小瀬村晶 『SEASONS』
Label: Decca/ Universal Music
Release: 2023/6/30
Review
日本のポスト・クラシカル/モダン・クラシカルの象徴的な作曲家・ピアニスト、小瀬村晶は今年、ロンドン交響楽団などのオーケストラのリリースで名高い英国の名門レーベル、Deccaと契約を交わし、新作アルバム『Seasons』をリリースする運びとなった。
小瀬村晶は、デビュー当時から、ピアノ曲を中心に、レーベル、Scholeの運営にも携わり、アイスランドのレイキャビクの主要な音楽、ポスト・クラシカルやまた2010年前後に、日本で流行ったエレクトロニカブームを後押しした人物です。これまで自身のソロ名義でのピアノ作品にとどまらず、テレビ番組のサウンドトラックや映画音楽と、幅広い分野で活躍されている音楽家。
私は、以前、Scholeの企画イベントの一貫として、小瀬村晶(敬称略)の演奏を世田谷の教会の最前列に近い席で見ていて、その日は、惜しくも当時、レーベルメイトだったHaruka Nakammuraが出演しておらず、フランスの映画音楽で活躍するQuentin Sarjacが出演していた。その日、震災から間もない日で福島出身のギタリストのライブ中に地震が発生したことが今でも思い出される。
その日のライブでは、教会のなかに2階席があり、一階に木製の椅子が置かれ、おそらく30人くらいの観客を前にし、ライブが開催された。その日、ドイツのピアノ、ベーゼンドルファーでライブを行った小瀬村晶さんの印象としては、最初のイメージと違ってパワフルな演奏をする方であるという感じだった。芸術家タイプの人物であると思われたため、気難しい印象もあったものの、実際は、オープンハートで気さくな方で、来日公演を行ったクエンティン・サージャックの演奏を絶賛していた。サージャックは、ピアノの弦をリチューニングし、プリペイド・ピアノの演奏を行った。あの日、私は人生ではじめて、プリペイドピアノの演奏を見、ペーゼンドルファーの低音の鳴りの凄さを直に体験した。スタインウェイとは異なる低音の迫力は、他のアーティストも同様だったけれど、、特に、(ご本人は謙遜されていたものの)小瀬村晶の曲の良さを際立たせていた。ライブの後の物販でも少し御本人と話をしましたが、やはり気さくな方だった。その日、Scholeのパンフレットも配布され、レーベルのコンセプトとしては、日常を象る細やかな音というオーナーの文章が印象に残っている。おそらく、忙しない日常の中に安らぎをもたらすというのが、レーベルオーナーの意図であり、それは彼自身のピアノ曲のコンセプトであるとともに、同時に所属レーベルの主要なミュージシャンの作風でもあった。
英デッカと契約を交わしたとはいえ、基本的なコンセプトは変更されていません。ここ2、3年、小瀬村晶はシングルを中心にリリースを行っていたが、そのほとんどがピアノ曲。以前、レーベル作品のプロデュースも行っているため、例えばエレクトロニカのような音楽性も制作できないというわけではないのに、ピアノ曲を中心に書き続けている。これは高木正勝と同様、アーティストにとって、これらの日常の中にあるささやかな安らぎを表現するのに、ピアノというシンプルな楽器が最も理にかなっているからで、それは近年も変わらないことなのでしょう。今年始めにも『88 Keys Ⅱ」を発表していますが、この最新作『Seasons』はこれまでのピアノ作品の集大成をなすとともに、最高傑作の一つと称してもおかしくないような作品である。
以前からそうであるように、この作品での小瀬村晶のピアノの演奏は、淡々としており、例えば、シューマンやショパンのような劇的な旋律の飛躍があるわけではない。しかしながら、ミニマル・ミュージックの要素を交えて一定の音域を打っては返す波のように行き交うピアノは心地よさと沈静を与えてくれる。近年では、ピアノ曲としての瞑想性を探し求めていた印象のある小瀬村晶は、アルバムを体験するリスナーをこれらのノートの持つ世界のなかにとどめ、そして、何かを気付かさせたり、自分の考えをあらためて見つめるような機会を与えてくれる。
ただ、基本的には、ドイツ古典派の楽曲を彷彿とさせる叙情性(シューベルトの作曲家のピアノ・ソナタのB楽章を参照)が込められているとは言え、その上に、日本的な旋律や日本的な感性をあ音楽家が探し求め、それらを純粋なるノートとして紡ごうとしている様子も伺える。「Dear Sunshine」では、そういった試みがはっきりと表れ、シンプルなポスト・クラシカルを象徴するピアノ曲に加え、坂本龍一のピアノ曲の影響や、久石譲のジブリ音楽の和風の旋律をそっと添えており、それは、曇りがちな日の憂愁、または、窓を滑り落ちる雨滴の切なさにも喩えられる。
これらの印象を通じて紡がれるアブストラクトな音楽は、静けさに満ち、繊細で、協調性を重んずる調和的なピアノ曲という形で、アルバムの前半部の主要なイメージを形成している。例えば、坂本龍一は、クラシックやジャズを親しみやすいポピュラー・ミュージックという観点から解釈し、それらの音楽を一般の音楽ファンにも開放しようと模索した音楽家だったわけですが、ある意味では、『Seasons』は、その作風にも親和性が感じられ、かの作曲家の系譜にある作品と称してもおかしくはない。
小瀬村晶のピアノ曲には、日頃、わたしたちが見過ごしてしまいそうな日常のささやかな風景が描写的な音楽として紡がれている。パンデミックの時から、その後の時代に到るまで、そういったささやかな日常にある喜びを賛美し、それらを音楽家みずからの持つ美的なセンスで表現しようとしている。四季おりおりの風景や、日常の細やかな観察の成果は「Niji No Kanata」のなかにはっきりと現れていて、わたしたちが見過ごすことの多い、ささやかな喜びをこの曲は思い出させてくれる。また一般的な幸福とは異なる別の解釈による心の潤いを、美麗なピアノ曲を通じて、繊細なる鍵盤のタッチ、指が鍵盤から離された瞬間、束の間に消えるノート、その間が持つ休符という、既存のキャリアで培われた技法を通じて表現されている。十数年をかけて小瀬村晶が培ってきたもの、それは、フランツリストの超絶的な技法とは対極にある、ドビュッシーの作風の中にある感性の豊かさと安らぎでもある。
アルバムの収録曲の中には、清々しく爽やかな雰囲気を持った繊細なピアノ曲も際立つものの、中盤から終盤にかけては哀感に充ちた単調の楽曲が主要なイメージを占めるようになっていく。そのプロセスでは、「Vega」、「Left Behind」、「Towerds The Dawn」といったアーティストが深い森の情景を描写した「In The Dark Wood」の作風を受け継いだ楽曲がじんわりと余韻を残す。一方で、「Gentle Voice」、「Zoetrope」といった主要な楽曲では、個人的な感覚を率直に表現しようしている。以前の作品を見るかぎり、これほど虚心坦懐に書かれたピアノ曲はそれほど多くはなかったように感じられる。もちろん、それは淡々とした情景や個人的な感覚を、ピアノの繊細な旋律で細やかに描写するという小瀬村晶らしい形式で書かれている。そしてこれまでと異なり、あえて演奏時のミスタッチもそのまま粗として音源に残しているのを見ると分かる通り、瞬間瞬間のアコースティックのレコーディングにこだわったという印象も受ける。
結局、自らの心情や世界情勢、そういった広範な出来事を、この作曲家らしい慧眼で見つめ、日記のようにそれらを丹念に記していったことが、本作に少なからずの聴き応えをもたらしている理由だろうと思う。
アルバムの最後には、「Hereafter」という単調の曲が収録されている。しかし、エリック・サティの作風、その不可思議な和音を思い起こさせる最後の曲だけは、今までの作風とは何かが異なる。この曲は、旧来のあっさりした小曲の形式から離れ、次なるステップ--構成力を持った作風へ進むための布石--となりえる。この曲に溢れる言葉では表現がたい何か、それは艷やかな高級感のある光沢、または、暗闇の最中に光る一瞬の煌めきとも称するべきものなのだろうか。
86/100