60年代、及び、70年代のアメリカン・ロックにも様々なジャンル分けがある。CSN&Y、イーグルスに象徴されるカルフォルニアを中心とするウェストコースト・サウンド、オールマン・ブラザーズに代表される南部のブルースに根ざしたサザン・ロック、ニューヨーク、デトロイトを中心に分布するイーストコーストロックに分かたれる。特に、西海岸と東海岸のジャンルの棲み分けは、現在のヒップホップでも行われていることからも分かる通り、音の質感が全然異なることを示唆している。兼ねてからロサンゼルスは、大手レーベルが本拠を構え、ガンズ・アンド・ローゼズを輩出したトルバドールなどオーディション制度を敷いたライブハウスが点在していたこともあり、米国の音楽産業の一大拠点として、その歴史を現代に至るまで綿々と紡いでいる。
当時、最もカルフォルニアで人気を博したバンドといえば、「Hotel California」を発表したイーグルスであることは皆さんもご承知のはずである。しかしながら、のちのLAロックという観点から見て、また当地のロックのパイオニアとしてロック詩人、ジム・モリソン擁するドアーズを避けて通ることは出来ないのではないだろうか。ジム・モリソンといえば、ヘンドリックスやコバーンと同様に、俗称、27Clubとして知られている。今回は、このバンドのバックグランドに関して取り上げていこうと思います。
1967年、モリソン、マンザレク、デンズモア、クリーガーによって結成されたドアーズ。本を正せば、詩人、ウィリアム・ブレイクの「天国と地獄の結婚」の「忘れがたい幻想」のなかにある一節、
「近くの扉が拭い 清められるとき 万物は人の目のありのままに 無限に見える」
に因んでいるという。そして、オルダス・ハックスレーは、この一節をタイトルに使用した「知覚の扉」を発表した。ドアーズは、この一節に因んで命名されたというのだ。
いわば、本来は粗野な印象のあったロック・ミュージックを知的な感覚と、そしてサイケデリアと結びつけるのがドアーズの役目でもあった。 そして、ドアーズは結成から四年後のモリソンの死に至るまで、濃密なウェスト・コースト・ロックの傑作アルバムを発表した。「ロックスターが燃え尽きる」という表面的なイメージは、ブライアン・ジョーンズ、ヘンドリックスやコバーンの影響も大きいが、米国のロック・カルチャーの俯瞰すると、ジム・モリスンの存在も見過ごすことが出来ないように思える。
ただ、ドアーズがウェスト・コーストのバンドであるといっても、その音楽は一括りには出来ないものがある。カルフォルニア州は縦長に分布し、 また、サンフランシスコとロザンゼルスという二大都市が連なっているが、その2つの都市の両端は、相当離れている。そして、両都市は同州に位置するものの、文化的な性質がやや異なると言っても過言ではない。ドアーズもまた同地のグループとは異なる性質を持っている。
そもそも、ウェスト・コースト・サウンドというのは、1965年にオープンした、フィルモア・オーディオトリアムを拠点に活躍したグループのことを示唆している。ただ、これらのバックグランドにも、ロサンゼルスの大規模のレコード産業と、サンフランシスコの中規模のレコード産業には性質の違いがあり、それぞれ押し出す音楽も異なるものだったという。つまり、無数の性質を持つ音楽産業のバックグランドが、この2つの都市には構築されて、のちの時代の音楽産業の発展に貢献していくための布石を、60年代後半に打ち立てようとしていたと見るのが妥当かもしれない。
ザ・ドアーズの時代も同様である。60年代後半のロサンゼルスには、サンフランシスコとは雰囲気の異なるロック産業が確立されつつあった。ドアーズはUCLAで結成され、この学校のフランチャイズを特色として台頭した。一説によると、同時期にUCLA(カルフォルニア州立大学)では、ヘルマン・ヘッセの『荒野のオオカミ』が学生の間で親しまれ、物質的な裕福さとは別の精神性に根ざした豊かさを求める動きが大きなカウンター・カルチャーを形成した。
この動きはサンフランシスコと連動し、サイケデリック・ロックというウェイブを形成するにいたったのであるが、レノンが標榜していた「ラブ・&ピース」の考えと同調し、コミューンのような共同体を構築していった。そういった時代、モリソン擁するドアーズも、この動向を賢しく読み、西海岸の若者のカルチャーを巧みに音楽性に取り入れた。一つ指摘しておきたいのは、ドアーズは同年代に活躍したグレイトフル・デッドを始めとするサイケ・ロックのグループとは明らかに一線を画す存在である。
一説では、サンフランシスコのグループは、オールマン・ブラザーズやジョニー・ウィンター等のサザン・ロックと親和性があり、ブルースとアメリカーナを融合させた渋い音楽に取り組んでいた。対して、ロサンゼルスのグループは、明らかにジャズの影響をロックミュージックの中に才気煥発に取り入れようとしていた。これはたとえば、The Stoogesが「LA Blues」でイーストコーストとLAの文化性をつなげようとしたように、他地域のアヴァンギャルド・ジャズをどのように自分たちの音楽の中に取り入れるのかというのを主眼に置いていた。
サンフランシスコのライブハウスのフィルモア・オーディオトリアムの経営者であり、世界的なイベンター、ビル・グラハムは、当初、ドアーズがLAのバンドいうことで、出演依頼を渋ったという逸話も残っている。ここにシスコとロサンゼルスのライバル関係を見て取る事もできるはずである。
さて、ザ・ドアーズがデビュー・アルバム 『The Doors』(邦題は「ハートに火をつけて」)を発表したのは1967年のことだった。後には「ロック文学」とも称されるように、革新的で難解なモリソンの現代詩を特徴とし、扇動的な面と瞑想的な面を併せ持つ独自のロックサウンドを確立した。
デビューアルバム発表当時、モリソンの歌詞そのものは、評論家の多くに「つかみどころがない」と評されたという。
デビュー・シングル「Light My Fire」は、ドアーズの代表曲でもあり、ビルボードチャートの一位を記録し、大ヒットした。その後も、「People Are Strange」、「Hello I Love You」、「Touch Me」といったヒットシングルを次々連発した。ドアーズのブレイクの要因は、ヒット・シングルがあったことも大きいが、時代的な背景も味方した。
当時、米国では、ベトナム戦争が勃発し、反戦的な動きがボブ・ディランを中心とするウェイヴが若者の間に沸き起こったが、ドアーズはそういった左翼的なグループの一角として見なされることになった。しかし、反体制的、左翼的な印象は、ライヴステージでの過激なパフォーマンスによって付与されたに過ぎない。ドアーズは、確かに扇動的な性質も持ち合わせていたが、 同時にジェントリーな性質も持ち合わせていたことは、ぜひとも付記しておくべきだろう。
ドアーズの名を一躍全国区にした理由は、デビュー・アルバムとしての真新しさ、オルガンをフィーチャーした新鮮さ、そして、モリソンの悪魔的なボーカル、センセーショナル性に満ち溢れた歌詞にある。ベトナム戦争時代の若者は、少なくとも、閉塞した時代感覚とは別の開放やタブーへの挑戦を待ち望んだ。折よく登場したドアーズは、若者の期待に応えるべき素質を具えていた。同年代のデトロイトのMC5と同じように、タブーへの挑戦を厭わなかった。特にデビュー・アルバムの最後に収録されている「The End」は今なお鮮烈な衝撃を残してやまない。
「The End」の中のリリックでは、キリスト教のタブーが歌われており、ギリシャ神話の「エディプス・コンプレックス」のテーマが現代詩として織り交ぜられているとの指摘もあるようだ。
歌詞では、ジークムント・フロイトが提唱する「リビドー」の概念性が織り込まれ、人間の性の欲求が赤裸々に歌われている。エンディング曲「The End」は、究極的に言えば、セックスに対する願望が示唆され、人間の根本的なあり方が問われている。宗教史、あるいは人類史の根本を形成するものは、文化性や倫理観により否定された性なのであり、その根本的な性のあり方を否定せず、あるがままに捉えようという考えがモリソンの念頭にはあったかもしれない。性の概念の否定や嫌悪というのは、近代文明がもたらした悪弊ではないのか、と。その意味を敷衍して考えると、当代の奔放なカウンター・カルチャーは、そういった考えを元にしていた可能性もある。
これらのモリソンの「リビドー」をテーマに縁取った考えは、単なる概念性の中にとどまらずに、現実的な局面において、過激な様相を呈する場合もあった。それは彼のステージパフォーマンスにも表れた。しかし、性的なものへの欲求は、ドアーズだけにかぎらず、当時のウェスト・コーストのグループ全体の一貫したテーマであったという。つまり、性と道徳、規律、制約、抑圧といった概念に象徴される、社会的なモラル全般に対する疑念が、60年代後半のウェストコーストを形成する一連のグループの考えには、したたかに存在し、時にそれはタブーへの挑戦に結びつくこともあった。その一環として、現代のパンク/ラップ・アーティストのように、モリソンは「Fuck」というワードを多用した。今では曲で普通に使われることもあるが、この言葉は当時、「フォー・レター・ワード」と見なされていた。放送はおろか、雑誌等でも使用を固く禁じられていた。”Fuck”を使用した雑誌社が発禁処分となった事例もあったのだ。
それらの禁忌に対する挑戦、言葉の自由性や表現方法の獲得は、モリソンの人生に付きまとった。特に、1968年、彼は、ニューヘイブンの公演中にわいせつ物陳列罪で逮捕、その後、裁判沙汰に巻き込まれた。しかし、モリソンは、後日、この事件に関して次のように供述している。「僕一人が、あのような行為をしたから逮捕された。でも、もし、観客の皆が同じ行為をしていたら、警察は逮捕しなかったかもしれない」
ここには、扇動的な意味も含まれているはずだが、さらにモリソンのマジョリティーとマイノリティーへの考えも織り込まれている。つまり多数派と少数派という概念により、法の公平性が歪められる危険性があるのではないかということである。その証として彼は、この発言を単なる当てつけで行ったのではなかった。当時の西海岸のヒッピーカルチャーの中で、コンサートホール内は、無法状態であることも珍しくはなく、薬物関連の無法は、警官が見てみぬふりをしていた事例もあったというのだから。
さらに、ジム・モリスンのスキャンダラスなイメージは、例えば、イギー・ポップやオズボーンと同じように、こういった氷山の一角に当たる出来事を取り上げ、それをゴシップ的な興味として示したものに過ぎない。上記二人のアーティストと同様に、実際は知性に根ざした文学性を発揮した詩を書くことに関しては人後に落ちないシンガーである。文学の才覚を駆使することにより、表現方法や言葉の持つ可能性をいかに広げていくかという、モリソンのタブーへの挑戦。それは、考えようによっては、現代のロック・ミュージックの素地を形成している。
デビュー作から4年を経て、『L.A Woman』を発表したドアーズの快進撃は止まることを知らなかった。しかし、人気絶頂の最中にあった、1971年7月3日、ジム・モリソンは、パリのアパートにあるバスタブの中で死去しているのが発見された。死亡時、パリ警察は検死を行っていないというのが通説であり、一般的には、薬物乱用が死の原因であるとされている。
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