OMSB 『喜愛』
Label: SUMMIT.Inc
Release: 2023/10/11
Review
約一年ぶりの発売となったOMSBの新作『喜哀』。昨年のアルバム『ALONE』は、Music Magazineのベストリスト入りをしている。当サイトでもベスト・アルバムとして紹介しました。前作では、「波の歌」「大衆」等、J-POP風の音楽性を取り入れながらも、リリックの中でハーフとして生きることや、人生の中での純粋な疑問を、みずからに説くかのような、また反対にリスナー側に問いかけるかのようなリリックを披露した。OMSBというラッパーの何が素晴らしいのかというのは、人生を生きる上で自分なりの課題や疑問を持っていること。そして、それをリリックに落とし込む力量を備えていること。多分、この二点に尽きるのではないかと思う。
最新作『喜哀』については、前作よりも内面的にふつふつと煮えたぎるフラストレーションをリリックに落とし込んでいる。それは、みずからの言葉に対して遠慮がなくなった、また、言葉が鮮明になったとも考えられる。OMSBのラップのスタイルは、ニューヨークのドリルとも、シカゴの2010年代のドリルとも、Mick Jenckins、McKinly Dicksonに象徴される現行のオルタナティヴ・ヒップホップとも、ロンドンのドリルとも違う。当然のことながら、Little Simzとも、KIller Mikeとも異なり、JPEGMAFIA/Billy Woodsのアブストラクト・ヒップホップの前衛的な手法とも異なる。どちらかと言えば、OMSBのリリック・スタイルは、北海道/札幌のThe Blue Herbの系譜に属しており、90年代からめんめんと続くJ-RAPの核心を突くアプローチなのである。そう、それほどリズムの複雑性を押し出さず、シンプルなビート/トラックを背後に日本語のリリックを駆使し、ナチュラルなフロウをかましていくのが、OMSBのスタイルなのである。
ただ、その中に、海外のヒップホップと共通点を見出すことが難しいかと思えば、そういうわけでもない。例えば、『喜哀』のオープニングを飾る「More Round」では、疾走感のあるビートを背後に、いわば「肩で風を切るようなフロウ」を展開している。これらのドライブ感のあるラップのビートに、Mckinly Dicksonの「Run Run Run」と同じ様なニュアンスを見出したとしても、それは多分錯覚ではあるまい。表向きにはドリルの形はほとんど見えないように感じるが、ドリルのフロウで展開される節回しを駆使し、トラックメイクの強固なグルーヴを味方につけて、サンプリング/チョップの要素を織り交ぜ、目くるめく様にアグレッシヴなラップを展開する。そして、リリックの中にも「風神 雷神」といったジャポニズムの影響を込めた日本語のリリックを織り交ぜ、町中をバイクで飛ばすように、軽快に風を切っていく。前作では、日本人というアイデンティティを探し求めるかのような表現も節々に見受けられたが、今回のオープニング・トラックでは、「日本人であるということが何なのか」を自ら示そうとしており、受動的な表現から主体的な表現へと切り替わったことに大きな驚きを覚える。彼のリリックは、日本人という感覚が希薄になった日本のアーティスト達をギョッとさせるのではないか?
同じようにまったく海外の現行のラップとはかけ離れたようでいて、「Hero Is Here」 ではギャンスタラップの影響を交えたラップが続く。例えば、Icecubeのような過激かつ激烈な表現性はそっくりそのままクライムへと直結するため、現代の米国のラッパーは、たとえそれが冗談にすぎないとしても、挑発的な表現や過激なリリックを極力控えるようになって来ている。シカゴのギャングスタの出身者でさえ、表向きにはハート・ウォーミングな内容の歌を歌うようになっているが、OMSBは、ギャングスタ・ラップに見受けられるエクストリームな表現を、ブラック・ミュージックの純粋な様式美と捉えているらしい。しかし、苛立ちやフラストレーションを込めたOMSBのリリックスタイルは、外側に対する攻撃性とはならず、「だめなやつほど、俺をありがたがる」という自虐的とも取れるシニカルな表現となっている。これが「ガキ使」等のリリックとともに、ちょっとしたコメディーのような乾いた笑いを誘う場合があるのだ。
OMSBは、ラッパーという表情の他に、無類のレコード・コレクターとしての一面をもつ。タイトルトラック「喜哀」は、彼のレコードへの愛着がチョップというスタイルに落とし込まれている。チルアウトらしき音源をサンプリングの元ネタとして、彼は過去の住んでいた街やダチへの愛着を歌っている。愛着は、それが過去に過ぎ去ったものであるため、そのまま悲哀に変わるというわけなのだ。しかし、前曲のギャングスタ・ラップとは対象的に、OMSBらしいマイルドなフロウが押し出され、チルアウトな雰囲気が曲全体にはわだかまっている。わだかまっているというのは、それが内面的なモヤモヤのような感じで停滞し、それが決して外側に出ていくことがないから。しかし、これが、夕暮れの新宿のゴールデン街や吉祥寺のハーモニカ横丁を歩くような寂寞感を誘い、そして不思議なノスタルジアへといざなっていく。この曲では、アーティストなりの哀愁がラップを通じて表されているとも考えられる。 曲の中からは、言葉遊びを取り入れながら、強固なウェイブを作り出し、声のサンプリングを織り交ぜながら、フロウという表現の持つ面白さを探求している。また、この曲でもギャグセンスが散りばめられ、「そろばん 習っとけ」というサンプリングが導入されるが、これはもしかすると、アーティストが過去に聴いた誰かからの言葉を「喜哀」という形で集約しているのかもしれない。
同じように、レゲエ、R&Bをサンプリングに落とし込んだ「Vision Quest」にもレコード愛好家の姿が垣間見える。しかし、哀愁に近い感覚を歌った前曲とは異なり、どことなく開放的な感覚を思わせる。ターンテーブルに慣れ親しんだDJのように、リアルなダンスフロアでレコードを変えていくかのように、曲調がくるくると移ろい変わっていくのが面白い。チルアウト風のイントロから、ブレイクビーツを多用したオールドスクールのヒップホップのスタイルに変化していく。そして、OMSBのフロウの背後に敷き詰められる音楽的な背景が矢継ぎ早に切り替わっていく中、彼は過去の追憶をリリックを通じてなめらかに表現する。ときには、「つまらん悩みを紙に書いたら 消えた」という表現を織り交ぜて、等身大のリアルな自己と到達すべき最高の自己を対比させたかと思えば、それとは別に、世俗的な自分をリアルに反映させ、「電車の窓から他人のセックスが見えないか」という個人的な欲望を織り交ぜる。音楽的には、レゲエのコーラスのサンプリングを取り入れ、リスナーを心地よいハーモニーの幻惑へと誘う。ブレイクビーツの手法には画期的なものがあり、しかもセンスよくフロウをかけあわせている。
「Tenci」は、おとぎ話のような語り口で始まる。しかし、OMSBは、これを子供向けのおとぎ話にするのではなく、大人向けの18禁のおとぎ話に仕立てている。ほとんどの語り手は、ピンサロの話から物語を膨らませていくことは至難の業であるが、彼は、独自のギャグセンスを織り交ぜて、これらの卑猥なストーリーをラップの中に上手く融解させていく。すごいと思うのは、普通のアーティストが避けるようなリアルな打ち明け話を、スムーズにリリックの中に収めこむ技術だ。しかし、イントロの赤裸々で猥雑なリリックは続いて、内的な苦悩を織り交ぜた歌詞に変化していく。むしろ前フリがセクシャルな内容であるからこそ、その内的な告白は信憑性を増す。音楽的にも、ガムランのようなインドネシアの民族音楽を背景に、しなやかに歌われるフロウは、「エスニック・ラップ」とも称すべき新鮮なスタイルを示している。ゲスト・ボーカルで参加した''赤人''のボーカルも、啓示的な雰囲気があり、歌謡とも演歌とも付かない奇妙なエキゾチズムを生み出している。二人のコラボレーターのユニークな感性の融合はラップ・ファンだけにとどまらず、一般的な音楽ファンにとっても新鮮に映るものがあるだろう。
アルバムの最後にも注目曲が収録されている。以後の2曲は、DJセットの後のクールダウンの時間を設けたかったというような意図を感じ取れる。「Sai」は、ロレイン・ジェイムスやトロ・イ・モアのようなエレクトロニック/チルウェイブを繊細な感覚と結びつけて、序盤の印象とは異なる切ない情感を表現している。シンプルなループ・サウンドではありながら、その中には緩急があり、夕暮れ時に感じるような詩情や切ない感情をLofi-Hopのスタイルに昇華している。「Blood」では、ソウルとヒップホップの融合というDe La Soulの古典的なスタイルを継承している。アルバムのクロージング・トラック「Mement Mori Again」は、果たして映画に触発された内容なのか。フィルム・ノワールの影響を込め、サックスのソフトウェア音源を取り入れたシネマティックなラップを示し、タイトル曲「喜哀」と同音異義語である「気合」を表現している。最後のトラックでは、OMSBのパーソナリティな決意表明とも取れる、信頼感溢れるリリックが展開される。しかし、その言葉は上滑りになることはない。ヒップホップ・ファンとしては、OMSBというJ-Rapの象徴的な存在に対して、一方ならぬ期待感を覚えてしまう。
86/100
Featured Track 「喜哀」