Interview 畠山地平(Chihei Hatakeyama)
Chihei Hatakeyama-Courtesy of The Artist |
日本のアンビエント・プロデューサー、畠山地平さんは、2000年代から多作なミュージシャンとして活躍してきました。2006年には、米国、シカゴのレーベル、Kranky Recordsと契約を結び、デビュー・アルバム『Minima Moralia』をリリースしました。グリッチとアンビエントを融合させた画期的な音楽性で、多くのエレクトロニックファンを魅了するようになりました。
以後、独立レーベル”White Paddy Mountain”(Shopはこちら)を主宰し、リリースを行うようになった。その後、アーティストにとってのライフワークとも称せる三国志を題材にしたアンビエント作品『Void』を中心に現在も継続的にリリースを行っています。先日には、サウンドトラックとして発表された『Life Is Climbing』をリリースし、ライブやラジオ出演など、多岐にわたる活動を行っています。
5月12日より公開中の「ライフ・イズ・クライミング」の映画公式サイトはこちらからご覧下さい。
今回、改めて、Music Tribuneのインタビューでは、デビューからおよそ17年目を迎えるに際して、アーティストの人生、音楽との出会い、アンビエント制作を開始するようになったきっかけ、自主レーベルを主宰するようになった時のエピソード、昨年のUK,USのツアーに至るまで、網羅的にお話を伺っています。そこには笑いあり、涙ありの素晴らしいアーティストの人物像を伺うことが出来るはずです。ロング・インタビューの全容を読者の皆様にご紹介いたします。
Q1.
畠山さんは、ティム・ヘッカーが所属する名門レーベル、シカゴのKranky Recordsから2006年にデビューなさっています。これは、どういった経緯でデビューすることになったのか教えて下さい。また、現地のレーベルとのやりとりなどで、苦労したことなどはありましたか?
2001年か2002年に最初のノート型のmacを購入して、DTMを始めました。それまではDTMや打ち込みはそれほど経験がなく、(少しはシーケンサーなどでは遊んでいました)ほぼ手探り状態で作曲していました。当時はトリップホップという言葉もあって、Massive AttackとかBoards of CanadaやAutechreのような曲を作っていたんですね。その当時はビートも作ってました。
それがある時、ビートがあると、どうしても小節や拍に捉われてしまうので、もっと自由に曲が作りたいなと思って、ビートを無しにして作曲を初めて見たら、すごくしっくりきたんですね。それもあって今のような静かな曲を作るスタイルに変化していきました。
その後、ヴァリューシカというユニットを伊達伯欣と吉岡渉と3人で始めて、(これも今でいうとアンビエントにくくれるかもしれません。)ライブ活動や楽曲制作をしてました。同時にsoloでも作曲活動は続けていて、2006年くらいにはクランキーからリリースすることになる『Milimal Moraia』も完成していました。
それで、当時はとにかく海外からリリースしたいという気持ちが強かったので、いくつかのレーベルにdemoのCDRを送りました。その結果、クランキー(Kranky Records: シカゴに本拠を置くレーベル。クラブ・ミュージックからポスト・ロックまで幅広いカタログを有する)から返事があって、「ぜひリリースしましょう」とそういう流れだったんですね。
正直、英語は現在でもあまり得意ではないのですが、そのクランキーにdemoを送る時は、英語のすごくできる友人に協力してもらって、それは今考えると凄くありがたかったです。その友人もすぐに海外に引っ越してしまったので、運も良かったですね。
Q2.
アンビエント/ドローンというジャンルは、日本ではそれほど一般的なジャンルではないわけですが、このジャンルに興味をお持ちになったきっかけについて教えて下さい。
1997年に大学に入学して東京の大学に通うようになるのですが、当時はとにかく音楽バブルというか、下北沢のレコファンとかディスクユニオンとか、渋谷とか、新宿のレコ屋に今じゃ考えられないくらい人が沢山いて、自分もバイト代が入るとすぐCDとかレコードに突っ込んでしまうので、本当に金がなかったですね。借金してまでCDとかレコードとか買ってましたから。。。
それが今じゃ980円でネットで聞きたい放題ですからね。信じられません!! 話が外れてしまいましたが、それで色々と漁っているうちにジャーマンロック、CAN 、NEU!とかに出会って「これだ!」と思って、すぐに似たようなバンドを結成しました。
これは、OUI というバンド名で、NEU!にかなり影響受けてます。まあでも若かったので色々あって、中心メンバーだったはずの自分が抜けて、その後もOUI 自体は活動を続けていたようです。
しかし、こういう若い時のバンド活動のせいで、かなり人間不信に陥りました・・・。その前のバンドは新興宗教にハマるメンバーもいて、気付いたら自分だけが信者じゃなかったとか・・・、とにかく今考えるとバンド運なかったのか、性格が向いてなかったのか。。それで、当時も今なんですが、自分ではアンビエント/ドローンというジャンルではなくて、Rockの一形態としてアンビエント/ドローンというものを捉えていて、少しはRockミュージックでありたいとは自分では思っているのですが、リスナーがどう捉えてもそれは自由です。
アンビエント/ドローンに興味を持ったキッカケですが、90年は誰もアンビエントとは呼んでなくて、「チルアウト」と呼んでいたような気がします。もちろんアンビエントという言葉や、環境音楽という言葉については知っていたのですが、その当時はちょっと80年代はダサい雰囲気だったんです。
90年代の末に大学在学中に色々とアルバイトをしてたのですが、その一つに新大久保の”コンシャス・ドリームス”という凄く怪しいお香とか、何を売ってるんだがよくわからない店がありました。そこでは他のアルバイトのメンバーもほとんどみんな音楽をやっていて、インディーロックからラッパーまで色々いました。
そのお店の店長がトランス系のDJをやってたんですが、チルアウトのDJもやっていて店では90年代チルアウトを流していたんです。テクノの流れのサイケデリックなジャケットのものですね。それで、チルアウトもいいなぁということになって、よくイベントなど行くようになりました。
当時はまだ細野晴臣さんもアンビエントやってたのかどうか、定かではないのですが、細野晴臣さん絡みのイベントでMixmaster MorrisがDJをするイベントに遊びに行きました。そしたら凄い人が来ていて、音楽も素晴らしいし、感激しました。それがアンビエントとの最初の出会いかもしれませんね。
その後色々あったと思うのですが、最初にラップトップを買ったあたりで下北沢にONSA(編注: 2011年に実店舗は閉店したものの、現在はwebで営業中のようです)というレコード屋がオープンして、この店のセレクションがとても素晴らしくて、多分シスコで働いていたバイヤーの人が始めた店だと思うのですが、その店はエレクトロニカ、今で言うとアンビエントものが多くて、それでアンビエントの方に一気に流れた感じです。当時はフェネスとJim O’Rourkeが私のアイドルでした。そのお店で結局色々と買っているうちに、自分はビートのない静かな音楽が好きなんだなということに気付いて、どんどんハマって行ったという流れですね。
Q3.
また、高校時代にはメタリカ、スレイヤーなどスラッシュ・メタルに親しんでいたとのことですが、バンド時代のエピソードなどがあれば教えて下さい!!
中学生の時はサッカー部で、部活が終わるとテレビゲーム三昧でした。ドラクエ、三国志、信長の野望、ストリートファイターと、部活の休みの月曜日はゲームセンターとテレビゲーム黄金時代で、サッカーとテレビゲームの日々だったため、音楽はほとんど興味なくて、それでもテスト勉強用のBGMに何か聞きたいなぁ・・・と。
当時はBzとかZARDの全盛期だったんですが、音楽の明るさに全くついていけなくて、そんな時に小田和正のドラマの曲「ラブストーリーは突然に」を聞いて、「これだ!」と思って、それで小田和正のバンドのオフコースにハマってしまって、中学三年間はオフコースしか聞きませんでした。
今考えると、小田和正は70年代当時ライブでシンセに囲まれて歌っていて、プロフェットとか、ムーグとか、凄い良いシンセを使ってるんですね、楽曲も割と静かですし、その自分の原体験が現在のアンビエントに通じるものがあるのかもしれません。
それで高校に入学した時はサッカー部に最初入ろうと思ったのですが、どうも練習のレベルが中学生の時のレベルではないなぁ・・・と。かなりみんな本気で取り組んでましたので、二の足を踏んでしまって。。でも、これが運命の分かれ道だった。そんな時、クラスメートに「バンドやるから一緒にやらない?」って誘われて、ギターも持ってないし、どうしようと思ったんですが、特に他にやることも無いしと、バンドを始めました。最初は全くの消極的な理由なんです。
最初の1年間は他のメンバーの言うことを聞いて、BOØWYとかブルーハーツとかをコピーしてました。実はそんなに思い入れがなかったんですが…。でも、その軽音楽同好会に一人めちゃくちゃ凄い先輩がいて、その人はその後、山嵐(日本の伝説的なミクスチャーロックバンド。詳細はこちらより)というミクスチャーバンドでデビューして、中心メンバーとして今も活動してます。
その人は、洋楽に凄く詳しかったので、その影響で、メタリカとかのスラッシュ・メタルを聴くようになったんです。ギターの方は、ラーメン屋で半年くらいバイトして、なんとかお金をためて、今でも使ってるフライングVを10万円くらいで購入しました。そこのギター屋のマスターがレッド・ツェッペリンが大好きで、コピーバンドをやっていて。太ったジミー・ペイジのようなルックスのおじさんで面白かったんですが、その人の進めるままにフライングVを買ってしまったんです。が、これが大失敗だった..。なぜならフライングVは座って練習できないんです。
なので、2本持ってる人とかは、座って別のギターで練習して、ライブとか練習で、フライングVを弾けば良かったんですが、自分の場合はフライングVしかなかったので、ずっと立って練習していました..。でも、高校生の2年生の夏休みだけ、バイトもやめて、ひたすら朝起きで夜まで立って早弾きの練習をしていたら、それなりに弾けるようになったんです。今、考えると凄い。それでバンドメンバーに「もう邦楽はやめて、スラッシュ・メタルをやろう」と提案して、スラッシュ・メタルを演奏するようになりました。バンドメンバー全員で、パンテラのライブに行けたのが、最高の思い出です。会場は幕張メッセだったんですが、ギターとドラムの音がやたら大きくて、ヴォーカルの声がぜんぜん聞こえない。それでも会場は沸騰したヤカンみたいになっていて、音のバランスなんでどうでもいいんだと変なことを学んでしまいました。。
Q4.
以前、他のインタビューでエリック・サティについて言及しているのを読んだ記憶があるんですが、特にアンビエントに関して、影響を受けたアーティストを教えて下さい。ジャンルは電子音楽ではなくても構いません。また、そのミュージシャンのどういった点に触発されたり、影響を受けたのかについてもお伺いしたいです。
クリスティアン・フェネスやジム・オルークにも影響を受けたんですが、今回はブライアン ・イーノからの影響を考えてみます。
2010年前後から、アンビエント/ドローンというジャンルを意識するようになりました。それまでは、先ほど申し上げたようにあえて、Rockミュージックの一形態、もしくはエレクトロニカ、ポストロックの一形態ということで、自分の音楽を捉えていたのですが、2000年代後半くらいから、アンビエントやドローンというキーワードが浮上してきたように思います。
それまではあえてブライアン ・イーノを聴くことを避けて来ました、それはあまり有名すぎて、強烈なので、真似してしまうんじゃないかと不安だったからです。それでもちゃんと一回向き合おうと思って、ほとんど全作品を一度に購入して、聞きました。
その結果、一番好きなアルバムは『アポロ』ということが分かりました。その作品からの1番の影響はストーリー性かもしれません。アルバム1枚の流れの美しさというか、アンビエントでも曲調が豊富で、楽器の数も多い。アンビエント・シリーズ(編注: ブライアン・イーノとハロルド・バットとの共作のこと)だとミニマルなものが多かったので、とても斬新でした。あと、シンセの使い方ですね。音色の使い方から、レイヤーの方法など、具体的なこともブライアンから研究しました。そのあたりの影響が自分の作品では『Forgotten Hill』に出ていると思います。
Q5.
畠山地平さんは非常に多作な作曲家だと思っています。2006年からほとんど大きなブランクもなく、作品をリリースしつづけています。これはほとんど驚異的なことのようにも思えます。畠山地平さんにとってクリエイティビティの源はどこにあるんでしょうか?
これまた中学生の時のエピソードに戻ってしまって申し訳ないのですが、その当時テレビ番組で、関口宏の『知ってるつもり』(日本テレビ系列で1989年から2002年まで放映されていた教養番組。関口宏がホスト役を務めた)というものがありまして、好きで、よく見ていたんです。ある回で、種田山頭火のことが取り上げられたんです。それで、種田山頭火(大正、昭和初期の俳人。季語や5・7・5の定型句を無視した前衛的な作風で知られる)の芸術に対する生き方というのものに衝撃を受けて、「これだ!」と思ったんですね。それで自分も旅をしながら詩を書いて生きようと思ったんですが。。言葉が出てこない。。でも、そういう生き方もあるんだなと勉強になりました。それでもミュージシャンなら、ツアーしながら、生活もできるので、似たようなポジションかなと思って..今も続けてるという面もありますが。。
また、別の側面から行くと、とにかく曲を作るのが楽しいというのが一番最初にあります。特に自分の場合はインプロヴィゼーションで、ガーと一気に録音するんですが、その時が一番楽しい。
ポストプロダクションやミックスは最近飽きてしまってる面もあるというか、少し辛くもあるんです。でも作曲の最初の段階、インプロヴィーションの段階は自由ですから、今日はどんな曲が出来てくるのかなと自分でもワクワクするっていうか、そういう面もあります。常にスタジオでギターを持って、音を出せば未知のものが出てくるので、そりゃ楽しいよなと、そういう感じなんです。
で、最初の話に繋げると、その日の気分で、詩を書くように音楽をやっているそういう感じなんですね。
Q6.
畠山さんは東京と藤沢にルーツを持つようです。幼少期はどういった人物でしたか? また以後、長く音楽に親しむようになった思い出がありましたら教えて下さい。
小学生の時は外で遊ぶのが大好きでした、ほとんど野外ですね。藤沢でも六会日大前という駅名なのですが、日大がありまして、それが農業系の学部があったんです。その関係で、ほとんどが日大の土地なんですが、未開の森とかも残されていて、本当に面白かったです。
森への冒険は人が誰もいないので、もちろん入ったら、大人に怒られるんです。なので、友達を誘っても一緒に来てくれなかった。なので、一人で森の奥まで冒険に行ってました。。今考えると恐ろしく危険でした。手付かずの川も流れてるし、かなりヤバイです。あと線路の上で遊びたくなっちゃって、線路の上で遊んでいたら、警察官に補導されたんです。今考えると尋常じゃなかった。
あとは日大の土地に秘密基地を作っていたんですが、小学生も高学年になると物凄い高度な基地になってしまい、家具とかもゴミの日に全部拾ってきて、家みたいになっちゃって。そういう基地を2個か3個作ったんですね。友人というか手の器用なやつを集めて。。
そしたら、だんだん噂になって来て、その基地の奪い合いの喧嘩騒動に発展してしまったり。後は最初は基地は木を利用して作っていたんですが、目立つので、地下に作ろうと思って、物凄く大きな穴を掘って基地を作ったんです。それが何故か大人に見つかって、泣く泣く埋め戻しました。
幼少期はほとんど音楽に触れる機会はなくて、楽器を始めたのは、高校生になってからでした。ですが、現在に繋がるという視点で行くと物作りと一緒なんです。創造的なエネルギーというか、とにかく基地を作るということに全力投球でしたね。
Q7.
昨年のUSツアーに関してご質問致します。3月、4月に、シアトル、ニューヨーク、クリーブランド、デンバー、ポートランド、また、一度帰国してから、5月に、ロサンゼルス、シカゴ、ミネアポリスでツアーを開催なさっています。
ほとんど全米ツアーに近い大規模なライブスケジュールを組まれたわけですが、これはどういった経緯でツアーが実現したのでしょう? USツアー時、特に印象深かった土地や出来事等はありましたか? また、畠山さんの音楽に対する現地のファンの反応はいかがだったでしょう?
2019年頃に今のツアーマネジャーと契約して、彼はアメリカ人なのですが、本当は2020年にUSツアーや、ヨーロッパツアーをするつもりだったんですが、コロナのパンデミックで全てキャンセルになりました。それで、改めて去年アメリカツアーを開催すること出来ました。
アメリカで”Ambient Church(アンビエント・チャーチ)”という教会でアンビエントのライブをするイベントがあるのですが、それがメインでした。ニューヨークでは、1000人くらい入る教会だったような気がします。現地のファンは静かに聞いてくれます。それが1番有難かったです。やはり静かな音楽なので..、反応とかは分からないんです。
ただアメリカは物販は物凄く動くので、お金の使い方は派手です。初回のコンサートの本番前に日本から持っていたレコードが売り切れて、驚きました。CDは手元に残りましたが..。それで、現地のディストリュビューターやレーベルに協力してもらい、急遽レコードを掻き集めて、ライブ会場に直接送ったりしてなんとかしました。
初めて海外旅行に行った街がニューヨークだったので、それが一番感慨深かったというか、24年振りだったので、全部の印象が変わっていたという感じでした。。でも、いつかこの街でライブをしたいな、とその当時思ったので、その夢が叶うのに24年もかかりました。でも、24年待った甲斐があったというか、凄く複雑な感情でした、時が逆再生されているような感覚というか。。またロサンゼルスは初めて行ったのですが、気候も凄くいいし、今にも折れそうな椰子の木が街中に植えてあって、景観も最高でした。
Q8.
続きまして、先日のイギリスツアーに関してご質問します。ロンドンなど、現地の観客の畠山さんの音楽に対する反応は、昨年のアメリカ・ツアーと比べていかがでしたか? またライブ開催時に現地のファンとの交流において印象深かった出来事などありましたら教えて下さい。
イギリスの観客も静かに熱心に聞いてくれるので、とても有難いです。今回の会場は多分400人くらいの規模だったと思うのですが、ステージも含めて、電気の関係なのか、暖房設備がなくて、とても寒かったです。そのため、仕方なくコートを着てライブをしました。60分の演奏予定だったのですが、実際は75分くらい演奏してしまって..。スタートの時間を勘違いしていたんです。自分でもなんか長いかな、と思ってたんですが…。最近、このパターンが多いんです。物販はアメリカに比べるとそこまで動かないです。イギリスとアメリカでここまで違うのかと、かなり興味深いですね。
Q9.
また、イギリスのツアーの際、物価の高騰に関して、ツイッターでつぶやかれていました。これに関して日本とイギリスの生活スタイルの相違など驚いたことがありましたら教えて下さい。
元々、失われた20年のなかで日本だけが、デフレ傾向だったところに円安が加わってどうにも信じられないくらい物価高いというイメージです。
基本的には、ラーメン一杯3000円くらいで、チップとかまともに払ったら、もっと行くでしょう。世話になった人に気軽にラーメンを奢って、ビールを一杯飲んだだけなのですが、あとでクレジットカードの明細見たら一万円超えになっていたので、これではマトモに機能しないな、と。
また、アメリカで泊めてくれた友人に家賃を聞いたら「6000ドルだ」と言ってまして…、日本円にしたら80万くらいですか…。でも、その人も夫婦共働きで暮らしていて、給料もお互い6000ドルくらいな感じのことを言ってましたが…。イギリスのツアーは結局、自分も派手に飲んだり食べたり、遊んでしまったので、大分赤字でした。ギャラは結構好条件だったんですが…。
でも、もうツアー行ったら思いっきり楽しんじゃった方がいいかなと、人生も半分終わってしまったので、ギリギリツアーは、肉体的にも精神的にも辛い。若い頃はそれでオーケーだと思うんですが、機材も重いし、ダニに噛まれながら、ボロボロのゲストハウスで、出稼ぎの人の騒ぎ声で夜も眠れないツアーはかなり厳しいです。それも今では良い思い出となっているんですが…。
Q10.
よく知人などから、外国にいくと、日本食が恋しくなるという話を聞くんですが、その点、いかがでしたか?
そうですね、自分の場合はラーメンも含めて中華料理が恋しくなってしまうんです。チャーハンとか焼きそばとか、でも中華料理は今のところどこの国も大体クオリティが良くて安い。なので、結構良さそうな中華料理屋を探します。あとは毎回外食だとこれまた金が持たないので、カップラーメンとかツアーに持って行くといいです。ペヤングを向こうのホテルで食べると半分は懐くしくて感動しますが、半分は虚しさも残ります。その複雑な感情がなんともいいんですね。
シカゴで暇だった日にカップラーメンを探す散歩に出かけたのですが、なかなか美味しそうなものが見つからなくて、それで半日くらい費やしましたが、贅沢な時間だったなと、日本にいたら仕事に追われて、半日も無駄に出来ませんから。
日本食という寿司かなとも思うんですが、寿司は高級なので、食べれませんね。。イギリスでは''wasabi''という日本食のファストフードみたいな店があって、そこの寿司巻物は何回か食べました。
Q11.
以前からプレミアリーグのファンであると伺っています。いつくらいからプレミアに興味を持つようになったんでしょうか? またお気に入りのチーム、選手、またフットボールなどについて教えてください。
プレミアリーグだけでなく、ラ・リーガやセリエA、CLもチェックしています。現在はかなりのサッカーフリークになってしまっていて….プレミアリーグはアーセナルのファンです。2003-04の無敗優勝の前のシーズンから少しずつ観るようになって、当時のアーセナルのサッカーは美ししすぎて、本当に衝撃でした。。以来、アーセナルを追ってます。セリエAではインテルが好きなんですが。。
こちらは元会長のモラッティさんのファンという形で今も試合を追ってますね。アーセナルはでも無敗優勝以来優勝できてなくて、プレミアにはモウリーニョから始まって、ペップ、クロップなど、どんどん素晴らしい監督が集まってきて、それでもヴェンゲルさんのサッカーは最後までブレずに見ていて楽しい試合が多かったです。勝ち負けはともかく。。激動は18-19シーズンのエメリ監督就任からですかね。。全然勝てないし、サッカーも面白くないと、まずいまずいと思ってるうちに、どんどん不味くなっていて。。こっちの気分も最悪に落ち込みました。
ヴェンゲルさんの時はそれでもサッカーが面白かったんで。。それでアルテタ監督がやってきたのですが、21-22シーズンからやっと少し上昇気流で、今シーズンも大半の時期は首位だったんですが、最後にシティに抜かれて。またこれかと、アーセナルを応援しているとどうしてもネガティブな予想をしてしまうんですが、ぬか喜びしないために・・・。
今シーズンもまさにその展開でした。でも昨シーズンは5位だったわけで今シーズンは2位ですから、そんなにうまく行くはずないとは思いながらも来シーズンは優勝の期待大と思いたいです。
サッカーと音楽の共通点があるとすれば、感覚とロジックの鬩ぎ合いだと思っています。どちらも音楽理論や戦術など、ロジックな要素をベースにしつつも、最後は感覚の問題なんですね。瞬間に何が出来るか、時の流れの早さが変わります。その時の流れが通常の速さからゆっくりした流れに変わった瞬間をどう捉えるのか。サッカーをプレイするのと、楽器を演奏するのは共通点が多い気がします。なので、サッカーを観ながら、いつも音楽の作曲の参考にしてます。
その観点から行くとペップ・グアルディオラには本当に感銘を受けます。この10年間くらいのサッカーの戦術の流行の源流は間違いなく彼が作っていますから、日本を含め世界中で真似されています。それでも今シーズンも偽センターバックなど、新しい戦術を開発してしまって脱帽です。
Q12.
畠山さんのリリースの中で連作『Void』があります。この作品はある意味、ご自身のライフワークのような作品に位置づけられるように思えます。この作品を制作を思い立ったきっかけなどについて教えて下さい。また、この連作は現在「ⅩⅩⅤ」まで続いていますが、どれくらいまで続けるか想定していますか?
『Void』シリーズは最初はBandcampを始めるあたって、ライブの録音や未発表曲を纏めたものをリリースしていました。当初からデジタル・オンリーという位置づけでした。フィジカルを想定したものだと、こちらもかなり力が入ってしまうため、そうではないものが、いい意味で力の抜けたものがあってもいいかな、と。それと作り手の私の主観で素晴らしいと思ってもリスナーにとってはそうでもないというケースや逆のケースもあることに、このシリーズで気付きました。
そうやって何作品かリリースしているうちに、このシリーズの人気が出てきて、だんだんと新作の発表の場に変化していき、『Void 22』は勢い余ってCDでもリリースしてしまいました。。『23』からはまたデジタルに戻る予定ですが..。ちょっとブレてしまった。。今も『26』を準備しているところです。30くらいまで続けたいなと思ってるんですが、最近はペースが落ちていますね。。
Q13.
2010年からご自身のレーベル”White Paddy Mountain”を主宰なさっています。このレーベルを立ち上げた理由をお聞かせ下さい。さらに、どういったコンセプトを持ってレーベル運営をなさっているんでしょうか? またオススメのアーティストがいましたら教えて下さい。
2010年くらいまでは会社員だったんです。実に自由な会社で、働き手にとっては素晴らしい会社でした。
給料は安かったんですが…、創作活動と並行して会社員を続けることが出来たんです。でもだんだん在籍していても、何の成果もないので、だんだんと場所が窓際に近づいて行くのを感じてました。。
業務としては社長の個人的な音楽レーベルのスタッフという位置付けで、社長の決めたリリースの営業やら広報を担当するという内容でした。入社した時から若干怪しいなと思ったんですが、社長のリリースする作品が全然売れないんです。
その当時はまだCDの全盛期で、他のCDは結構売れてました。それで、社長も他の業種に目がいったのか、遂に映画製作などにも手を出してしまい、自分はその映画の広告担当になったんです。でも映画の広告なんて経験もないしうまく行くはずもなく、壮大にコケました。あの一年は本当に全員狂った季節でした。会社として大金を投資したので、公開2日目に映画館に視察に行ったらお客さんが一人(!!)という始末でした。あの時の気持ちは生涯忘れられません。情けなさと怒りと、とにかく感情が渦巻いていました。
新宿の空に真っ黒な雲が垂れ下がっていて、歌舞伎町の風が冷たかったです。切腹ものでしたね。。そんな感じで最後は責任取らされるじゃないですけど、社長も冷たい塩対応になってしまって…。その時30代の半ばぐらいだったかな。。このままじゃまずいぞと思って、独立して自分レーベルやってみようと、そんな感じで始めました。しかし最初の一年は大赤字で貯金が全部吹っ飛びました。気持ちいいくらいに。
シュゲイザーやインディーロックなどをリリースしつつ、アンビエントもリリースするというスタンスでスタートしたのですが、シュゲイザーやインディーロックはそこそこ売れたんですが、アンビエントやエクスペリメンタルが全然うれなくて、回ってないと実感していたんですが..、最後は野外イベントで壮大に大金を飲み代に使って、持ち金をゼロにして、背水の陣で反転攻勢に転じました。
そこからはう少しはまく回り始めたんですよね。まあ、とにかくその当時はレーベル業務に全力投入という感じで、プチビジネスマンでした。新人発掘も大変でした。良いアーティストの噂を聞いてはライブハウスに見にいって声かけたりと、凄いエネルギーでした。そんな時、satomimagaeさんに出会って、この子は本物だと思い、素晴らしい未来が見えました。satomimagaeさんはWPMに2本の作品を残してくれて、今はアメリカのRVNG所属のアーティストになっています。
satomimagae、Shelling、family Basikなどがオススメです。アンビエント系は自分がセレクトしたので、良いはずです。。そうしてるうちに、パンデミックがやってきて、少しレーベルを休んでいたら、自分のスタンスも変わってきて、今は自分の作品を出しているだけという状態になってます。しかしパンデミックも終わったので、またリリース活動を再開したいとは思ってますね。
Q14.
もちろん、畠山地平さんの作品は必ずしもアンビエント/ドローンだけでは一括出来ないように思います。ジャズに関してもお詳しいと聞きます。しかし、2007年からこのジャンルにこだわりを持ってきたのは理由があるのでしょうか? また、電子音楽やアンビエントを作っていて良かったと思うような瞬間があったら教えて下さい。
自分の中ではこだわりを持ってきたというよりは時の流れが早すぎて、自分の聞きたい音楽を作っていたら時間が経過していた、みたいな気持ちなんですね。この電子音楽やアンビエントというのも自由なジャンルなんで、アイデアは次から次へと出てくると、そういう感じなんです。
一つ父親からの忠告かアドヴァイスか、分からないですが、『芸術家は山師と同じだ、一度そこ場所を掘ると決めたら、宝が出てくるまで掘り続けなければならない』そういう事を言われまして、とにかく一度アンビエントを始めた以上最後まで掘り続けようという気持ちでここまで来ました。
ただ2008年〜2011年の間には「Luis Nanook」という歌物のユニットで活動しておりまして、私は作曲とかミックス、ギターなどをやって、もう一人ヴォーカル、作曲、ギター担当の二人で活動していました。
でも!レーベルからCDをリリースするようになったら、そのヴォーカルが変わってしまって、凄い良い性格の人だったんですが、多分売れないといけないというプレッシャーが強すぎたんでしょう。1枚目はアンビエントだったんですが、2枚目でビートルズみたいな曲を作ってきたので、ビックリしました。色々あって活動停止しました。そういう経験もあって、ブレずに電子音楽やアンビエントを続けようと思った。それでも今はまた、静かな歌物を作りたい気持ちはあります。
電子音楽やアンビエントを作っていて良かったのはファンレターで、「すごく寝れるようになった」というメールが多いんです。そういう時は本当に人の役に立ったなと。自分も不眠症で寝れない辛さは本当によく分かりますから。
Q15.
畠山さんは、ギター、エフェクター、録音機材など、かなり多数の機材をお持ちのようですね。例えば、同じようなギターを主体にしたアンビエントのプロデューサーにはクリスティアン・フェネスなどがいますが、正直、畠山さんのサウンドは他にないような独特なものであるように感じます。ギターや作品のサウンドの作り込みに関して、独自のこだわりがありましたら教えて下さい。また、実際の音源制作に際して、試行錯誤する点などがありましたら教えて下さい。
機材は好きで集めてるうちにだんだんと自然に溜まってきたという感じです。作曲というか楽曲制作のこだわりは、常にスタジオで、電源を入れたら音が出るような状態をキープする事ですね。思いついた時にすぐに音を出せるのが一番いいです。
また、作曲をする時間帯ですね。朝は夜が明けるまでの4時から7時くらい、夕方も4時から8時くらいまで、この昼と夜の変化する時間帯、つまり、この時間に作曲された曲がいいのが多いです。この時間帯に創作意欲が湧くんです。サッカーは夜遅くとか不便な時間に行われるので、自分も全く不規則な生活になってしまって、それでも、朝の4時から7時というのは、そんなに出来ないです。ごくたまに朝方になる時があって、そういう時はその時間帯がいいですね。
ほとんどの曲はボツになって永遠に日の目を見ないと思うのですが、良い曲に関しては共通項があって、ほとんどその曲にまつわる記憶がないというのがあります。どういった状況で作ったのか、どうしてそのアイデアに行き着いたのか等、そういう曲についても本来覚えているはずの情報や記憶が全くない曲が、たまに紛れてしまっているんです。そういう曲はすごく良かったりします。
Q16.
デビュー作『Milimal Moraia』のリリースからおよそ17年が経ちました。あらためてご自身のキャリアを最初期を振り返ってみて、2006年と2023年、ご自身の制作に関して、あるいは、ミュージシャンとしての心境の変化はありましたか?
2006年当時は右も左も分からずにガムシャラに暗闇に突っ込んでる感覚でしたが、最近は一応道が分かりつつ、懐中電灯を持って歩いているくらいの感覚でしょうか。それでも少し先しか見えないです。相変わらず暗闇の中を歩いている感じはある。今後はこれまでのアンビエントのベースを活かしつつ、コラボレーションなどを通じて、音楽の幅を広げたいという心境になりました。
最後の質問です。
Q17.
まだイギリスツアーから帰国したばかりですが、今後の新作のリリース、公演の予定などがありましたら、可能な限りで構いませんので教えて下さい。
5/12からサウンドトラックを手掛けた映画『ライフ・イズ・クライミング!』が公開されています。CDも発売されました。また今年の11月にはポーランドでフェスに出演しますので、そのタイミングで小規模なツアーが出来ればと思っております。
インタビューにお答えいただき、本当にありがとうございました。