The Clientele 『I Am Not There Anymore』
Label: Merge
Release: 2023/7/28
Review
The Clienteleはこれまでの旧作において、アート・ロックともインディーロックともつかない奇妙な音楽を探求してきた。
2008年のアルチンボルドの絵画をあしらった『Bonfire on The Heath』等の作品群においては、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのようなローファイの要素を織り交ぜた個性派としてのアート・ロックを展開している。ただそこにはイギリスのバンドとしてのユニークさがあり、それはときに異国情緒へのロマンチシズムへの傾倒へと向かい場合もある。
今作は特にアートという側面でユニークさが満載である。アートワークは、亀田鵬斎作「長い人生」1823年 ミネアポリス美術館蔵を使用している。和風趣味であるが、決して奇異なディレッタントに堕する内容ではない。
亀田鵬斎(かめだぼうさい)は18世紀の江戸時代に生きた書家、儒学者、文人である。松平定信が朱子学以外の学問を排斥した時代に、相当な思想的な迫害を受けたのではないかと推察される。
その芸術性の中には中国古代の儒学の影響が反映されている。書道に関してはあまり詳しくないが、亀田の作品は異端的であり、アウトサイダーの領域に属していると思われる。漢文としてのカチッとした書道の作品と、また、漢字を平仮名のように崩した文体で書かれた作品が複数混在している。見て分かる通り、その字体の中には、いわば幽玄な雰囲気も渦巻いていて、禅的な筆致も取り入れられているようにも感じられる。とにかく、この辺りの話に信憑性を持すことは非常に難しい。芸術性に関しての詳述は、しかるべき専門家の手に委ねるべきだろう。
The Clienteleの音楽性は、日本人から見て、ありふれたジャポニズムにかぶれた内容ではなく、その内奥にアルバムの序盤で迫ろうとしている。実際にクライアンテレは演奏指導を受け、本格的な音楽性を作るための土壌を耕している。また、ジャポニズムにとどまらず、スペイン語のボーカルも取り入れられているのを見ると、南欧の文化性も含まれているのではないだろうか。つまり、序盤では英国圏から見たエキゾチズムを探求しようとしているのではないだろうか。
特に、オープニング「Fables of the silverlink」は沖縄民謡の旋法を体系的に取り入れ、チェロで演奏している。いわば東洋と西洋の文化の混在がアルバムのテーマを縁取っている。しかし、彼らの音楽形式は、古風な民謡(フォーク)に置かれているのではなく、ダンスの要素を絡めた現代的なアート・ロックの範疇に属している。室内楽のチェロの上品な響きと沖縄の南国の文化性を背後に、グルーブ感の強いアートロックへと昇華させている。また、そこにクリアンテルらしい浮遊感のあるボーカルが奇妙アンビエンスを造出している。簡単な音楽ではないのに、それなりに親しみやすさがあるのがクリアンテルの音楽のとてもおもしろいところなのだ。
奇妙な緊張感を持つピアノ曲「Radical B」はインタリュードを役割を持つ。さらに「Garden Eye Mantra」は文字通り、チベット密教の宗教音楽に依る。ただ音楽としては旧来のバンドの主な作風のようにまったりしたアート・ロックが展開されている。稀にビートルズのようなバロックポップ/チェンバーポップへの親しみが込められていて、それが懐かしい雰囲気を醸成している。しかし、彼らの音楽はサイケデリックであり、70年代のハードロックの影響が込められ、またシンセ・ポップのマテリアルと合致すると、奇妙な別の通路が開けているような錯覚に陥らせる場合がある。「音楽の遠近法」とも称するべき、見事な音楽性の変化を内包させている。
「Seague 4」では、ベルギーのエクスペリメンタル・フォークの巨人、アントワーヌ・ロワイエのように実験的なサンプリングを導入し、作品全体にナラティヴな効果を与えようとしている。音を聞きながら感覚を研ぎ澄まし、その後何が起こるのかと考える。そんな知的探究心をくすぐるものがある。曲の中では、生き物の鳴き声や、オペラの歌声が亡霊のように音響空間を彷徨う。
しかし、そういったミステリアスな映画のような音響効果を取り入れながらも、続く「Lady Grey」ではお馴染みの懐古的なインディーロックへと回帰を果たす。この曲ではよりマニアックな領域のブラーの音楽の復興が見られ、それらを少しおどけたような曲調に落とし込もうとしている。これはボーカリストの愛の嘆きが歌われたものだろうか、というような推測の余地もある。また続く「Dying In Mary」では、ブリット・ポップやそれ以前の70年代のUKポップスの作風へと変遷を辿る。しかし、中には、Cleaners From The Venusのようなカルト的なインディーロックスターの書くような、古典的な英国音楽へのロマンチシズムが揺曳している。これらの奇妙なせつなさとも呼ぶべきもので、クライアンテレの他のバンドとは異なる音楽性でもある。
アルバムの中盤では、ピアノを基調とした「Conjuring Summer In」、「Radical C」は映画のサウンドトラックのような効果を持つ。これが果たして成功しているのかは判断しがたいものの、奇妙な男の哀愁ともいうべきワイルドさも漂う。ただ、それは実際の旋律の節々から感じられる断片的なもので、より聴き込んでいくと、また異なる印象が生じる場合もあるかもしれない。
しかし、聞き手をほとんど悩ますようなかたちで、このアルバムは果てしがなく、終わりない。「Blue Over Blue」はノスタルジックなインディーロックソングであり、続く「Radical E」では映画のミステリアスなシーンで導入されるように、クレスタの演奏効果を取り入れている。 そして、続く「Clare's Not Real」では、ポール・ウェラー擁するスタイル・カウンシルのデビュー作のように、ポスト・パンク以後のおしゃれなロックを体現している。ここに四人組のイギリス国民としてではなく、世界市民-コスモポリタンとしての姿も垣間見ることができる。
「My Childhood」も風変わりな曲である。リゲティなのか、クルターグなのか、それともバルトークなのか、現代的な弦楽器奏法が取り入れられ、実験的な音楽の領域を探っている。しかし、これらの無国籍性は、何か自分のいるコンフォートゾーンから引き剥がされていく気がする。
ただ、こういった曲の後に懐かしく親しみやすい「Chark Flowers」を持ってくるのがクライアンテルらしいと言える。この曲はアルバムの中の休息所で、またはてなき山岳の跋渉の間の安らぎである。
続く、「Radical H」では再び映画のワンシーンのような静かな雰囲気のあるピアノ曲に舞い戻る。 前の連曲に比べると、癒やしに満ち溢れ、アルバム全体に効果的な影響を及ぼしている。
この後、アルバムの後半の五曲では、ほとんどシームレスに様々なジャンルを往来する。インディーロック、映画音楽、ヴィンテージ感のあるロック、そしてインディー・フォークまで収録されている。 収録曲にはThe Clienteleの音楽の遍歴がすべて内包されており、そのボリューム感は、いくら読めども終わらなかった、セルバンデスの『ドン・キホーテ』に匹敵するものがある。これは彼らが、プレスリリースの写真で、騎士道風のコスプレをしていたことに肖っている。ここにはサンチョ・パンサは残念ながら出てこないけれど、ユニークな楽しさに溢れている。
『I Am Not There Anymore』は、出口のない果てしない迷宮のようだ。そして全体を聞き通すことに快感を覚える作品というより、終わらない音楽の旅を楽しむといった点に主眼が置かれている。イデアが上手く結びついておらず、部分的に冗長すぎるという難点はたしかにあるのだが、The Clienteleの集大成を形成するような作品である。音楽が終わらぬことを楽しみたいという、少し風変わりなリスナーへ向けた、UKのロックバンド、The Clienteleからの素敵なプレゼントだ。
75/100