【Weekly Music Feature】 Antoine Loyer (アントワーヌ・ロワイエ) 「Talamanca」  ベルギーのアヴァンフォークの鬼才とメガロドン・マラデスと共演

 

 Antoine Loyer via Le Saule

アヴァン・フォークの鬼才、Antoine Loyer(アントワーヌ・ロワイエ)が5枚目のアルバム『Talamanca』をフランスのLe Sauleからリリースします。アントワーヌ・ロワイエについては、音楽評論家の高橋健太郎氏(日本の音楽評論家。ミュージック・マガジン、朝日新聞、クロスビート、サウンド&レコーディング・マガジン等、日本国内の大手雑誌で数多く執筆を手掛け、かつて坂本龍一とともに反原発の運動を行っている)がこのアーティストを絶賛している。

 

高橋健太郎さんは、2014年のアルバム『Chante De Recrutement』を、Music Magazineの2014年度のベスト・アルバムとして選んでいる。「アントワーヌ・ロワイエを前に、僕は身も心も打ち砕かれている。中略……、アントワンヌの歌は線の細いつぶやきのようなもので、ギターはニック・ドレイクを思わせるのだが、それがなぜかラジャスタン音楽をも見事な融合を見せる。ブリュッセルやパリの街が持つエキゾ性をそのまま体現しているように。12音を自由に行き来する作曲法。ワールド録音的な音像を含め、新しい世代感覚を感じる」と高く評価している。

 

2021年のフルレングス『Sauce chien et la guitare au poireau』以来の2年ぶりのニューアルバム『Talamanca』の収録曲には、前作と同じく、Mégalodons malades(メガロドンズ・マラデス)というオーケストラが参加している。5作目のアルバムのレコーディングは、スペインのカタルーニャ地方の同名の村の教会と、古い家で行われた。作品に妥協はない。ブリュッセルの小学生と一緒に作った曲も数曲含まれるという意味では、既存のアルバムの中では最もアクセスしやすいことは間違いない。


『Talamanca』はベルゴ・カタロニアの教会の名称であり、2019年にその名の由来となったスペインの村で足場が組まれた。


このアルバムの制作についてアーティストは以下のように説明している。


あの時、私たちはキッチンテーブルの周りに座って労働していた。その後、パンデミックが到来したものの、以来、私たちは何も変わっていないし、変わるはずもなかった。

 

毛布の上に寝そべりながら、子供がレコーディングの間、手持ち無沙汰にしていた。フランス語で(「Marcelin dentiste」)、次にフードの言葉で(「Marcelí」)、彼は2回歌ってくれた。私は、"Percheron frelichon "で、彼の喃語を聞くとはなしに聞いていた。

 

 

Antoine Loyer & Mégalodons malades


クラシック・オーケストラの最も奥深い楽器であるコントラ・ファゴットが、レコードの全編に力強く流れている。『Talamanca』は、優しく、軋むとすればほんの一瞬である。ブリュッセルの学校で子供たちとともに作られた歌が録音時に持ち込まれ、("Demi-lune "、"Pierre-Yves bègue")、("Robin l'agriculteur d'Ellezelles", "Un monde de frites")ではピッコロが演奏される。


私が愛するすべてのものは、会話しながら(会話によって)急速に書かれ、近くにあったギターによって収穫された。私はこの方法で何千もの作品を作ることができる。そのため必要なのは、周りの邪魔をしないことだった。事実上、長いコントラファゴットの動脈は幾重にも重なり私たちの前に現れ、流れを塞ぐことは考えられなかった。


『Talamanca』のアートワークの表紙を飾ったのは、アントワーヌより20歳年下のダンサー、アンナ・カルシナ・フォレラドだ。


『Talamanca』/ Le Saule



アントワーヌ・ロワイエの音楽形式を端的に断定づけることは難しい。音楽としては、フランスの70年代のフレンチ・フォークに近い印象がある。一般的には、その作風はバッハのアレンジやベルギーのトラッドを下地にしたものであると言われ、スペインのアンダルシア地方やモロッコ、北アフリカのラジャスタン音楽やマグレブ音楽の影響を指摘する識者もいる。マグレブ音楽とは、アンダルシアから北アフリカへと脱出したイスラム教徒がもたらした音楽であると言われる。楽式は、5部構成の「ナウバ」と呼ばれ、バッハやイタリアン・バロックのカンタータの形式に似たものであるという。
 
 
正直なところ、『Talamanca』のレビューに関しては白旗を振るしかない。このレビューを完成させるためには、単なるエクリチュールの理解だけでは不十分で、ヨーロッパの歴史を紐解く必要があると思う。ヨーロッパ全体を語る上では、北欧のバイキングの時代から、ムスリムとの関係、オスマン・トルコ帝国がどのように領土を広げていったのか、どのような形で文化性が他の地域に浸透していったのかを念頭に置かなければならない。もちろん、例えばモロッコ等の北アフリカ地域についても視野に入れないといけない。更には、マラケシュのような不可思議な地域の文化性も加味し、歴史学者のような詳細な視点を交えて熟考していく必要があるが、あいにく、私は歴史学者として著名なウィリアム・マクニールに成り代わることもできないし、それらの概要を語る知見もない。というわけで、このレビューでは、それらのイスラム教圏とキリスト教圏の折衝地であるヨーロッパという共同体を、音楽的な観点から断片的に解き明かし、アントワーヌ・ロワイエの音楽について言及していくのが理にかなっていると思われる。
 
 
日本の音楽評論家の高橋健太郎氏が指摘するとおり、Antoine Loyer(アントワーヌ・ロワイエ)の音楽は、ヨーロッパ主体のものでありながら、わずかなエキゾチズムが漂っていることに気がつく。
 
 
そもそもユーロ圏で最も深い文化性がある一都市は、曲解も招く恐れがあるかもしれない上でいうと、ブリュッセルとも考えられる。EUの本拠があることは言わずもがなではあるが、ベルギーの複数の建築物、それは中央裁判所やアントワープの駅舎を見ればよく分かる。ブリュッセルという街には、イギリスはもとより、フランス、ドイツ、そのほか、スペイン地方の文化性が混在してきたヨーロッパの歴史がめんめんと引き継がれている。つまり、ヨーロッパとイスラム圏の貿易の折衝地としてのベルギー/ブリュッセルという土地の姿が、アントワーヌ・ロワイエの音楽に耳を澄ましていると、その音像のバックグラウンドに自ずと浮かびあがってくるのである。


そして、インドのラガやラジャスタン音楽、それとインドネシアのケチャに近いアジアの音楽の影響も込められているように思え、それらは現代的なダンスミュージックとは別の原初的な踊りや儀式のための音楽としうかたちで、この五作目のアルバムの重要な骨格を形成している。なぜインドを始めとするアジア圏の音楽がアントワーヌ・ロワイエの音楽に含まれているのかといえば、これはおそらく、レコーディングがおこなわれたスペインのアンダルシアの文化性が本作に取り入れられていることが主な理由に挙げられる。つまり、インドの音楽自体が北アフリカのマグレブ音楽の影響を加味しているからであると思われる。小アジアから北アフリカにかけての音楽が、のちに小アジアへ、さらに、南アジアへと伝播していったと推察される。これは、インドのタブラの原型となる打楽器がマグレブ音楽の中には存在するからである。
 
 
しかし、Antoine Loyer(アントワーヌ・ロワイエ)の志向する音楽は、例えばスペインのパブロ・ピカソの青の時代の次の象徴主義のように不可解でシンボリックな抽象性があり、その音像が色彩的に組み上げられると仮定しても、また同じように、実際のギターの音楽が現代音楽の12音技法を中心に作曲されると仮定しても、実際に繰り広げられる音楽については、アーノルト・シェーンベルクやウェーベルン、ベルクの歌曲に代表される新ウイーン学派の作曲家とは異なり、それほど難解でもなければ、親しみづらいものでもないことが理解出来る。アントワーヌ・ロワイエの楽曲の構成は、協和音と不協和音が混在する、きわめて難解な形式ではありながら、歌については、主に調和的な旋律を中心に組み上げられているため、70年代のフレンチ・フォークやユーロ・フォーク、T-Rexのマーク・ボラン、ビートルズのポール・マッカートニーがビートルズ時代と以後のソロ活動で完成しきれなかった形式のアート・ポップを継承したアヴァン・フォークとして楽しめる。アントワーヌ・ロワイエのギターの演奏は無調音楽に近いが、彼とメガロドンズ・マラデスのボーカルは柔らかな響きを成し、調和音と無調和音が折り重なり、奇異な音響空間が生み出される。これは「目からウロコ」とも称するべきで、イギリスの現代的なアーティストの音楽といかに異なるものであるのかが理解していただけることだろう。
 
 
アルバムは、スペインの村の教会を中心に録音されたが、中世の教会音楽としての形式はそれほど多くは含まれていない。その一方で、音楽の形式的な部分や曲のタイトルのテーマの中に密かに取り入れられている。オープニング曲を飾る、ソ連の映画監督であるアンドレイ・タルコフスキーの映画に因む「Chant de Travail」で、この五作目のアルバムはミステリアスに幕を開け、 メガロドンズ・マラデスのコントラ・ファゴットと女性中心のクワイア/コーラスにより一連の楽曲の序章のような形で始まる。
 
 
その後、ベルギーのトラッド、フレンチ・フォークを吸収したロワイエによるアコースティック・ギターの圧巻の演奏が始まるが、パット・メセニーのような神がかりのギターの演奏が始まった途端、レコーディングの雰囲気が一変する。温和な室内楽団のような雰囲気のあるメガロドン・マラデスのコントラファゴットや弦楽器の演奏に、アントワーヌ・ロワイエのギターの演奏と歌が加わると、インドネシアのケチャやインドのラジャスタン音楽のような民族的な踊りの音楽の様相を呈しはじめる。
 
 
アントワーヌの曲は、そのすべてが生の楽器とボーカルで構成され、リズムが加わると特異な雰囲気が加わり、「音楽の放電」とも称するべき奇異な瞬間が生み出される。表層的な部分では、フォーク・ミュージックが展開されるように思えるが、その奥深くには、コントラファゴットに象徴されるように、アンビエント・ドローンに近い前衛的な音楽を聞き取ることもできよう。これはかつて20世紀の時代に、パブロ・ピカソが代表的な傑作『ゲルニカ』で描いたように、複数の次元が一つのキャンバス内に混在する多次元的なフォーク音楽とも称する事ができる。
 
 
このように前置きをすると、不可解な音楽のように思えて、少し身構えてしまうかもしれない。しかし、その後は、70年代のフレンチ・フォークとも親和性のあるキャッチーな曲展開が続く。「Nos Pied(un animal)」は、フランス近代作曲家の抽象主義の色彩的な和声法を元にして、アントワーヌとメガロドンズ・マラデスのロマンチックなコーラスで始まる。しかし曲の途中から曲調が変化し、インドネシアのケチャ、ラジャスタン音楽のように踊りの動きのある民族音楽へと変遷を辿る。    


「Nos pieds (un animal)」
 
     



その後も、曲は揺れうごいていき、女性のコーラスを交え、ヨーロッパの舞踏音楽の楽しげな瞬間へと続く。ポーランドのポルカを主体とするワルツというより、ベラ・バルトークが実地に記録として収集していたハンガリーの民謡に近い雰囲気を帯びる。バルトークは十二音技法を介し、オーケストラとして民謡を再解釈したが、ロワイエは、現代的なフォーク音楽として民謡を再解釈しようというのだ。その野心的な試みには脱帽し、大きな敬意を表するよりほかない。


米国のアヴァンギャルド・フォークに詳しい方ならば、次の3曲目の「Marcelin dentiste」では、初期のGastr del Solの時代のJim O' Rourke(ジム・オルーク)の内省的なエクスペリメンタル・フォークの作風を思い浮かべる場合もあるのかもしれない。しかし、この曲は、アフガニスタンの音楽を基調にしていると説明されていて、インストゥルメンタルが中心のオルークの作品と比べると、メガロドンズ・マラデスの調和的なコーラスのハーモニーは温和な雰囲気を生み出し、更に、その合間に加わるアントワーヌの遊び心のあるボーカルも心楽しげな雰囲気を醸し出している。ギター・アルペジオの鋭い駆け上がりがリズムを生み出し、その演奏に合いの手を入れるような感じで、両者のボーカルが加わるが、それほど曲調が堅苦しくもならず、シリアスにもならないのは、メインボーカルとコーラスのフランス語に遊び心があり、言語の実験のようなフレーズが淡々と紡がれていくからなのだ。アントワーヌ・ロワイエにとっては深刻な時代を生きるために、こういった遊び心を付け加えることが最も必要だったのだろうか。
 
 
その後はより静謐で、瞑想的なフォーク・ミュージックが続く。「Demi-Lune」もまたヨーロッパのトラッド・フォークを基調にし、フランス語の言葉遊びを加えた一曲で心を和ませてくれる。私自身はフランス語に馴染みがないが、フランス語のフレーズの反復は、奇妙な感じで耳に残る。室内楽のような雰囲気のあるフォーク音楽ではありながら、実際の録音風景、楽団と制作者が半円を作り、そこで歌を歌うような和やかな風景が曲を通じてありありと伝わってくる。アントワーヌ・ロワイエのギターの技法が光る曲で、ボディを叩く瞬間に休符を生み出し、その間をコントラ・ファゴットが埋める。その後、感覚的な鋭さと凜とした美しさを兼ね備えたコーラスが続く。曲の終盤にかけては、感覚的なアルペジオ・ギターの演奏の上に加わるアントワーヌとメガロドンズ・マラデスのコーラスの調和が甘美な雰囲気を生み出している。
 
 
レコードの中盤部は、これらのトラッド・フォークを基調とした曲が大半を占めている。五曲目の「Robin〜」でも同じように、ギターの演奏に加え、アントワーヌの弾き語り、メガロドンズ・マラデスのコーラスが鮮烈な印象を放つ。この曲では前曲よりもコントラファゴットの存在感が際立ち、持続音としての役割ではなく、スタッカートのリズム的な動きを、この曲に付与している。男女混合のコーラスの調和的な響きから突然、不協和音が不意に顔をのぞかせる。早口のフランス語で独特な抑揚を与えるアントワーヌのボーカルは、ギターの演奏そのものと完全に一体化し、オーケストラと合わさってもその迫力に劣ることがない。独立した演奏として存在しながら、オーケストラの演奏と合致し、エキゾチックな雰囲気を維持していることが理解出来る。
 
 
続く「Merceli」は、子供の遊びのための曲のような可愛らしさのある一曲である。基本的には、以前の曲と同じギターと弾き語りと、コーラスで構成される一曲で、吹奏楽器が曲の主役的な役割をなしている。ピッコロ・フルートの可愛らしい音色が、温和な雰囲気を生み出しているが、フレンチ・ホルンのふくよかな響きが甘い音響を生み出している。他曲と同様、緩急のある変拍子により曲が展開され、途中からはコーラスが主体となり、最終的には子供向けの民謡や童謡のような可愛らしい曲調へと直結する。曲の中盤に導入される木管楽器はチュニジアを始めとするアフリカ音楽の影響があり、フランスやベルギーの作風からイスラム的なエキゾチズムへと変化を辿るが、曲の終盤になると、最初の可愛らしい童謡のような作風へと舞い戻る。この辺りにはヨーロッパのキリスト教圏とイスラム教圏の文化の混淆を見いだす事ができる。
 
 
 
「Pierre-Yves begue」は、中盤部において強固な印象を与える。アントワーヌ・ロワイエのギター奏法はこの段階に来ると、クラシック・ギターというより、イスラム、アラブ圏や西アジア圏の弦楽器であるOud(ウード)の演奏法を取り入れたものであることがわかる。そして、かれのこまやかなアコースティックギターの奏法は、チュニジア周辺の北アフリカの音楽と同様にきわめてアクの強いリズムを生み出すが、それがやはりこの曲でも、フランス、スペインの音楽や民謡の雰囲気がメガロドンズ・マラデスのコーラスにより生み出される。上辺の部分ではヨーロッパの文化や気風が揺曳しているが、内奥にはそれとは対象的に、北アフリカやイスラム圏のアクの強い音楽が通底している。これらのアンバランスにも思えるフォーク音楽のアプローチは少し受け入れがたいものがあるが、コーラスのフランス語の遊びが気安い感じを与え、和らいだ感覚をこの楽曲全体に及ぼしている。言語上の言葉遊びとは、かくあるべきという理想形を、アントワーヌとメガロドンズ・マラデスの楽団のメンバーは示しているのである。
 
 
以後も、中東のアフガニスタンを始めとするイスラム圏の音楽なのか、はたまた北アフリカの民族音楽なのか、その正体が掴みがたいような文化性の惑乱ーーエキゾチズムが続いていく。聞き手はそのヨーロッパとアラビア、アジアの文化性の混淆に困惑するかもしれないが、しかし、それらのエキゾチズムをより身近なものとしているのが、アントワーヌ・ロワイエのギターである。弦を爪弾き始めたかと思った瞬間、次の刹那には強烈なブレイクが訪れる。こういった劇的な緩急のある曲展開は「Tomate de mer」以降も継続される。それ以後の曲の展開は、アヴァンギャルド・フォークという形式に基づいて続いていくが、それらの中には時に、フランスのセルジュ・ゲンスブールのような奇妙なエスプリであったり、ビートルズ時代と平行して隆盛をきわめたフレンチ・ポップの甘酸っぱい旋律が、これらのフォークミュージックに取り入れられていることに驚きをおぼえる。表向きには現代的な音楽ではあるのだが、20世紀の今や背後に遠ざかったパリの映画文化が最盛期を極めた時代の華やかな気風や、当代の理想的なヨーロッパの姿がここには留められているような気がするのだ。


スペインのカタルーニャ地方の教会や古い民家で録音された曲の中で、現代のポップミュージックのような感じで、コラボレーターを招いて制作された曲もある。「Percheon Frelichon」はアルバムの中で唯一、Loup Ubertoが参加し、メイン・ボーカルを担当している。スペインの地方の文化的な概念と曲そのものが結びついているのか、そこまではわからぬものの、最もアルバムの中で異様な雰囲気があり、Loup Ubertoのボーカルは奇妙なしわがれた老年の声として登場する。それらはかつてスペインのジプシーが街角で奏でていたようなアコーディオンの原型の蛇腹楽器(コンサーティーナ)の音色と結びつく。果たして、この音楽はヨーロッパの街角で、流しの音楽家の誰かが人知れず演奏したり、また、孤独に歌っていたものであったのだろうか。
 
 
『Talamanca』の中で最も素晴らしい瞬間はクライマックスになって訪れる。それが「Jeu De Des Pipes」である。この曲は、おそらく近年の現代音楽の中でも最高の一曲であり、Morton Feldmanの楽曲にも比する傑作かもしれない。森の奇妙な生き物、フクロウや得体の知れない不気味なイントロから、題名の「一組のパイプ」とあるように、霊的な吹奏楽器を中心とするオーケストラ曲へと変化していく。イントロに続いて、フルートと弦楽器のレガートが奇異な音響空間を生み出す。それに続いて、複数のカウンター・ポイントの声部の重なりを通じて、アントワーヌ・ロワイエは古い時代の教会音楽の形式に迫り、管楽器や弦楽器、そしてクワイアを介して、バッハのカンタータのような作曲形式へと昇華させているのが見事である。その後、曲の中盤では、ボーカル・アートへと変化し、以前の主要な形式であったアントワーヌの声ーーメガロドン・マラデスの楽団のメンバーの声ーーがフーガのような呼応する形で繋がっていく。弦楽器の十二音技法の音階やチャンス・オペレーションのように偶発的に配置される音階によるレガートの演奏に加え、それらの反対に配置される演奏者たちの声は洗練されたベルギー建築のように美しく、高潔な気風すら持ち合わせている。
 
 
途中から加わるアントワーヌとメガロドンズ・マラデスのボーカルは、かつてMeredith Monkが「Dolmen Music」で行ったようなボーカルの音楽における実験でもあるが、この曲はドルメン・ミュージックほどには不気味さがない。それには理由があり、スペインの教会の天井とその場に溢れる精妙な空気感が、彼らの声の性質を上手く出しているがゆえである。曲の後半にかけてはフランス語の言語実験の形が取られ、教会内の奥行きと天井の反響効果を活かして、独特な縦の構造の和音が生み出されている。ガラスが床に転がる音や教会の鐘を部分的に導入し、曲の最後では、一瞬、彼らのクワイアは賛美歌のような祝祭的な雰囲気に包まれる。それらと対比的に配置されるコントラファゴットはパイプオルガンのような重厚感を与え、聞き手を圧倒する。木管楽器の持続音は現代のドローン音楽に近い前衛性が込められていて、曲の終わりにかけて、イントロと同様に霊的な雰囲気のあるクワイアが精妙な雰囲気を生み出している。
 
 
アルバムの最後を飾る「Vers un monde de fries」では、一曲目と同じような雰囲気に包まれた温和なフォーク・ミュージックへと舞い戻る。実際に最後の楽曲から一曲目へと返ると、アルバムが続いているという感覚がある。


このアルバムは、デジタルで聴いてもアナログのような音に聞こえることに少なからず驚きをおぼえる。デジタルのように音が精細に聞こえすぎることは実際、音楽の良さ台無しにする場合もある。なによりこのアルバムは、艶や張りや温かさ、生々しい音の質感、実際の演奏者が近くにいるように感じられること等、革新的なレコーディングの技法が施されていることがわかる。


 『Talamanca』は正直なところ、商業的な音楽とは言いがたいが、今後の現代の録音技術に影響を及ぼす画期的な作品に位置付けられる。それはまた、「パンデミックは、私の生活の何も変えるわけがなかった」と、制作者のアントワーヌ・ロワイエが言うように、時代の流行とは無縁の制作環境が取り入れられたからこそ生み出された良作なのである。パンデミックと疎遠な生活を送っていたことにより、時代に埋もれることのない普遍的な音楽がここに誕生したのだ。


今回、フランスのパリのレーベル、Le Sauleからアルバムのリリース情報を送っていただいたおかげで、こういった素晴らしい音楽に出会うことができました。改めてレーベルのスタッフの方に対して謝意を表しておきます。
 

95/100
 

Weekend Featured Track 「Jeu de des pipes」
 

 
 
Antoine Loyerのニューアルバム『Talamanca』はLe Sauleより発売中です。レーベルの公式サイトはこちらより。