Anjimile 『The King』
Label: 4AD
Release: 2023/9/8
Review
アフリカ系アメリカ人、アンジミール・チサンボとは一体何者なのか。黒人としてアメリカに生きる意義を追い求めるもの、ジェンダーレスという軋轢によって切り離された家族間との絆を取り戻そうとするもの、また、シカゴのジム・オルークがガスター・デル・ソルの作品群を通じてもたらしたエクスペリメンタル・フォークの時計の針をポピュラー音楽の側面から次に進めようとするもの。実に広範な解釈の余地がある。そのいずれの推測も近からず遠からずなのだが、アンジミール・チサンボにとって音楽を制作することは、他の人とは別の重要な意味があることは疑いない。それは自らの不確かなジェンダーの探求であり、音楽の中にある体系的なものとの距離を埋め合わせることであり、自らのアイデンティティの確立でもあり、己が実存を取り巻く不可解な概念を再構築し、それらを明かにしていこうとする連続的な試みでもある。これらの試みが一体、どのような形で花開くのか、それは誰も知るよしもないことである。
前作は「祈りのアルバム」だったが、 今回は「呪詛のアルバム」と銘打たれている。不穏なイメージに取り巻かれてはいる音楽の中には、しかし、それとは正反対のハートフルな印象性が根付いている。アンジミール・チサンボは、かねてから自らのジェンダーレスという考えを巡って、母親との対立を深めていたという。そのせいもあってか、実際のところ、この完成したアルバムの音楽を母親にも聞かせていないという。してみれば、アンジミールにとって音楽制作とは単なるインフルエンサーとして名を馳せることにあるのではなく、家族間との失われた絆や不確かな黒人としてのルーツを取り戻すための試みなのである。そして、また彼の……、彼という言葉が相応しいのかまではわからないことだが、彼の音楽がブラック・カルチャーのいずれかの領域に属するからといって、また同時に、アンジミール自身が米国の現代的な文化性の中で生きる上で、さらに、黒人であるということはなんなのか、そのアイデンティティを追い求めているからと言って、アウトプットされる音楽が必ずしもソウルでもヒップホップになるとはかぎらないということが分かる。長らく、ヒップホップやソウルは黒人であることのひとつのステータスのようになっていたものと思われるが、UKのエレクトロニック・プロデューサー、ロレイン・ジェイムス、LAのアーロ・パークスを見ても分かる通り、2000年代まではそうだったかもしれないが、それは今や偏見に変わりつつあるといえるだろう。今や、ブラックミュージックの表現方法は、人の数だけ異なり、それぞれに個性的な魅力が内包されているのだ。
そして、アンジミール・チサンボの音楽は、ソウル、ジャズ・ラップ・ポップ、エレクトロニックにとどまっていたブラック・ミュージックが、今や、モダン・クラシカルという本来は白人世界の音楽だったクラシックやフォークの領域にまで、表現の裾野を伸ばそうとしていることを示唆している。これはそれがすべて正しいとまでは思わないが、反レイシズムや人種の公平性という考えが掲げられた後の世界的な時代の流れを鑑みると、当然のことであるといえるし、例えば、イギリスでは、この試みが推進されていて、黒人のみで構成されたオーケストラ楽団も存在するくらいなのだ。長らく不思議でならなかったのは、これまでマイルス・デイヴィスのように、ニューヨークのジュリアード音楽院のような、白人世界の音楽形式を体系的に学んだとしても、その表現形態はもっとも冒険的なところで、スタンダード・ジャズの領域にとどまっていた。名だたる巨匠とはいえど、そこには見えない壁が立ちはだかっていたのだ。それらの冒険的な反抗心は、アヴァンギャルドという形として昇華されるにとどまった。おそらくマイルスは、どこかの時代でクラシカルを演奏したかったのだ。そして、この流れは今後より拍車がかかると思われる。そのうち、コンサートホールで指揮台に立つ姿を見てみたいものだ。
さて、アンジミール・チサンボの新作アルバムは、現代的な問題にまつわるレイシズムという蓋に覆われた音楽的な概念の束縛からの開放という、見過ごしがたい意味が込められている。それは、白人であるから一定の音楽を演奏するというわけでもなく、ましてや、有色人種であるから、あるジャンルの音楽を志向するというのでもなく、それらの固定観念からの開放を意味している。音楽の方から制作者が選ばれ、アーティストが自発的にそれを望み、自分の好きな音を探求するという指針である。そして、アンジミール本人は、あるべき未来の音楽の形式をこの作品を通じて模範的に示そうとする。確かに、そこには他の形ではどうにも吐露することのかなわぬ内的な怨嗟もあり、実際、「呪詛的なアルバム」と説明されてはいるものの、蓋を開けてみれば、意外にも聴きやすく、あまりにポピュラーなため、肩透かしを食らうことは必須だ。
例えば、タイトル曲「The King」において、フィリップ・グラス、テリー・ライリーのミニマルミュージックの影響が示されている。彼の音楽には、アフリカ音楽からの影響が感じられるが、この曲ではそれらのオーガニックな雰囲気が立ち込め、そして、最終的にロック・オペラの形に昇華されている。英雄的なイメージを全生涯にわたって片時も崩さなかったフレディー・マーキュリーとは対極にある、プレスリリースの写真で提示されたアンジミールの角を生やした悪魔的な印象は、このオープナーで面白いように立ち消えてしまい、それとは別の高らかな感覚が未然の虚妄を一瞬にして拭い去る。オーケストラのような劇的な起伏こそないが、なだらかな旋律の線を描き、アンジミール自身のボーカルが重なり合い、パルス状のシンセのようなエレクトロニカルな構成を形成し、アルバムのシアトリカルなイメージを引き立てている。
続く「Mother」は、ジェンダーレスによって失われた家族間の絆を回復しようとする試みである。アヴァン・ポップ風のイントロに続いて、断片的なギターラインを複合的に重ねあわせ、ビートを作りだしている。 それらのミニマル・ミュージックに根ざしたエレクトロニカを背後に歌われるアンジミールのボーカルは、ポップとしてのアンセミックな性格を帯びる瞬間もあれば、オペラのような抑揚に変わることもある。いわば、一定の形を取らず、アンジミールのボーカルは、その局面ごとに別の生命体のようにかわり、音楽の印象を様変わりさせていくのだ。
「Anybody」は一転して、インディー・フォーク/エクスペリメンタル・フォークの性質が示されている。シンプルなアルペジオに加わる古典的なフルートのような音色は民族音楽の性格が反映されている。Led ZeppelinのプロダクションとBig Starのプロダクションを掛け合せ、メジャーでもないインディーでもないアンビバレントなイメージをもたらす。アンジミールのボーカルもフォーク歌手ではなく、オペラ歌手のようなスタイルで歌われる。しかし、それはクラシカルのような旋律の劇的な跳躍や、人を酔わせるような技巧性には乏しいのに、なぜかオーガニックな印象を与え、同時に大陸的な感慨が示されている。それらの雄大な感覚はむしろ、コーラスとアーティストの歌声の繊細性と融合した時、ボーカリストとしての真価を発揮し、力強い存在感を持つに至る。そしてその瞬間、アンジミールの本当のすがたを見出せるのである。
アンジミールは、「Genesis」で、エクルペリメンタルポップのまだ見ぬ領域を切り開こうとする。この曲では、Black Heart Processionが『Amore Del Tropicco』というアルバムの収録曲「The Water #4」で示したトイ・ピアノのような音色が使用されているが、アンジミールのボーカルは、その音響的な特殊効果の演出によって奇妙な寂寥感と哀感を生み出す。そしてこれらの実験的な要素は、オーケストラ・ヒットにようなパーカッションの効果、さらに亡霊的なアンジミールのコーラスによってミステリアスな空気感が呼び覚まされる。男性的とも女性的ともつかない中性的なアーティストの感覚が鮮やかな実験的なポップ音楽という形で組み上げられている。
「Animal」は、アルバムの最大のハイライトとも称したとしても違和感がない。5/8とも称するべきアフリカ音楽に触発された変則的なリズムの要素も魅力ではある。一方のアンジミールのボーカルもハートフルな質感が込められ、アンセミックな音響性を生み出す瞬間もある。そしてこの曲の最も興味を惹かれる点を挙げるとするなら、音楽の表向きの印象はきわめて前衛的でありながら、メロディーやフレーズの反復性の中に、奇妙な親和性が包まれていることだろう。バロック・ポップやチャンバー・ポップのフレーズ、あるいはまた、ソフト・ロックからのフレーズの引用があるのかどうかは定かではないが、温和なノスタルジアを呼び覚ます奇異な瞬間があることに驚きを覚える。それは、アーティストが、内的な感覚を躊躇わず外側にむけて開放しようとしているがゆえに生ずるのだ。たとえ、それが一般的に理解されないことであるとしても、アンジミールはみずからの感覚をしかと直視し、大切に、そして丹念に歌いこもうとしている。やがて、アーティストのスピリットが歌声そのものに乗り移り、ハートウォーミングな雰囲気を生み出す。きわめて個人的な感覚が歌われていて、しかも、それは必ずしも大衆的な感覚に根ざしているというわけでもない。ところが、それがある種、理論的に説明しがたい共感性を呼び起こす。これがアンジミールの音楽のミステリアスな部分でもあると思う。
「Father」では「Anybody」と同じく、フォーク音楽のナチュラルな温かみを思わせるものがある。モダン・フォークの模範例である同じレーベルに所属するBig Thiefの音楽性とそれほど掛け離れたものではないが、ここでは、アンジミールの繊細なアコースティックギターのアルペジオがフィーチャーされている。その上に、アーティストの内的な感覚を秘めたボーカルが丹念に歌われる。そしてこの曲は、「Mother」と同じように、家族間の信頼や愛情を彼の手に取り戻す試みでもある。おそらく家族の誰かがこの曲を聞けば、「Good」と評してくれるのではないか。この曲では、アーティストのミステリアスな側面とは裏腹に、親しみやすい姿を見出すことが出来る。特に、それは繊細なフィンガーピッキングにより、温かみのあるフレーズがこの曲の主要なイメージを組み上げる。アルバムの中でもほっこりした気分になれるナンバーだ。
アーティストとしての真骨頂は続く「Harley」にも見いだせる。アンビエント風のイントロからシネマティックな壮大なイメージを引き出し、アルバムの他の収録曲と同じように、ハートウォーミングなアンジミールのボーカルが哀感を誘う。バックトラックのシークエンスはアブストラクトな雰囲気に浸されているが、そのバックトラックを背に歌われるアンジミールのボーカルは、古典的なバラードやオペラのようだ。しかし、中音域や低音域が強い安定感のあるアンジミールのボーカルは、ベテランのバリトン歌手のように聞かせる部分もある。そして抽象的でシネマティックなサウンドスケープに溶け込むようにして、アンジミールのボーカルもまた演劇の登場人物であるかのように、その全体的な音像の舞台をところ狭しと駆けめぐるのだ。
続く「Black Hole」はエクスペリメンタルポップの最前線を示す。複雑なリズムやポストモダニズムに触発された抽象的なヴォーカルは言わずもがな、その中にボーカルやギターのサンプリングを駆使して、エスニックな雰囲気を呼び覚ましている。これらは、まだその可能性が断片的に示されたにすぎないが、一方で、何か新しい音楽が含まれているという気にもさせる。ビョークが「Fossora」で示したポピュラー音楽の前衛性を黒人シンガーとして再解釈したような一曲である。こういった前衛的な形式がどのような形で完成を見るのか期待させるものがある。
「I Pray」ではアンジミールから白人へのカルチャーに敬意が支えられている。 ニール・ヤングを始めとするコンテンポラリー・フォークは、黒人から支持を得るようになった事実を示している。これはフォーク音楽が本来、白人のための音楽であったことを考えると、時代が変わり、音楽の可能性が押し広げられた瞬間でもある。アンジミールは、古い時代に思いを馳せるかのような亡霊的なコーラスを交え、音楽そのものに種別はないことを示唆する。そしてアンジミールは、これらのポストフォークとも言えるアプローチやプロセスの中で、前衛性を生み出す際のヒントは、実のところは古典の中に求められるのではないかという可能性を暗示している。
「The Right」では、アンジミールにとってボーカル・アートとは何であるのかが端的に示されている。アルバムの中では、文字通り、最もアーティスティックなトラックで、ボーカルのテクスチャーを構造的に組み合わせ、アルバムの表面的な印象とは異なるミステリアスな部分を強調する。これはたぶん、アーティストにとっての現代音楽の表現形式の一つなのである。つまり、モダン・クラシックを制作することが、今や黒人アーティストにとってさほど新奇ではなくなったという事実を表している。この動きは今後も堰き止められることはなく、誰かが受け継いでいくことになると思う。現時点でのアンジミールの音楽は、洗練されているとも完成されているとも言いがたい。しかし、であるが故に、このアルバムの音楽に、大きな期待感を抱かざるを得ない。そして、最早、音楽というのは、ある人種の専売特許ではなくなりつつあることが分かる。どのような階級の人も、どのような人種も、また、どのようなジェンダーを持つ人ですら、その気になれば、いかなる音楽へアクセスすることが可能になったのだ。そういった意味では、アンジミールは時代の要請を受け登場したアーティストであり、この最新作には、現代の音楽のウェイヴやカルチャーが極めてシンプルな形で反映されていると言えるのだ。
82/100