPを発表、さらに2019年に初のフルレングスとなる『Comforter』をリリースしました。

『Comforter』の制作段階において、ロング・デクターとスチュワードともに私生活で疎外感のある変化を経験し、お互いにズレたような感覚を持つようになりました。彼らは、『Comforter』の心地よいドリーム・ポップよりも、よりダークで実験的で爽快な新曲を書き始めた。2021年、これらの曲をスタジオに持ち込み、ドラマーのライアン・ホワイト、レコーディングエンジニアのジェイス・ラセック(Besnard Lakes)と共有した。

最初の先行シングル「Massif Central 」では、”官僚的な煉獄”の経験(政府からの手紙のタイプミスにより、スチュワードは一時、カナダでの合法的な労働資格を失った)を語るStewardのささやくようなボーカルに、荒々しいギターと執拗なドラムのビートが寄り添っている。

「Perfect Blue」は、スチュワードの日本人とイギリス人の文化的アイデンティティをサイケデリックに探究しています。

日本のアニメイター、今敏(こん さとし)監督の1997年の『パーフェクト・ブルー』がプリズムのような役割を果たし、スチュワードは自分の混血を二面性に投影し、複雑に屈折させている。波打つシンセのモチーフは、スチュワードの歌声に合わせて弧を描き、内側に渦巻くかのように複雑に折り重なっていきます。ここで「半分であることは、全体でないこと」と、スチュワードは英国と日本という自分のルーツについて歌っている。

また、先行シングルのプレスリリースでは、スチュワードが体験した重要な出来事が語られています。このときに彼が感じざるをえなかった疎外感や孤独が今作のテーマを紐解く上では必要性不可欠なものとなっている。

「カナダに8年間住んでいた後、2021年の春に、政府の事務的なミスにより、私はここでの法的な地位を失うことになりました」

 

実は、英国人として、私は労働ビザの権利を失ってしまったんです。しばらくアパートの隅を歩き回ることしかできない月日が続いて、私の貯金はついに底をついてしまった。
独力で築き上げようと思っていた人生が、一瞬にして奈落の底に消えていくような気がしたため、私は、すぐに荷物をまとめて出て行く覚悟を決めました......。「Massif」は、たとえ、底なしの崖の底に向かって泣き叫んでも、反響が聞こえるかどうか定かではないような茫漠とした寂しい音なんです。
この曲は、私のベッドの後ろの壁に閉じ込められて、救いを求めて爪を立てていたリスを目にした時、インスピレーションを受けました。
友人、家族、音楽、そして、数人の移民弁護士(と残りの貯金)の助けを借り、私は幸いにも、今、この国(カナダ)の永住権を持っています。しかし、この曲は、その出来事とともに私が搾取的な国家制度に遭遇したことの証立てとして、今も深く心に残りつづけているのです。

 


 「I Held The Shape I Could」 Light Organ



 
 
2019年のデビューアルバムからそうであったように、Bodywashが掲げる音楽は、基本的にはドリーム・ポップ/シューゲイズに属している。もしくは、現在のミュージックシーンのコンテクストを踏まえて述べるなら、Nu-Gazeと称するのがふさわしいかもしれません。しかし、このジャンルは、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン、ジーザス・アンド・ザ・メリーチェイン、コクトー・ツインズ、チャプター・ハウス、ライドといった草分け的なバンドがそうであったように、(全てが現実を反映したものでないわけではないものの)いわゆる”夢見るような”と称される現実逃避的な雰囲気やアトモスフィアに音楽性の基盤が支えられていました。
 
以後の時代になると、2010年を通じて、日本人ボーカル擁する米国のドリーム・ポップバンド、Asobi Seksuや、Captured Tracksに所属するWild Nothing,DIIV,Beach Fossilsが米国のミュージックシーンに"リバイバル"という形で、このシューゲイズという音楽を復刻させ、そしてその後ほバンドがShoegazeのポスト・ジェネレーションに当たる”Nu-Gaze”という言葉をもたらした時でさえ、また、いささか古臭く時代遅れと思われていた音楽に復権をもたらした時でさえ、その音楽の持つ意義はほとんど変わることはなかった。いや、どころか、音楽の持つ現実逃避的な意味合いはさらに強まり、より現代的に洗練された感じや、スタイリッシュな感じが加わり、現実から乖離した音楽という形で、このジャンルは反映されていくようになったのでした。

しかし、カナダのドリーム・ポップ/シューゲイズディオ、bodywashはその限りではありません。現実における深刻な体験を咀嚼し、爽快なオルタナティヴ・ロックとして体現しようとしている。それは2010年以降何らかの音楽のイミテーションにとどまっていたシューゲイズというジャンルの表現性を、スチュワードとデクターは未来にむけて自由な形で解放しようとしているのです。

ボディウォッシュは新作を制作するに際し、19年のデビュー作よりも”暗鬱で実験的でありながら、痛快な音楽を制作しようとした”と述べています。例えば、ロンドンのJockstrapのように、エレクトロの影響を織り交ぜた前衛的なポップ、アヴァンギャルド・ポップという形で二作目の全体的な主題として還元されていますが、これらの暗澹とした音の奥底には、日本の今敏監督の筒井康隆原作のアニメーション『パプリカ』のように全般的には近未来に対する憧れが貫流しているのです。
 
アルバムのオープニングを飾る「Is As Far」は、その近未来に対する希望を記した彼らの声明代わりとなるナンバーです。アヴァン・ポップという側面から解釈したエレクトロとダイナミックなシューゲイズの融合は、このジャンルの先駆者、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインが到達しえなかった未知の領域へ踏み入れたことの証立てともなっている。リラックスして落ち着いたイントロから、ドライブ感のある新旧のクラブミュージックの影響を織り交ぜたエネルギーに満ちたエレクトロへの移行は、ボディウォッシュが飛躍を遂げたことを実際の音楽によって分かりやすい形で示しています。
 
それに続く、「Picture Of」は、Bodywashが2010年代のWild Nothingとは別軸にある存在ではなく、ニューゲイズの系譜にある存在であることを示唆しています。ここで彼らは、90年代、さらに古い80年代へのノスタルジアを交え、甘美なオルタナティヴロック/インディーロックの世界観を組み上げていきます。彼らの重要なバックボーンである80年代のディスコポップやエレクトロの融合は、ロング・デクターの甘美なメロディーを擁するボーカル、彼女自身のコーラスワークにより、聞き手の聴覚にせつなげな余韻を残してくれるのです。

夢想的なドリーム・ポップとアヴァン・ポップの中間にあるサウンドの渦中にあって、現実的な視点を交えて書かれた曲が、「Massif Central」となる。前の2曲とは少し異なり、クリス・スチュワードがメインボーカルを取っていますが、彼はWild Nothingに代表されるスタイリッシュなシューゲイズサウンドの中にポスト・トゥルース派としての現実的な夢想性をもたらしています。さらに、この曲では、デュオが共有してきた孤立した感覚、居場所を見出すことができないというズレた感覚、そういった寂しさを複雑に絡めながら、そして、今敏監督のアニメーション作品のような近未来的な憧憬を緻密に織り交ぜることによって、オリジナルのシューゲイズとも、その後のリバイバル・サウンドとも相異なる奇妙な音楽を組み上げようとしているのです。

こういった、これまでのどの音楽にも似ていない特異な感覚に彩られたロックサウンドがなぜ生み出されることになったのかと言えば、スチュワードが日本にルーツを持つことと、彼自身がアルベルト・カミュの作品のような”異邦人”としての寂しさを、就労ビザの失効という体験を通じて表現していることに尽きる。彼の住んでいる自宅で起こったと思われる出来事ーーベッドの後ろの壁に押し込められたリスが壁に爪を立てている様子ーー、それは普通であれば考えづらいことなのですが、スチュワードは、この時、小さな動物に深い共感を示し、そして、その小さな存在に対して、自己投影をし、深い憐れみと哀しみを見出すことになった。カナダの入国管理局の書類のタイプミスという見過ごしがたい手違いによって起きた出来事は翻ってみると、政府が市民を軽視しすぎているという事実を、彼の心の深くにはっきりと刻むことにも繋がったのです。
 
アルバムのハイライトである「Massif Central」に続く「Bas Relief」で、他では得難い特異な世界観はより深みを増していきます。それ以前のドリーム・ポップ/シューゲイズサウンドとは一転して、デュオはアンビエント/ドローンに類する前衛的なエレクトロ・サウンドを前半部の最後に配置することによって、作品全体に強いアクセントをもたらしています。「Bas Relief」において、前曲の雰囲気がそれとは別の形で地続きになっているような感を覚えるのは、かれらが前曲の孤立感をより抽象的な領域から描出しようと試みているがゆえ。これはまた、かれらがアヴァン・ポップと同時に現代的で実験的なエレクトロニカに挑戦している証でもあり、先週のティム・ヘッカーの『No Highs』の音楽性にも比する表現性を見出すことが出来る。つまり、ここで、ボディウォッシュは、現実という名の煉獄に根を張りつつ、 ディストピアとは正反対にある理想性を真摯に描出しようとしているようにも思えるのです。
 
さらに、それに続く「Perfect Blue」において、デュオは、イギリスのUnderworldの全盛期の音楽性を踏襲した上で、アヴァンギャルド・ポップとシューゲイズサウンドの融合に取り組み、清新な領域を開拓しようとしています。

スチュワードのボーカルは、この曲にケヴィン・シールズに比する凛とした響きをもたらしていますが、その根底にあるのものは、単なるノスタルジアではなく、近未来的への希望に満ちた艶やかなサウンドです。ここには三曲目において深い絶望を噛み締めた後に訪れる未来への憧憬や期待に満ちた感覚がほのかに滲んでいますが、これは後に、スチュワードがカナダ国内での永住権を得たことによる安心感や、冷厳な現実中にも癒やしの瞬間を見い出したことへの安堵とも解釈出来る。そしてデュオは、暗黒の世界にとどまることを良しとせず、その先にある光へと手を伸ばそうとするのです。


「Perfect  Blue」




その後、アルバムの中盤部においては「Kind of Light」「One Day Clear」と、アルバムの暗鬱とした雰囲気から一転して、爽やかなシンセ・ポップが展開されてゆく。

この2曲では、クリス・スチュワードからメインボーカルがロング・デクターへと切り替わりますが、これが煉獄に閉じ込められたような緊迫した感覚をインディーロックとして表現しようとするスチュワード、さらに、それとは対象的に、開放的な天上に至るような感覚を自身のルーツであるカナダのフォーク・ミュージックとシンセポップを織り交ぜて表現しようとするデスター、この両者の性質が交互に現れることによって、作品全体に見事なコントラストが生み出されています。

そして、一方のデクターのボーカルは、単なる歌にとどまらず、ラップやポエトリー・リーディングの影響をわずかに留めている。スチュワードと同様、ドリーム・ポップの甘いメロディーの雰囲気を擁しながらも、Jockstrapに比する前衛的で先鋭的な感覚をかなり際どく内在させている。この奇妙な感覚の融合がより理解しやすい形で表されているのが、後者の「One Day Clear」となるでしょう。デスターはスポークンワードを交え、アンビエントポップとポストパンクの影響を融合させた”未来の音”を生み出そうとしている。これは同国のハードコアバンド、Fucked Upと同様、表向きには相容れないであろうアンビバレントなサウンドをあえて融合させることで、固定化されたジャンルの既存の概念を打ち破ろうとしているようにも思えるのです。
 
さらに続く、「sterilizer」は、どちらかといえば、二曲目の「Picture Of」に近いナンバーであり、懐かしさ満点の麗しいシューゲイズサウンドが繰り広げられている。この段階に来てはじめて、デュオはデュエットの形を取り、自分たちがマイ・ブラッディ・ヴァレンタインの系譜にあるバンドであることを高らかに宣言している。アンニュイな感覚という形で複雑に混ざり合う二人の雰囲気たっぷりのボーカルの掛け合いは、ブリストルのトリップ・ホップの暗鬱で繊細な感覚に縁取られており、聞き手を『Loveless』に見受けられるような甘い陶酔へといざなってゆく。そして、マッドチェスター・サウンドを反映したRIDE、slowdiveと同じように、この曲のサウンドの奥底には、80年代のフロアに溢れていたクラブミュージックのロマンチズムが揺曳している。いいかえれば、80年代-90年代のミュージシャンや、その時代に生きていた音楽への憧憬が、この曲の中にはわずかながら留められているというわけです。
 
三曲目の「Bas Releif」と並んで、アルバムのもう一つのハイライトとなりえるのが、終盤に収録されている「Acents」です。

ここでは、ロング・デスターが単なるデュオの片割れではなく、シンガーとして傑出した存在であることを示してみせています。アルバムの中で最もアヴァン・ポップの要素が強い一曲ですが、この段階に来て、1stアルバムのドリーム・ポップ/シューゲイザーバンドとしてのイメージをデスターは打ち破り、まだ見ぬ領域へ歩みを進めはじめたことを示唆しています。この曲はまた、「Dessents」の連曲という形で繰り広げられ、アンビエント/ドローンを、ポップスの観点からどのように再解釈するかを探求しています。彼らの試みは功を奏しており、四年前のデビュー作には存在しえなかった次世代のポピュラーミュージックが生み出されています。この曲を聴いていてなぜか爽快な気分を覚えるのは、デュオの音楽が単なるアナクロニズムに陥ることなく、未来への希望や憧憬をボディウォッシュらしい甘美的なサウンドを通じて表現しようとしているからなのです。
 
これらの強固な世界観は、まるで果てなく終わりがないように思えますが、クライマックスにも、ふと何かを考えさせるような曲が収録されており、きわめて鮮烈な印象を放ち、私たちの心を作品の中に一時でも長く止めておこうとする。新作発売前に最後のシングルとして公開された「No Repair」において、ロング・デスターは、内面の痛みを淡々と歌いながら、何らかの形で過去の自己をいたわるようにし、また、その内なる痛みをやさしく包み込むように認めようとしているのです。
 
 
 
90/100
 
 

 Weekend Featured Track 「Massif Central」
 

 
 
 
Bodywashの新作アルバム『I Held the Shape While I Could』は、バンクーバーのレーベル、Light Organ Recordsより発売中です。