Atmosphere |
Atmosphere(アトモスフィア)のラッパーのSlug、そしてプロデューサーのAntは、デュオとして25年以上にわたって、アンダーグラウンドヒップホップ界に組み込まれた遺産を築きあげてきた。
ミネアポリスで頭角を現した彼らのデビューアルバム『Overcast!』は、1997年にリリースされた。2000年代初頭には、Slugがインタビューで冗談交じりに「エモ・ラップ」という言葉を発したところ、出版物がこのジャンルのタグを付けて彼らや他のアーティストを紹介するようになった。
デビュー以来数十年間、アトモスフィアは厳格なアウトプットを続け、20枚以上のスタジオアルバム、EP、コラボレーションのサイドプロジェクトをリリースしてきた。デュオは、正直さ、謙虚さ、脆弱さを音楽の前面に押し出すことで遺産を築いて来た。
Slugは、ストーリーテリングと説得力のある物語を書くことに長けており、自分を形成するのに役立ったラッパーやソングライターに敬意を払いながら、自分自身の影響の跡を残している。一方、Antは、ソウル、ファンク、ロック、レゲエ、そしてヒップホップのパイオニアであるDJやプロデューサーの技からインスピレーションを得てサウンドトラックを巧みに作り上げ、彼自身のトレードマークとなるサウンドを生み出し、人生、愛、ストレス、挫折についての歌にパルスを与えている。
アトモスフィアの本質は、音楽的な羊飼いであり、人生というものを通して何世代にもわたってリスナーを導いてきた。2023年の最新アルバム『So Many Other Realities Exist Simultaneously』は、おそらくアトモスフィアにとってこれまでで最も個人的な作品を収録している。リードオフ・トラックの "Okay "は、リスナーを慰め、安心させることに重点を置いている。最近の作品よりも穏やかなアプローチでこの壮大なオデッセイは始まる。
Antがこれまでリリースした作品の中でも最もきらびやかなプロダクションにのせて、Slugがラップするこの曲は、アルバム全編に渡っての意識改革の基礎となる。しかし、アルバムが始まったと同時に、紛れもない不安感が最初からあり、SlugとAntが不眠症と悲哀という抽象的なテーマをリスナーに織り込みながら、このプロジェクトを通して進化し続けるのである。
「Dotted Lines」のような繊細なパニックから「In My Head」のようなあからさまな不安まで、各曲の不安は紛れもないものである。ただそのなかで涙が溢れてきたとえしても、「Still Life」のような曲で再び解決できる。
一方、「So Many Other Realities」のリズムはアトモスフィアのキャリアの中でも最も独創的だ。「In My Head」でのAntの遊び心溢れるパーカッションは、荒れ狂う楽曲の良いカウンターウェイトとして機能しており、「Holding My Breath」と「Bigger Pictures」でのドラムパターンは、Slugのフローに遊びを加え、このアルバムを牽引する不安感を強調する。
アトモスフィアのキャリアの中で最も新しいこのアルバムは、家族、兄弟愛、目的といった人生の最も意味のある部分を強調しているが、『So Many Other Realities』は、市民の不安でいっぱいになったパンデミックに疲れた社会の一般的な倦怠感からインスピレーションを得て、ある種のパラノイアを発掘した作品である。これらの曲の緊張感は手に取るようにわかるが、このアルバムが存在するだけで、最もストレスの多いエピファニーの根底にある希望が証明されるのである。
アトモスフィアがキャリアを通じて取り続けた最大のリスクは、繊細であること、そして恐れないことであった。スラッグとアントがアンダーグラウンドのヒップホップシーンに参入して以来、世界は想像を絶するほど変化したが、音楽と文化の激変にもかかわらず、彼らは賢しい革新性と真実に根ざした基盤を強く保ってきた。
このデュオの絶え間ないリリースとツアーのスケジュールは、ストーリーの一部を語るに過ぎないが、新しいファンであれ、長年のリスナーであれ、彼らのレコードと時間を過ごすことで、臆面もなく自己表現するために創造し生きることを愛する2人の友人の姿が見えてくるはずだ。
彼らの人生に対する率直な考察と、生きる価値を生み出すありふれたトラウマや喜びは天からの贈り物であり、それ自体がアトモスフィアの遺産である。もし明日、音楽が止まってしまっても、このデュオは、エブリマンラップの流れを永遠に変えた、ミネアポリスのラップの巨人として後世に語り継がれることになるだろう。
『So Many Other Realities Exist Simultaneously』
オープニング曲「Okay」は、本作の中で最も爽快なラップソングとして楽しめるはずだ。デュオは、デ・ラ・ソウルの旧作を彷彿とさせる明るく爽やかな雰囲気に溢れたヒップホップトラックを作品の冒頭と最後にリメイクという形で配置しており、彼らは生きる喜びや感謝をトラックのリリックやビートにシンプルに取り入れようとしている。淡々としているが、時々、導入されるグロッケンシュピールやギターのフレーズは、Slugのフローに爽やかさと可愛らしさを付け加えている。
20曲という凄まじいボリュームのアルバムは爽やかな雰囲気で始まった後、まるで人間そのものの感情や、人生の複雑さを反映させるかのように、複雑な様相を呈する。
二曲目の「Eventide」は、最近のアーバンフラメンコを想起させるスパニッシュの雰囲気を交えたトラックである。ただ、この曲は、トレンドに沿ったラップというより、反時代的な概念が込められている。一曲目と同様、DJのターンテーブルのスクラッチの技法を交え、現代という地点から少し距離を置き、オールドスクールの時代に根ざしたコアなラップを展開させていく。
「Okay」
続く、三曲目の「Sterling」は、1970年代後半にニューヨークのブロンクスの公園でオランダの移民のDJや、近所に住んでいるB-Boys(Girls)たちが自分たちの好きな音楽を持ち込み、カセットラジオで鳴らしていたような原初的なオールドスクールのヒップホップである。
アトモスフィアのデュオは、ファンカデリックのような70年代のPファンクをサンプリングとして活用し、それをラップとして再構成している。リリックのテンションは、しかし、現代のシカゴのクローズド・セッションのアーティストに近い雰囲気がある。サンプリングの元ネタは新しくないにも関わらず、デュオのトラックメイクやラップは鮮やかな感覚を湧き起こらせるのだ。
この後、アトモスフィアは無尽蔵のジャンルを織り交ぜながら、アルバムの持つストーリー性を発展させていく。ジャズ、エスニック、ファンクと、彼らは無数のジャンルを取り入れ、ラップソングとして昇華してしまう。
「In My Head」は、モダンなラテン音楽の気風を受けたラップソングだが、70年代周辺の懐古的な音楽の影響を反映させている。さらにデュオは、Bad Bunnyのように、レゲトンやアーバンフラメンコに近いノリを意識しつつも、オールドスクールの熱っぽい雰囲気をラップの中に織り混ぜている。続く「Crop Circles」は、その続編となっていて、アトモスフィアはサイケデリアの要素を交えた世界を探究する。トラックの中に挿入される逆再生のディレイは、AntのDJとしての技術の高さと、ターンテーブル回しのセンスの良さを感じ取ることができる。
続く、七曲目の「Portrait」で、Slugは前のめりなスタイルで歌うが、その一方で、ライムやフロウの情感は落ち着いており、沈静や治癒の雰囲気に満ちている。Slugによる程よいテンションのリリックはチルアウトに比する落ち着きをリスナーにもたらす。聴いていて安堵感を覚えるようなトラックだ。
アルバムの前半部は、アトモスフィアの多彩な音楽の背景を伺わせるヒップホップが展開されていく。これはデュオの旧作や前作のアルバム『Word?』とそれほど大きな差異はないように感じられる。ところが、中盤に差し掛かると、旧来のファンが意外に思うようなスタイルへと足取りを進める。特に、アルバムの中では前衛的なアプローチである「It Happened Last Morning」では、Kraftwerkやジャーマン・テクノと現代のラップミュージックを融合させ、前衛的な音楽を生み出している。Slugのライムは勇ましく希望に満ちている。
その後、アトモスフィアは、反時代的な音楽を提示しつづける。アルバムの持つ世界はセクシャルな領域に入り込み、タブーという概念すら飛び越えていく。そのキャリアの中で異色の曲に挙げられる「Thanxiety」はセクシャリティーの本来の魅力を礼賛しようとしている。バックビートに搭載されるSlugのリリックは「Portrait」のスタイルに回帰しているが、七曲目とは別の質感に彩られ、彼等はやはりラップとテクノの融合に取り組んでいる。アウトロのテクノ調のシンセサイザーのディケイは、次の曲の呼び水ともなっている。
最も奇妙な曲が「September Fool's Day」である。前曲と同様に女性ボーカルのサンプリングを織り交ぜ、Slugのラップとともにセクシャルな世界観が構築されている。アトモスフィアは、パンデミックのロックダウンの時代を回想するかのように、2020年の悪夢的な世界をラップソングとして昇華している。また、この曲はリスナーを幻惑の境地へと誘い込む力を持ち合わせている。
ループの要素を持つ女性ボーカルのセクシャリティーと、それとは相反するSlugの迫力があるフロウの融合は多幸感をもたらし、クライマックスのカオティックな展開へと劇的に引き継がれ、その最後には「Don’t Never Die」というフレーズが繰り返される。真夜中から明け方にかけてのダンスフロアのような狂乱の雰囲気にまみれた曲が終わり、静寂が訪れた後、リスナーは我にかえり、パンデミックの時代が背後に遠ざかったという事実を悟る。表向きにはダンサンブルな快楽性を重視した曲でありながら、哲学的な意味を持ち合わせた画期的なトラックだ。
以後、アルバムは二枚組の作品のような形で、無尽蔵のジャンルを網羅し、その後の展開へと抽象的なストーリー性を交えながら繋げられる。「Talk Talk」、「It Happened Last Morning」は同じくデュオのテクノ趣味が反映されている。さらに「Watercolors」では、エキゾチックな雰囲気を交えたラップミュージックが展開される。
「Holding My Breath」において、アトモスフィアは、オールドスクールヒップホップの魅力を呼び覚ます。この曲では、デュオのレゲエに対するリスペクトが捧げられ、Linton Kwesi Johnson(リントン・クェシ・ジョンソン)を彷彿とさせる古典的な風味のダブが展開される。デュオはバックビートに音色にリチューンをかけ、ジャンクな雰囲気を加味している。リズムやビートはジャマイカの音楽の基本形を準えているが、一方でトーンの揺らし方には画期的なものがある。
この後も、アトモスフィアは、自らの豊富な音楽のバックグランドを踏まえながら、ヒップホップ、フュージョン・ジャズ、ファンクの要素を取り入れたラップを変幻自在に展開させる。その創造性の高さには畏れをなすしかないが、彼らの真骨頂はこの次に訪れる。アトモスフィアは中盤まで抑えていたR&Bやソウルの影響を力強く反映させた曲をアルバムの終盤で披露している。
「Positive Space」、「Big Pictures」は、中盤のテーマである悲哀に根ざした不安とは正反対の安心感のある境地をフュージョン・ジャズとソウルを絡めて再現するが、Dua Lipa(デュア・リパ)をはじめとする現代的なソウル/ラップの範疇にある曲として楽しむことができる。また「Truth &Nail」は、マイケル・ジャクソンの時代のクラブミュージックをサンプリングとして活用し、少し渋い感じのトラックとして昇華している。続いて「Sculpting With Fire」は、ファンクの要素を反映させ、それらを現代的なラップソングとして昇華している。
クローズ曲「Alright(Okay Reprise)」はオープニング曲のリテイクで、原曲より晴れやかな感覚が押し出されている。中盤から終盤にかけての不安から離れ、クライマックスではアルバムのテーマである、愛や、友情、安心といった普遍的な人類のあたたかなテーマへと帰着していく。
『So Many Other Realities』は重厚感があり、聴き応えも凄いが、何より大切なのは、レーベルが”Odyssey"と称するように、アトモスフィアの集大成に近い意味を持つ作品ということである。ニューヨークのアウトサイダー・アートの巨匠、Jackson Pollock(ジャクソン・ポロック)のアクション・ペインティングを想起させる前衛的なアートワークはもとより、タイトルに込められた”同じ瞬間には複数の現実が存在する”という複雑性を擁する哲学的なテーマもまた、このレコードの魅力をこの上なく高めているといえるのではないだろうか。
90/100
Weekend Featured Track「It Happened Last Morning」
現在、Atmosphere の最新作『So Many Other Realities Exist Simultaneously』は、Rhymesayers Entertainmentより発売中です。