Lutalo 『Again』
昨年6月に発表されたデビュー・アルバム『Once Now, Then Again』に続いて、約一年ぶりのルタロ・ジョーンズのプロジェクト、Lutaloの最新作となる。前作では、Bon Iver、Big Thiefに近いインディー・フォークに根ざした音楽性を提示したLutaloであったが、2ndアルバムでは、ローファイ、オルト・ロック、バロック・ポップと前作よりアクの強いアプローチを見出せる。
アルバムの制作の手法は、ホーム・レコーディングのように荒削りではあるが、前作と同様、アーティスト特有のさりげないポップ・センスが全体に散りばめられている。メロディーラインはブリット・ポップのように懐古的であるが、ギターやリズムトラックの音作りはサブ・ポップのSebadoh(セバドー)のような1990年代のUSインディーの最もコアな部分を受け継いでいる。(Sebadohの「Skull」は、90年代のUSインディーの屈指の名曲なので、ぜひチェックしてみよう)
最近、目まぐるしく音楽のトレンドが変わっていて、ついていくのが難しいところもある。ただ、一つ興味深いのは、ポスト・パンデミック以降、音楽のトレンドに新たな動きを感じること。既にサブ・ポップのHanah Jadagu(ハンナ・ジャダグ)を見ても分かる通り、Alt‐Rockの要素はブラック・ミュージックの中に普通に取り入れられて、斬新な作風が生み出され始めている。そして全般的には、主流に亜流が取り込まれ始めている。ということは、本来、亜流を意味する「Alternate」という概念は、最早、亜流でもなんでもなくなりつつあるということなのか。
オープニング「PLPH」は、一定のジャンルに囚われない、Lutaloの広汎な音楽性が滲み出ている。オアシス、ブラーのブリット・ポップ 、そして、それよりも古いビートルズのメロトロンを駆使したポップ・ナンバーに挑戦している。しかし、ルタロ・ジョーンズは、これらの音楽に工夫を凝らし、サイケ/ローファイ、ヒップホップの要素を部分的に絡め、特異なルタロ・サウンドを生み出す。トラックメイクは、ヒップホップのプロデュースの手法でありながら、一方、メロディーを重視したインディー・ポップがニッチなファンの耳を捉える。ルタロ・ジョーンズのボーカルは、妙にナイーブである。それはラップ・アーティストとは異なる形で提示される繊細さ……。しかし、それがごく稀にドリーム・ポップのような甘さを醸し出すこともある。
二曲目の「Hold My Hand」もどことなく奇妙な楽曲だ。確かにインディーロックの要素が表向きには感じられるが、70年代の古典的なポピュラー音楽のソングライターのようなボーカルラインがワイアードな雰囲気を醸成している。ギターラインやドラムは、LAのローファイシーンや、もしくはレトロなエレクトロニックにも近い。ところが、ジョーンズのボーカルはセルジュ・ゲンスブールやディランのような渋さがある。もっと言えば、アークティック・モンキーズが最新作『Cars』で示したレトロな雰囲気を、セルフ・レコーディングにより完遂している。もちろん、バンドサウンドのクオリティーという面では比べるべくもない。けれども、レトロなロックを現代的な感性と結び付けることに関しては、現代のミュージシャンの中で傑出している。そして、ビンテージ・ソウルからの影響がメロウで心地よい空気感を生み出している。
特にサイケ/ローファイという要素を押し出したのが三曲目の「Old My Cast」である。ルタロ・ジョーンズにとって、古い、もしくは懐かしいという感覚が何を意味するのかは定かではない。しかし、 ザラザラしたパーカション、VUのようなプリミティヴな質感を突き出したギターライン、物憂げな感じで歌われるルタロ・ジョーンズのボーカル、ヒップ・ホップのチョップの要素を込めたフレーズの導入し、これらの複眼的なプロダクションが複雑に織り交ぜられ、Ariel Pinkにも比するコアなローファイ・サウンドが生み出されている。ただ、西海岸のカルチャーに触発されたサイケデリックのアプローチの中にあろうとも、ジョーンズのボーカルやギターラインは奇妙なほど冷静であり、また、繊細さも失われることがない。これは例えば、Unknown Mortal Orchestra(アンノウン・モータル・オーケストラ)が示すローファイ・ロックと近い位置にある個性的な音楽性とも言える。
続く、「Push Back Baby」も、ルーバン・ニールセンが書きそうなインディー・ロックではある。ボーカル・トラックにオーバードライブとフィルターが掛けられているのも、Unknown Mortal Orchestraの音作りに近い。曲を次の展開へと導くスタイリッシュなミックス/マスターに関しては旧来のBon Iverに近い指向性。しかし、それらの現行の主流の制作法を選んでもなお、消しがたいルタロ・ジョーンズの特性というのが、このトラックには存在している。果たして、それが何に依るものなのかも定かではないが、60年代後半、もしくは70年代のアナログのロック/ポップスに対する親和性と、現代的なプロダクションに対する感性の鋭さ、この両点が絶妙なバランスを保つことにより、まったりとしながらも、感覚的な鋭さのあるインディーロックが生み出される。この曲は、ある意味、現在のオルト・ロックの音に飽食してしまった人のために存在する。それは他でもない、ジョーンズが新たな音楽の手法論をリアルな形で示しているからなのである。
「SCRAPZ」は、ガレージ・サイケとも称すべきで、ザ・ストロークスのジュリアンが書きそうな一曲でもある。そして、ギターラインは、アルバート・ハモンド・Jr.が旧来から現在にかけて追い求めて来たミニマリズムのスタイリッシュさを意識している。ベース、ドラムもボーカルやギターをフィーチャーするための引き立て役となり、簡素な演奏が行われるという側面では、やはりそれに倣っている。ところが、この曲も手法論としては、The Strokesの音楽と大きな相違がないにもかかわらず、空間内をぼんやりと浮遊するルタロ・ジョーンズの抽象的なボーカルとローファイのミックスの質感が掛け合わさることで、先鋭的な音楽が生み出されている。そして、ストロークスの隠れた魅力であるバラードにも似た悲哀が、この曲の主な印象を形作る。
驚くべきは、次の「Strange Folk」である。アリゾナのMeat Puppetsのようなメキシカン/アメリカーナに触発されたサイケ・ロック風のギターに続き、内省的なインディー・ポップへと移行していく。これまであまり聴いたことのない新奇さではあるが、もし、これがUSのインディーの最新鋭の音楽性であると推測するなら、妙に納得できる部分もある。一見してタイトさに欠けた緩さのあるルーズなサウンドは、ある意味、完璧なサウンド・プロダクションの対極に位置しており、ファッションで言うところの「洒脱」(完璧を少し崩した感じ)の趣向性を選んでいる。表向きにはサイケデリックな音楽が紡がれるが、その中にはやはり、アルバム序盤と同様、オルト・ロックやドリーム・ポップにも近い雰囲気が立ち込めている。そして、これが中盤にかけて、倒錯的かつ退廃的な悦楽へと続いている。
クローズ「War」も、ロンドンのインディー・ロック・バンドが複数人で提示するような曲をソロ・プロジェクトとしてやり遂げている。そして、ここには、UKやアイルランドの現行のポスト・パンクからの影響も垣間見える。Fountains D.C.、Squid、The Murder Capitalのテクニカルな演奏力、アンサンブルによる巧緻さや一体感は望むべくもない。しかし、少なくとも、音源という側面では、上記のバンドに比する高い水準の音楽が示されている。どうやら数年前までは、三、四人でやっていた音楽形式をソロで制作することは、近年において、それほど稀有な事例ではなくなっているらしい。
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