Weekly Music Feature
Puma Blue
©︎Liv Hamilton |
2021年の『In Praise of Shadows』に続くアルバム『Holy Waters』は、Blue Flowers/ PIASからリリースされる。
死生観の病的な研究というよりは、生と死と再生が繰り返されるサイクルの中にある慈悲深さの年代記であり、最終的にはアルバムの終わりに、「暗闇に飲み込まれないで」と、自分自身とリスナーへの優しい肯定にたどり着く。暗鬱の中にあるかすかな希望が、あなたを惹きつけるのだ。
ジェイコブの芸術性は大きく飛躍した。悲しみと高揚の狭間、孤独と共同体の間の奇妙な様相をナビゲートする彼の文章には、並外れた多くの傷と安堵が旅されている。11のトラックを通して、彼の声は最も明るい言葉を歓喜させるゴシックの織物であり、人生の最も過酷な年月に歩んだすべての道を驚くほど誠実に辿りながら、悲嘆の顔を真摯な目で見つめている。ほとんどの場合、彼はそれを受け入れている。
イーストボーンのエコー・ズー・スタジオを2度訪れ、ライブ・バンドと共にレコーディングされた『Holy Waters』は、音の隅々にまで喜びが浸透しており、スタジオ・テクニックは前作よりもアナログ的で実験的だが、サウンドはより充実し、豊かで、プーマ・ブルーに残っていたエゴを殺し、バンド中心の負債を堂々と返済している。
ジェフ・バックリーからビョークまで、著名なアーティストにインスパイアされてはいるが、『ホーリー・ウォーターズ』にとってより重要なのは、ポーティス・ヘッドが生バンドとプロダクションを不可解なまでに融合させたこと、そして、カンやヘンドリックスの即興的な作品である。このアルバムは、深夜にヘッドフォンで聴くことも、通りで聴くこともできる。
『ホーリー・ウォーターズ』はこれまでで最もダークな作品かもしれない。『スワム・ベイビー』(2017年)や『ブラッド・ロス』(2018年)といったブレイクスルーを果たしたEPに溢れる仄かな悲しみと比較しても、プーマ・ブルーは、これまで以上に良い場所にいるように思える。まるで、死がこのアルバムの原動力となったことで、残された美しい瞬間がより一層美しくなった。すべての悲しみと痛みが過ぎ去った後、『Holy Waters』はそれらの影響を反映している。
2021年に発表されたデビュー作『In Praise of Shadows』がイギリス国外でも支持を得た後、アレンは壁にぶつかったことに気づいた。取り組む価値のあるものが思うように書けず、しばらく、負のスパイラルに陥り始めたという。「自分の人生を考え直すべき時期かもしれない」と思い始めていた。「アートも作れないのに、どうしてアーティストと呼べるんだろう?」と。
そんな彼をスパイラルから抜け出させたのは、音楽ドキュメンタリー『ザ・ビートルズ』を観たことだ。彼はこのシリーズを「ビートルズの脱神秘化」と呼んでいる。ビートルズはしばしば作曲の神様として崇められるミュージシャンである。『ゲット・バック』は、ビートルズを違った角度から見せてくれた。「そして、もっとバンドを巻き込んで制作してみたいと思った」
その後、イースト・サセックスの町イーストボーンにあるエコー・ズー・スタジオで、歌詞の3分の1ほどが完成したデモの束を手に、アレンはバンドメンバーと落ち合った。イーストボーンで、アレンとバンドは仲間意識を見出した。日々は、曲のインストゥルメンテーションを完成させることに費やされたが、彼らはスタジオの上に住み、お互いのために料理を作ったり、クリエイティブな壁にぶつかるたびに、たまたまスタジオから歩いて行ける距離にあったイングランドの南海岸で一緒に泳いだりもした。「私たちは音楽に取り組み、リフレッシュしたいときはいつでも海に飛び込んだ。だから、いつも準備万端で戻ってくることができた」と彼は言う。
アレンによれば、バンドとイーストボーンで過ごした時期は、『ホーリー・ウォーターズ』の全体的な雰囲気を作るのに非常に重要だったという。このアルバムは、不思議なケミストリーを持つバンドがその場で作ったジャムに満ちているように感じられる。それは、ジャムの延長から生まれた曲「Gates (Wait For Me)」に顕著に表れている。「私がコードを弾き始めると、ハーヴィー(鍵盤/サックス)がすぐにピアノを弾き始めたんだ。私は、ただ、"今すぐこの曲を完成させるぞ "という気分だった。この曲はアルバムの中でもお気に入りのひとつになったよ」
『Holy Waters』の歌詞は暗鬱であることを恐れない。「Mirage」という曲のように、死と悲しみというテーマは『Holy Waters』全体を通して紡がれていき、心地よい住処となっている。しかし、このアルバムは、こうした必然的な悲劇について、というよりも、それを受け入れることの美しさについて語られている。アレンが死とある種の平穏を取り戻しつつある様子は、柔らかな詩的思索、ギター、サックス、リズミカルなベースとドラムのフュージョンを通して伝わってくる。祖母の死を歌った「エピタフ」。タイトルから、物悲しい内省曲のように聞こえるが、アレンがこの曲を書いたときは、悲しみというより、むしろ愛の場所から生まれたという。
Puma Blue 『Holy Waters』 Blue Flowers / PIAS
Puma Blueは2020年代を象徴するシンガーソングライターと目されても不思議ではない。アルバムの冒頭曲「Falling Down」に代表されるように、ポーティス・ヘッド、トリッキーの作風を踏襲した、しっとりとしたトリップ・ホップのビート、そして、ジェイムズ・ブレイク風のネオ・ソウルの核心を捉えている。
悲しいペーソスに充ちたアルバムである。さながら内面に満ちる暗澹たる感覚を鋭く直視して、それをアブストラクト・ポップという形で淡々と描写しつづける。アルバムを聴き通すと、ジェイコブの内面の海の底は果てしなく、その深淵を見晴かすことはままならないものがある。
オープニング・ナンバー「Falling Down」は、ブリストル・サウンドの影響を取り入れ、しっとりとしたビートにぼんやりとしたアレンのボーカルが浮遊する。彼のヴォーカルは精細なニュアンスに満ちている。
そして、ジェイコブ・アレンのボーカルは、ネオ・ソウルの要素を絡めたメロウな感じで紡がれ、ただ空間の中をぼんやりとさまよいつづける。それはまるで、真夜中の火影のゆらめきのように、催眠的かつ蠱惑的な雰囲気に充ちている。アレンは、寄る辺なき異邦人のような感じで、歌を紡ぐ。やがて、ボーカルの雰囲気は、にわかに亡霊じみてきて、声の存在感そのものが希薄になっていく。そして、アライヴという感覚から距離を置き、その反対側の際どい領域へと近づいていく。つまり、彼が目撃した友人の自動車事故という現実的な出来事と合致を果たし、ポスト・モダニズムに近い音楽性へと変遷を辿る。そして、不思議なことに、その亡霊的な雰囲気は、単なる独りよがりの表現に陥ることはない。モダン・ジャズの気風を反映したサックスフォンの枯れた響きやストリングスが、ジェイコブの声のアンビエンスを強化する役割を果たす。これらの複合的な構成力に加え、ジェイコブ・アレン自身のコーラスは、このアルバムの世界観を自然な形で押し広げ、際限のない深い底しれない領域へと私たちをいざなう。
「Pretty」
二曲目の「Pretty」では、オープナーで抑えがちになっていたリズムの要素が前面に押し出される。イントロでは、ダブ・ステップに触発された複雑なスネアのドラム・パターンを絡めているが、意外にもその後、ボサノヴァのような、しっとりとした質感のある曲調に移行していく。The Clashの名曲「Guns of Brixton」 をボサノヴァ調にアレンジした、Nouvelle Vague(ヌーヴェル・ヴァーグ)のカバーの形式を彷彿とさせる。この曲はアルバムで最も聴きやすさが重視されているが、しかし、一方で軽快さとは別の味わい深いジャズ・バラードの悲しみの感覚を織り交ぜている。そしてバックの演奏はすごくシンプルで、さらにジェイコブ・アレンのボーカルも同じく、最初のシンプルなフレーズを変奏させているに過ぎないが、その歌声は中盤から後半にかけて、奥行きと広がりを増していく。シンプルな構成力を重視した楽曲に加えて、シネマティックな効果を導入することで、ダイナミックな展開力を呼び覚ましている。そして大切なのは、この曲には、聞き手の情感に訴えかける、なにかが内在するということである。
「O,The Blood」は、Trip Hopの代表格、Portisheadの『Dummy』の作風を彷彿とさせる。現代では、形式論ばかりが重視されがちなトリップ・ホップではあるが、ジェイコブ・アレンはBeth Gibbonsの表現形態に象徴されるゴシックとヒップホップの要素を上手く織り交ぜている。感情の抑制の効いた展開、そして、その曲風をやんわりと支える内省的なボーカル、孤立や孤絶を感じさせるミニマリズムに触発されたシンセ・リード、時に、その中を取り巻くソウルからの影響。これらの要素が渾然一体となり、ブリストル・サウンドが復刻されている。これらの微睡んだ感じのエレクトロニックは、やがてダブ的なスネアの一撃によって、目の覚めるような展開に移行していく。背後に意図的に導入されるレコードのノイズも、アナログ風の音楽のオマージュとなっているが、これが旧来のミックス・テープ形式のヒップホップのようなノスタルジアを漂わせている。アレンのボーカルは、Portisheadの『Dummy』の時代のBeth Gibbonsの影響を留めており、ボーカルのエネルギーはどこに向かうともしれず、宙をさまよったまま、どこかに消えていく。やはり、オープニングと同じように亡霊的な雰囲気が漂っているのである。
続く「Hounds」は、ノルウェーのサックス奏者であるJan Garbarek(ヤン・ガルバレク)が1998年の傑作『Rites』のタイトル曲で探求していたエレクトロとジャズのクロスオーバーであるNu-Jazzに近い方向性を探っている。ファンクに触発された骨太のベースラインにUKガラージのようなドラムパターンが追加され、楽曲全体の構造が出来上がっていく。その上にはアルバムの序盤の収録曲と同様に、やはり中性的なジェイコブ・アレンのボーカルが乗せられる。しかし、この曲のボーカルは、どちらかと言えば、トム・ヨークの中性的なボーカルを彷彿とさせる。そして、Radioheadの『Kid A』の時代と同じように、エジプトの音階に触発されているという点でも同様である。聴き方によっては、内省的な印象があるかもしれないが、他方では、幽界をさまようかのようなミステリアスな響きが、この曲の象徴的な音楽形式を形成している。しかし、暗澹としていて鬱屈した音楽性であるにも関わらず、エネルギーのベクトルは意外にも外向きになっている。これは、バンドサウンドを何よりも重視していて、そして、90年代のUnderword/Chemical Brothersのようなオーバーグラウンドの扇動力に充ちたハウス/テクノを踏襲し、それらをノリやすいモダンなポップとして昇華させているがゆえなのだろう。つまり、EDM、IDMの双方の良い面を吸収し、それらの中間の絶妙な落とし所を探ろうとしている。事実、その試みは成功していて、精細感のあるダンス・ミュージックが生み出されている。
「Too Much,Too Much」では、前の曲の外向きのサウンドとは正反対に、内省的なトリップ・ホップが展開される。心地よい微睡みへと誘うシンセ、またAphex Twinに触発されたと思われるIDMのレトロな音の運び、そして、アシッド・ハウスのまったりとした響き、The Smithsのジョニー・マーのような繊細なギターライン、これらのほとんど無限にも思える数多くの要素が複合的に重なり合い、前衛的な音の響きが造出されている。そのトラックの上に乗せられるアレンのボーカルは、ネオ・ソウルの影響が内包され、メロウでぼんやりとした抽象的な雰囲気を兼ね備えている。時に、その様相は七変化し、ジェイムズ・ブレイクのようであったかと思えば、ベス・ギボンズのようになり、また、トム・ヨークのようにも変わる。もちろん、言うまでもなく、ジェイコブ・アレン自身にもなるのである。ランタイムの区切り区切りにおいて、ボーカルの雰囲気を曲の展開のなかで、その感情性を様変わりさせ、きわめて多彩な印象をもたらす。つまり、流れの中で、まったく別の何かに生まれ変わるかのように、その正体を変化させ、音楽そのものが一つ所に収まり切ることがない。無論、抽象的なポストモダニズムの最前線を行くようなサウンドではあるが、シンプルな構成がつかみやすい感じをもたらしている。
おわかりの通り、アルバムのテーマの中には、「死」という概念が織り交ぜられているが、「Epitaph」は、そういった主題が明確に反映されている。インディー・フォーク調のアコースティック・ギターのイントロに続き、Nirvanaの『Something In The Way」を彷彿とさせる暗澹としたオルト・フォークが紡がれる。意外にも、グランジに対する反駁であるスロウコア/サッドコアに近い質感もあり、救いがたい感覚が示されながらも、何らかの癒やし、救いが込められている。これらのシンプルかつミニマルな構成は、曲の終盤に至ると、シンセサイザーの幻想的な効果(The Jamの「English Rose」に見られるような、異郷の港町の船の寂しい汽笛にも聴こえる場合がある)が加わることで、言いしれない寂寥感と寂寞感を帯びるようになる。それに従い、孤独に関する、ほろ苦いフレーズが驚くほど淡々と歌われていく。ジェイコブ・アレンのボーカルには嘆きや悲しみがあるが、その感覚は研ぎ澄まされていて、一切昂じるところはない。
「Gates (Wait For Me)」
「Gates(Wait For Me)」はアルバムの中で、最も素晴らしい一曲である。スロウコア/サッドコア風にギターラインに続いて、アンビエント・ポップを意識したジェイコブ・アレンの艷やかなボーカルが続く。これらのポスト・ロックを彷彿とさせる構成は、徐々にMOGWAIのようなダイナミックな展開へと移行していく。そこにはやはり悲哀が漂うが、徐々にギターサウンドを主体としたバンドの演奏に支えられるようにして、そのエナジーが引き上げられていく。ミニマルなギターラインの熱狂性を通じて、堰を切ったかのように無限の悲しみが溢れ出す。しかし、それらの轟音性は、3分26秒ごろに唐突に途絶え、静謐なポストロック・サウンドに繋がる。これらの展開はやがて、制作者が指摘するように、ビートルズのダイナミックなサウンドからの影響ーー特に、フィル・スペクター時代のアート・ロックに近いテクニカルな展開力ーーを交え、壮大なスペクタルを形成していく。その中には、ポスト・ロックがあり、アヴァンギャルド・ジャズのピアノの即興演奏があり、また、トーンの変革もある。オーバーグラウンドからアンダーグランドの全領域を駆け巡りながら、聴き応え十分のインスト曲へと変遷を辿っていく。
「Holy Waters」
アルバムの一つのハイライトを越えて、「Dream Of You」は、再び内省的なスロウコア/サッドコアへと回帰する。イントロに関しては、オルト・フォークに属するが、その後、アヴァン・ポップ風の親しみやすい展開に移行していく。ここに、アーティストとして、もしくは、ソングライターとしての優れたバランス感覚が表れている。それらは実際、聴きやすいローファイ/チル・ウェイヴ風の楽曲として昇華されている。アルバムの中では、二曲目と同様、骨休みのような意味合いのある繋ぎのための意味を持つ。そして、それほど暗くはなく、トロピカルな雰囲気のある曲として印象を残す。終盤では、ドリーム・ポップにも似た甘い瞬間が立ち現れる。
タイトル曲「Holy Water」では暗澹としたトリップ・ホップの世界へと舞い戻る。しかし、その背後には、考えも及ばないような多角的な世界が示されている。どれだけ見晴るかそうとも、それすらも叶わぬ、奥深さと深甚さを兼ね備えた内面の奥深い領域である。そして、その音楽は、単なる懐古主義とはならず、Avalon Emersonが最新作で開拓したような、ダブ・ステップの影響を織り交ぜたアヴァン・ポップ/エクスペリメンタル・ポップの領域に近づいていく。これが重苦しくならず、クラブ・ミュージックのような乗りやすさ、近づきやすさを感じさせる理由でもある。しかし、アーティストがバンド・サウンドに重点を置いていることからも分かる通り、その終盤では、TOTOの「Africa」のエキゾチズム性や、ギター・ロックに対する熱狂性も感じとれる。さらにその最後では、スティール・パンのような音響効果を交えながら、安らぎと悲しみが綯い交ぜとなったアンビバレントな感覚を、ボーカルによって表現しようとしている。
アルバムのもう一つの注目曲「Mirage」の曲調は、『Kid A』の時代のトム・ヨークの世界観に触発を受けていると思われる。もちろん、アラビア/エジプトの音階の旋法を取り入れている点については、トム・ヨーク/グリーンウッドの当時のソングライティングの手法と同様ではあるのだろうが、ジェイコブ・アレンの描き出そうとするモダン・ポップの世界は、それよりもソフトでありながら、奥深い内容である。 そして、アレンは、そのエキゾチズムの源泉へと少しずつ降りていこうとする。そのアーティスティックな表現性は、さながら、螺旋階段の形状になっていて、階段を昇っていくというよりも、一歩ずつ、静かに降りていくかのような不可思議な印象に縁取られている。そして、そのクライマックスで、予期せぬ劇的な展開を見せることも特筆すべきか。つまり、最後にはバンド・サウンドの瞬間的なスパークが発生するのである。
アルバムの最後には、クラシカルともコンテンポラリーともつかないフォーク・ミュージックが収録されている。徹底したマイナー調の曲で、現代的な楽曲ではありながら、日本の昭和中期の歌謡に共通する哀感に満ち溢れている。曲の中にある、暗闇に飲み込まれないで、という制作者からのメーセージも心にわだかまり続ける。そして、全般的な収録曲と同様、クローズ曲に内包される暗さや悲しみには、言い知れない癒やしを呼び覚ます力がある。なぜ、暗鬱な曲なのに治癒の力が込められているのだろう。たぶん、それは、感情の暗さの中に受容が存在しているから。つまり、負の側面を受け入れる寛容さが存在する余地がどこかに残されているからなのだろう。
94/100
Puma Blueの『Holy Water』は、Blue Flowers/PIASより発売中です。