ジェーン・バーキン&セルジュ・ゲンスブール 伝説の名曲「Je T'Aime Molnon Plus」はどのようにして生み出されたか

 

1971年の来日時 東京で撮影

 

フレンチ・ポップのスターであり、「Je T'Aime Molnon Plus」のセルジュ・ゲンスブールとのデュエットで有名となったジェーン・バーキンは、先週、パリの自宅で息を引き取った。今なお、フランソワーズ・アルディとシルヴィ・ヴァルタンとともにフランス国内のポップスを象徴する歌手だが、バーキンはイギリス出身の歌手である。結局のところ、セルジュ・ゲンスブールとの映画での共演、またその出会いが彼女のミュージシャンとしてのキャリアを歩ませる契機となったのは最早疑いのないことだ。ちなみに「ジュテーム」は当初、日本ビクター(フィリップス)から発売され、日本国内でのフレンチポップの普及に一役買ったのは言うまでもない。

  

詩人とラ・プティ・アングレーズは12年間カップルとして過ごした。その過程では、東京にも来日し、共に楽しい過ごした。しかし、この二人の生涯はフランスの文豪、フランソワ・モーリヤックの名作小説『愛の砂漠』をリアル化したものと言えよう。その中にキリスト教的な概念が乏しいとしてもである。この両者の関係を見ると、『愛の砂漠』と同じように、それ以前のキリスト教のカソリックを主体とする生き方とは別の近代的な精神性を追い求めていったという印象がある。つまり禁欲とは正反対にある自由奔放さである。彼らの人生には音楽があり、そして映画があり、詩があった。

 

ジェーン・バーキンがセルジュに出会ったのは1968年のこと。彼女はすぐに彼が傲慢であり、ときに醜悪さを隠そうともしないことを悟った。バーキンはその頃、スローガンを撮影するためにイギリスからフランスにやってきたばかりだった。当然、フランス語を一言も話すことが出来なかったというが、マリサ・ベレンソンの後任としてピエール・グリブラット監督に抜擢された。




 

また、当然のことながら舞台では、恋人役として愛し合う演技をしなければならなかったが、ゲンスブールが非常に冷酷な態度を取ることにバーキンはかなりの衝撃を受けたという。バーキンは演技を終えてから、楽屋に行くなり、すぐに泣き出した。「彼はひどい人! 私の恋人役をすることのなっているのに、彼はとても傲慢で頑固で、その上私を完全に無視する!!」バーキンが怒ったのも頷ける話だが、しかし、これがゲンスブールという人物であることまでは、彼女は知るよしもない。その後、バーキンは弟に電話をかけ、恋人役について話した。しかし、その後、出会いこそ最悪に近かったが、両者の仲が急速に深まっていくことになる。


監督のピエール・グリブラットは、二人の仲を取り持つため、食事をセッティングした。最初のディナー。彼が二人を放っておくと、すぐに両者は仲を縮め始めた。その夜のディナーパーティーで、セルジュとジェーンはダンスを踊ったという。スローダンス。しかし、歌手は、相手のつま先を踏む。ジェーンは優しさを感じていた。実はこのとき、ジェーン・バーキンはゲンスブールのいささか粗暴で失礼な態度が、この人物の本性を隠すための覆いであることを気がついていた。実際、その時のゲンスブールは、舞台での姿とは異なり、紳士的であり、優しかったという。その後、ゲンスブールはバーキンをラスプーチンと呼ばれるクラブに連れていき、シベリアのヴァルセ・トリステを演奏するように楽団に頼んだ。それからも彼女の父親がピアノを引いていたドラッグ・クラブにも連れて行った。14時頃、ゲンスブールがタクシーを呼び、ホテルまで送って欲しいかと尋ねると、バーキンは、その必要はないと答えた。しかし、その後、バーキンはゲンスブールをホテルまで追いかけていき、部屋まで押しかけていった。部屋に入るとすぐ、バーキンはバスルームにこもり、ゲンスブールとの肉体関係に想像を巡らせる。ところが、バーキンが寝室に行くと、ゲンスブールは既にベッドの中でぐっすり眠り込んでいた。

 

 

 同名の映画のサウンドトラックとして発表された「Je T'Aime Molnon Plus」は本来、ブリジット・バルドーに依頼され、ゲンスブールが作曲したものだ。詳細に言えば、1967年当時、駆け出しの二人のデートは酷いものであったらしく、その埋め合わせをするために、バルドーはゲンスブールにこの作曲を依頼したのだった。しかし、この両者の愛の囁きが込められたエロティックなポップスは、当初発禁処分を受けたにもかかわらず、UKチャート上位を獲得する。このせいで、ゲンスブールは当時、付き合っていたバルドーとの関係を終わらせた。しかし、この曲がヒットしたのには理由がある。音楽的な甘さというのもひとつの魅力だが、それに加え、冒頭にも述べたように、キリスト教のカソリックの禁欲的な教えからの開放というテーマも見いだせる。そして、これが近代的な自由な生き方を模索する人々の心に大きなカタルシスと癒やしをもたらしたのではないかと思われる。もちろん、たとえ映画と彼らの人生で繰り広げられるような激しい愛とはかけ離れた人生を送っていたとしても、この時代の人々には「ジュテーム」に憧れを抱いた。近代化の途上にあるそれ以前の中世の古びた価値観から多くの人々の心を開放させる力を、この名曲は持っていたのだろう。




 

実際、多くの誤解が生まれることになったこの濃密な愛の囁きではあるが、当時、ゲンスブールとバーキンは、このレコーディングを行った時、肉体関係に至っていなかったという説が有力視されている。しかし、なぜ、この録音時に、肉体関係にあったというゴシップが普及したのだろうか。


「Je T'Aime Molnon Plus」は、1967年の冬、パリのスタジオで2時間のセッションで録音されたが、エンジニアのウィリアム・フラジョレは身も蓋もない噂話を流す。彼はレコーディング中に「激しいベッティング」を目撃したと主張したのだ。ウィリアム・フラジョレの話がマスコミに伝わるなり、世間の大騒ぎになった。またレコーディングエンジニア発のゴシップがこの曲の売り上げを促進したことは、ほとんど疑いのない事実である。

 

また、この曲は、意外なことに、セルジュ・ゲンスブールが書いた人生初のラブソングだった。「この音楽はとても純粋なんだ。生まれて始めて書いたラブソングだ。でも最初は酷評されたんだ」とゲンスブールは後に回想している。ゲンスブールはそれほど他の意見に左右されるような人物ではなかったというが、この曲は、ブリジット・バルドーの夫のグンター・サックスが発売中止を依頼したことから、録音された後にお蔵入りし、1986年までこのバージョンは未発表のままだったという。この録音には、ブリジット・バルドーとの録音も残されており、バーキン自身はバルドーのバージョンのほうがホットであると主張していた。しかし、メインバージョンの録音を残した人物としての余裕が感じられはしないか。

 

またジェーン・バーキンは「この録音がリアルなシーンを録音したものか」というメディアの質問に対して「そうでなくてよかった。もしそうだったなら、ロング・プレイのレコードになっていただろうから」また次のようにも語っている、「わたしたちは、マーブル・アーチのスタジオで、電話ボックスのような場所に二人で入ってレコーディングを行った。とても退屈なレコーディングだった」 と皮肉を交えて答えている。

 

セルジュ・ゲンスブールはこの曲について「ラブソング」とみなしていたが、一方で、肉体の不可能性を歌った「アンチファックソング」であると説明している。プラトニックな感情を探求したラブソングだというのだ。「Je T'Aime Molnon Plus」はセルジュ自身が脚本を手掛けた1976年の映画『バーキン』のタイトルにもなっている。また、この映画は、ジェーン・バーキンがジョー・ダレッサンドロと共演し、ジェラール・ドパルドゥーが端役で出演している。

 

 「Je T'Aime Molnon Plus」は当初、オンエアの禁止処分を受けたが、店頭で購入出来た。発売元のフィリップスは、この曲を傘下のフォンタナの子会社からリリースすることを決定する。当初は、「21歳未満購入禁止」という文字がプリントされた無地のスリーブに梱包され、販売されていた。もちろん、この曲は発売当時、公共放送ではオンエア禁止となり、イギリスを含む多くのラジオ曲で放送禁止だった。また、イタリアでは、ローマ法皇が不快感を示していたが、結局、この曲はイタリアで1969年2月に発売された。また、フォンタナからのオリジナルバージョンのリリース時には、全英チャートで2位を記録したが、レーベル側の意向により、記録は抹消されている。