Natalia Tsupryk 『Do Nestyamy』
Label: Manners McDade
Release: 2023/10/13
Review
Natalia Tsupryk(ナタリア・ツプニク)は、フィクション、ドキュメンタリー、アニメーションの各映画のスコアを担当し、Palm Springs、Indy Shorts、PÖFFなどの映画祭で国際的に上映され、BAFTAの最終選考に残った。
2017年以降、ナタリアは、キエフ国立アカデミック・モロディ劇場とコラボレーションを行い、「The Master Builder」や「Ostriv Lyubovi」など、いくつかの劇のスコアを担当しています。ヴァイオリニストとしてのナタリアは、ウィーン楽友協会、ウィーン・コンツェルトハウス、ORF RadioKulturhaus、Synchron Stage Vienna、ウクライナ国立交響楽団などの会場で、ソロ、室内楽団やオーケストラのメンバーとして世界各地で演奏している。
ナタリアは、キエフのリセンコ音楽学校を卒業後、ウィーン市立音楽芸術大学でクラシックの教育を受ける。その後、国立映画テレビ学校で映画とテレビのための作曲の修士号を取得し、ダリオ・マリアネッリの指導を受けた。レコーディング・アーティストとして、ナタリアは2020年にデビューLP『Choven』を、2021年にEP『Vaara』をリリースした。また、アンガス・マクレーと2枚のEP「Silent Fall」(2021年)、「II」(2021年)でコラボレーションしている。バイオリニスト、ピアニストとして活動するほか、映画音楽のスコア制作での活躍も目覚ましい。
前作のEP『When We Return To The Sun』ではNils Frahmがマネージャーと共同設立したLeiter-Verlagからリリースを行った。
最新作『Do Nestyamy』では一転して弦楽のオーケストラを主体にした作風に転じている。重厚な弦楽のハーモニー、シンセサイザー、ピアノをスコアの中に散りばめ、抽象的でありながら、美麗な音の世界を探求しようとしている。厳密に言えば、キエフの音楽家ではあるが、ウイーン学派の系譜にある作曲家と見るべきだろう。しかし、ピアニストとしての演奏力や感性の豊かさには注目すべき点もあるが、一方で本格派のオーケストラの語法を用いた弦楽を中心とする『Do Nestyamy』 では、ひときわ美しいアトモスフィアを生み出している。
一曲目「The Drowned Not Abandoned」では、Arvo Partの「Fratress」等で用いられた鈴声の様式ーティンティナブリ(tintinnabuli)ーを継承し、それをミクロの視点からマクロの視点に置き換えている。チェロ、ヴィオラ、バイオリンを中心に構成される四声のオーケストラレーションは、ほとんどユニゾンという形式で繰り広げられていると思われるが、音が鳴り響いている瞬間ではなく、音が鳴り止んだ後の減退音に空間的な処理を施し、音響の未知なる可能性を追求している。
「The Drowned Not Abandoned」は、大きな枠組みで見れば、ひとつの楽節を反復するに過ぎない、現代音楽らしいミニマリズムの範疇にあるコンポジションではありながら、 その中に微妙なバリエーションの変化を用い、音響の中に変容をもたらそうとしている。それはバイオリンが表情の変化をもたらすこともあれば、同じようにヴィオラが、また、チェロが、それらのパッセージに微細な変容をもたらす場合もある。
実際のところ、レコーディングは、コンサートホールのような場所で行われているが、チェロの重厚な響きには瞑想的な感覚を擁し、ひとつの真夜中の海に生じるさざ波のように月光に照らし出され、弦楽によるそのさざ波は夜の静寂の中をゆらめき、流麗なパッセージと連れ立って畝りを生み出し、断続的なアクセントの変化ーーデクレッシェンドの様式ーーを用い、ゆっくりと長い時間をかけてフェードアウトしていく。しかし、人の手によるフェードアウトの手法は、もったいぶったような感じはなく、自然な形で無の領域に飲み込まれていく、音が有という出発点から、無という終着点にむけて、ゆっくりと向かっていく過程には、息を飲むような緊張感と美麗な印象を感じ取ることが出来る。
「I Want and Shamble Beyond the Cemetery Wall」は、ウクライナ戦争における死者への弔いの念が捧げられている。室内楽のピアノとチェロの合奏という形の演奏だが、ナタリアによるものと思われるピアノの伴奏は、神妙かつ悲痛な情感を漂わせ、その上に加わるチェロの主旋律はブラームスの書いた室内楽のように清廉な気風を反映させている。この曲では、かつてオスロの作家/作曲家であるKetil Bjornstadが「The River」という長大な変奏形式を通じて探求した重厚感のある作風をありありと彷彿とさせるものがある。
シンプルに拍動の中に収められるピアノは、音符が振り落ちる毎に異なる表情を見せながら、ときには哀悼、ときには悲哀、ときには親愛、またときには畏怖、様々な感情性が和音によって表現され、一曲目と同様に、巧みなリバーブ処理を施した弦楽器のパッセージやハーモニーと溶け合い、重厚感のある音像空間を構造的に作り上げていく、しかし、それは単なる同胞の死だけに捧げられたものなのだろうか、もちろん、同胞的な民族性に対する哀悼の意が表されているにとどまらず、それはこの地上における悲劇的な死に関するすべてに対する追悼が捧げられているのではないのか。
これまで、制作者は、フィクション、ドキュメンタリー、シネマ、アニメーション等、映像音楽におけるオリジナルスコアも手掛けてきたが、そういったシナリオを強化するための音楽制作の経験が続く「St. Michael Golden-Domed Monastery」には見出すことが出来る。題名には「黄金のドーム」という東方教会に関するキリスト教の建築概念が含まれているが、実際の曲はそれほど宗教的とは言いがたく、現代的な映画のような感じで音の推移を楽しめる。同じように、重厚感のある弦楽の演奏を元に、シンセのアルペジエーターのフレーズを交え、映画音楽に類する作風を示そうとしているように感じられる。
ただ、ナタリアの描く音楽の世界というのは、東欧の地域の寒風に吹きさらされる荒野を思わせる箇所もあり、まさにその荒れ野は、キリスト教の悠久の歴史を辿るかのようであり、ゴルゴダの丘、ナザレといった聖書的なストーリーを喚起させる瞬間もある。それは何も新約聖書に限らず、旧約聖書に見られる神々の住む神話的な世界をオーケストラとシンセの中に内包させている。古代と現代を行き来しながら、東欧におけるロシア-ウクライナと中東のパレスチナ-イスラエルの原理主義的な紛争が結びつけられる。イスラム教とキリスト教の絶え間ない紛争……。ロシア系住民を巡る間断なき紛争……。
その証し立てとしてアンビエント調の音の中に、東欧的な響きが表面的な印象性を形成し、さらに中盤にかけて、アレッポのような地域で用いられる中東の響きを思わせる民族楽器の旋律がわずかながら取り入れられている。これは西欧社会と中東社会を音楽を介して結びつけ、その中に一貫性や論理性を見出そうとする壮大な試みなのである。世界の一部地域で起こっている出来事は世界の全てを表す。つまり、世の中の実相を鏡の様に映し出しているのだ。
EPを通じて、一貫した作風が貫かれている。「beyond the cemetery wall」は連曲というより、この作品におけるcoda.(作曲家が言い残したことを付加する)のような役割を担っている。ボーカルのハミングからピアノの演奏が続く。ピアノの演奏はポスト・クラシカルの系譜に属するが、最近の作品では珍しく、ピアノ・バラードに属するトラックで、アイルランド民謡に象徴される旋律やスケールの進行の中に取り入れられている。その簡素さが、むしろ大げさな表現性よりも哀感を誘う。
最初から大げさなものを生み出そうとするのではなく、シンプルな要素を構築していく中で、壮大な思索性が含まれているのが美点だ。曲の中に漂う清涼感は、アイスランドの音楽家、Eydis Evensenが書くような雰囲気を漂わせる。ピアノの演奏の間に加えられる精妙なストリングス、そして、その上に薄く重ねられるシンセサイザーのシークエンスも、この曲の美麗な印象をしっかりと力強く支えている。これらの巧みな表現性は、コンポーザーとしての大きな前進を意味する。無論、実際に前作のEPよりも心に響く瞬間がある。真実の音楽。
88/100