東ドイツ時代から続く文化の礎 ファンクハウスとフランツ・エールリッヒの建築

 

 

DDR(ドイツ民主共和国: 通称 東ドイツ)の時代の名残でもあるベルリン・ファンクハウスは、シュプレー川のほとり、工業地帯の一角にあり、現在は気鋭の若手音楽家の登竜門となっている。ファンクハウスは、第二次世界大戦間もない1951年に創設され、当初は東ドイツのラジオステーションとしての機能を担っていた。建築物内は複数のセクションで隔てられ、「ブロックA」などの名称で親しまれていた。ファンクハウスの設立当初は、4つの放送スタジオ、レコーディングルーム、および12の総数からなるスイッチングルームを完備していた。

 

フランツ・エールリッヒにより建築されたこのレンガ構造のアーキテクチャーは、現在では、ポピュラー音楽、実験音楽を問わず、多岐にわたるジャンルを主戦場とする音楽家たちがレコーディングするスペースとなっている。ファンクハウスの施設内には、大型のホールがあり、またミックスやマスタリングを行うレコーディングブースを付属している。この場所はアンダーグランドとメインストリームを架橋する役割を果たし、ベルリンのカルチャーの重要なファクターとなっている。ソビエトの統治下に発足した施設は、ラジオ放送局としての役目のみを司っていたわけではない。東ドイツ時代には、このファンクハウスには、音響エンジニア、ラジオアナウンサー、秘書、美容師などがこの放送都市に勤務していたという。その数、5000人。

 

ベルリン・ファンクハウスは、第二次世界大戦後のドイツの最も野心的な文化形成の礎の一つと見ても違和感がない。1952年にエールリッヒによる建築が始まると、56年まで建設が続いた。エールリッヒは徐々にセクションを追加していき、翌年には、ブロックBの建設に着手する。豪華絢爛なルネッサンスの建築様式を継承し、ホワイエにスラブの大理石を用い、複合体施設と称される土台の建築物を完成させる。以後、1960年にはさらに増設が進められ、ブロックEからTまで内部構造は膨れ上がった。当初の建築の設計の予想図から増設が繰り返され、原初的な設計図とは異なる建築が完成された事例は、サグラダ・ファミリアがある。だが、ファンクハウスの場合は、内部と外部構造の双方を増築するのではなく、内部構造を徐々に増強していく。



エールリッヒは、ドイツの機能的な美とモダニズムを基調とする”バウハウス”のデザイン、そして当時のソビエト建築を融合させ、唯一無二のアーキテクチャーを建造した。ソビエト連邦による統治と監視を否定的に捉えるのではなく、その様式を踏まえ、未曾有の建築様式を作り出した。それは、 複合施設としての意義を持つ、この施設の使用目的と合致している。しかし、これらの建築様式の中でもっとも性質が強く反映されたのが、他でもないソビエトの建築だった。旧(ソビエト)帝国首相官邸の大理石が階段に敷き詰められ、床壁はロシアの原生木材が使用された。後に音響施設として使用されることになる施設の一部には、音の反響性を意識し、階段には木材、石、カーペットといった素材を用い、最も音が生きる構造性が選ばれている。外壁のデザインを見ても、エカテリーナ朝の豪奢なデザインが用いられているのは瞭然である。

 

しかし、エールリッヒは少なくとも、これらの施設を単なる政治的なイデアを持つ建築物にとどめておくことを良しとしなかった。それはこの複合施設が「音楽」のために建築されたことにある。建築家と音響技師が共同で作業に当たり、複合施設としてあらゆる需要に応えるためにスタジオを完備する一大建築へと組み上げていったのだ。当初建築された空間の中には、小規模のレコーディング施設、そして現在も主要な音楽家がレコーディングの際に使用するメインホールなどがある。これはソビエトの統治下の時代を過ぎても、文化的な価値を誇る建造物を構築しようというエールリッヒの意図を読み解くことが出来る。建築は完成すれば終わりではなく、それがどのような用途で使われるのか、なおかつ時代の変遷を経て統治体制が変わろうとも普遍的な価値を持つ建築であることが最重要である。そのことをエールリッヒの建築は教唆してくれる。だから、現在もファンクハウスのメインホールやレコーディングブースは、WW2の時代のアンダーグラウンドの名残を遺しているが、多くの演奏家に親しまれる空間でもある。そして実際、現在は、ベルリン放送をはじめとする主要なラジオがオンエアされるにとどまらず、ジャンルを問わず、音楽的な遺産を作るための重要拠点になっている。ポピュラー・アーティスト、ジャズ・アンサンブル、実験音楽、交響楽団、合唱団などが録音に使用している。

 

 

現代では、自由闊達な気風を持ち、クリエイティビティを発揮する場所となっているファンクハウスではあるが、施設が完成した当初は、政治的なプロパガンダのために使用される場合もあったという。高官や政治家がファンクハウスで行われる会合に出席し、そして検閲や諜報活動を行う拠点ともなっていた。外壁を堅固なレンガ造りで覆われ、外側に話が漏洩する虞が少ない秘匿性の高い環境は、外交的に機密に処すべき情報を扱うのに最適だった。現在でも、ファンクハウスが、奇妙な構造性の名残を遺しており、第二次世界大戦後のきわめて異質な雰囲気が漂うのは、この理由によるものだ。1950年代の東ドイツの暗澹たる閉塞感と現代の開放的な文化の空気感が交わり、独特な気風を生み出している。つまり、ベルリン・ファンクハウスの建築物はドイツにとって大きな遺産なのであり、そして国家の歩みを反映したものでもある。

 

1989年のベルリンの壁の崩壊後、 ベルリン・ファンクハウスは当初の音楽的な複合施設としての意義を失うことを余儀なくされた。1991年にラジオ局は廃止され、その後、ラジオ番組の録音に使用されるにとどまった。ファンクハウスは以後、空き家同然となり、ドイツ政府上院が敷地を売却し、土地所有者は頻繁に変わった。その中には、イスラエルの投資家も含まれていた。機運が変わったのは、2015年。ウーヴェ・ファビッチ氏がこの複合施設を買収し、以後、ファンクハウスはドイツの文化施設としての道のりを再び歩み始めた。元銀行員で、文化経済学者でもあるウーヴェ・ファビッチ氏は、なぜ、この複合施設を買収したかについて、ベルリン新聞の取材に対して語っている。「私はここに世界最大級の音楽センターを建設したいと思っている」 


その発言に違わず、所有権を持つファビッチ氏は、この施設を積極的にアーティストのレコーディングやイベントに貸し出している。昨今、制作会社や音楽やテレビの制作を専門とする私立大学等、200にも及ぶテナントがこの施設を利用し、文化的な発展に貢献している。安価に施設をレンタルすることで、利用のハードルを低くしている。これが大掛かりな交響楽団やジャズ・アンサンブルにとどまらず、実験音楽家がファンクハウスを利用出来る理由でもある。





ベルリン・ファンクハウスを重要な活動拠点に位置づける音楽家は数しれない。ダニエル・バレンボイム、ケント・ナガノといったオーケストラのマエストロはもちろんのこと、ポリスのスティング、エイフェックス・ツイン、ラムスタイン、デペッシュ・モードなどミュージックシーンの大御所が多数レコーディングやイベントのため、ファンクハウスを来訪している。


その中で、BBC Promsのパフォーマンスでお馴染みのドイツの作曲家/プロデューサー、ニルス・フラームは、ベルリン・ファンクハウスにスタジオを構えている。ファンクハウスの主要な施設である「大ホール1」は、一般的に世界最大のレコーディングスタジオであると見なされている。世界中のミュージシャンがこのホールの持つ音響の素晴らしさ、美しさを絶賛してやまない。

 

ベルリンのファンクハウスは市内中心部に近い場所に位置し、アクセスもしやすい。現在では、レコーディングや制作、コンサート、フェスティバル、クラブイベント、ライブパフォーマンスなど多岐にわたる用途で使用される。施設内のガイド付きツアーも開催されることもある。東ドイツのミルヒバールでは、コーヒーや伝統的なドイツ料理、ベルリンの人気店ゾーラのピザをたのしむことが出来る。ドイツ観光の際は、ぜひチェックしておきたいスポットの一つ。