New Album Review − Marika Hackman 『Big Sigh』

 Marika Hackman 『Big Sigh』


 

Label: Chrysalis 

Release: 2024/01/12

 

 

Review    -感情の過程-

 

 

リズムマシンやシンセサイザーを複合的に折り重ねて、シンプルでありながらダイナミックなソングライティングを行うイギリス/ハンプシャーのシンガーソングライター、マリカ・ハックマンの最新作『Big Sigh』は、冬の間に耳を澄ますのに最適なアルバムといえそうである。なぜなら雪に覆われた山岳地帯を訪ね歩くような曰くいいがたい雰囲気に作品全体が包まれ、それは小さな生命を持つ無数の生き物がしばらくのあいだ地中の奥深くに眠る私たちが思い浮かべる冬のイメージとピタリと合致するからである。アーティストは、Japanese House、Clairoといった、今をときめくシンガーに親近感を見出しているようだが、マリカ・ハックマンのソングライティングにも親しみやすさやとっつきやすさがある。初見のリスナーであっても、メロディーやリズムが馴染む。それは、その歌声が聴覚にじわじわ浸透していくといった方が相応しい。

 

オープニングを飾る「The Ground」は、インタリュードの役割を持ち、ピアノとシンセ、メロトロンの音色が聞き手を摩訶不思議な世界へといざなう。微細なピアノのミニマルなフレーズを重ね合わせ、繊細な感覚を持つマリカ・ハックマンのポップスの技法は、アイスランドのシンガーソングライターのような透明感のある輝きに浸されている。透明なピアノ、フォーク、メディエーションに根ざした情感たっぷりのハックマンのボーカルは、春の到来を待つ雪に包まれた雄大な地表をささやかな光で照らし、雪解けの季節を今か今かと待ち望む。それはタイムラプスの撮影さながらに、壮大な自然の姿を数時間、ときには十数時間、高性能のカメラで撮影し、編集によりスローモーションに差し替えるかのようでもある。ピアノのフレーズやボーカルが移ろい変わる毎に、崇高で荘厳な自然がゆっくり変化していく。オーケストラのストリングに支えられ、雪解けの季節のように、美しい輝きがたちどころにあらわれる。冬の生命の息吹に乏しい深閑とした情景。いよいよそれが、次の穏やかな光景に刻々と変化していくのだ。

 

しかし、春のおとずれを期待するのは時期尚早かも知れない。完全にはその明るさは到来していないことがわかる。「No Caffeine」は、従来の作品で内面の情景を明晰に捉えてきたアーティストらしい一曲で、それらは現代と古典的な世界を往来するかのようだ。少し調律のずれたヴィンテージな感じのピアノの音色を合わせたチェンバーポップ風のイントロに続いて、ハックマンは内面の憂いを隠しおおせようともせず、飄々と詩をうたう。最初のビンテージな感覚はすぐさま現代的なシンセポップの形に引き継がれ、それらの懐古的な感覚はすぐに立ち消える。しかし、最初の主題がその後、完全に立ち消えたとまでは言いがたい。それは曲の深いところで音を立ててくすぶり続け、他のパートを先導し、その後の展開にスムーズに移行する役割を果たす。セント・ヴィンセントを思わせるシンセのしなやかなベースラインは、ロックのスタンダードなスケールを交え、ハックマンの歌声にエネルギーを与える。それらのエナジーは徐々に上昇していき、内的な熱狂性を呼び覚ます。イントロでは控えめであったハックマンの声は、シンセの力を借りることにより、にわかに凄みと迫力味を帯びてくる。そして曲のクライマックスにも仕掛けが用意されている。オープニングと同様、オーケストラのストリングスのレガートを複合的に織り交ぜることで、イントロの繊細さが力強い表現へと変化するのだ。

 

本作の序盤における映画のサウンドトラックやオーケストラを用いたポップスのアプローチは、次曲への布石を形作っている。そして、ある意味では続くタイトル曲の雰囲気を際立たせるための働きをなす。本作の序盤に満ちる内的な憂愁は、リバーブやフェーザーを基調とするエレクトリックギターに乗り移り、シンセポップを下地にしたオルタネイトなロックへと変遷していく。

 

「大きなため息」と銘打たれたこの曲でも、マリカ・ハックマンの歌声には、なにかしら悶々とした憂いが取り巻き、目に映らぬ闇と対峙し続けるかのように、サビの劇的な展開に至るまで、力を溜め込み続け、内面の波間を漂うかのように、憂いあるウェイブを描こうとする。サビで溜め込んだ力を一挙に開放させるが、相変わらず、それは完全な明るさとはならず、深い嘆息を抱え込んでいる。しかし、イントロの静かな段階からノイジーなサビへと移行する瞬間に奇妙なカタルシスがあるのはなぜか。ハックマンが抱える痛みや憂いは他でもなく、見ず知らずの誰かの思いでもある。表向きに明かされることのない、離れた思いが重なりあう時、それは孤独な憂いではなくなり、共有されるべき感覚へと変わる。本当の意味で自らの感情に忠実であるということ、つまり、負の感覚を許容することにより、その瞬間、ハックマンのソングライティングが報われ、他者に対する貢献という類稀なる表現へと昇華されるのだ。苦悩は、内面の感情性を別のもので押さえつけたり、蓋をしようとすることでは解決出来ないのである。

 

「Blood」はハックマン自身による、ささやかなボーカルとアコースティックギターの組み合わせが、最終的にオルタナティヴ・ポップ/フォークという形に昇華されている。ビッグ・シーフ、クレイロ、ブリジャーズをはじめとする、現代のミュージックシーンの重要な立役者の音楽性の延長線上にあるが、その中でもシネマティックな音響効果をアーティスト特有の素朴なソングライティングに織り交ぜようとしている。曲そのもののアプローチは、トレンドに沿った内容ではあるけれども、曲の中盤からは、ダイナミックな展開が繰り広げられ、迫力溢れる表現性へと変化する。イントロから中盤にかけてのアコースティックのベースラインを意識した演奏を介して、ピアノやシンセを複合的に組み合わせ、表面的な層に覆われていた内郭にある生命力を呼び起こすかのようである。そして、タイトルに即して言及するならば、それは内面の血脈が波打ちながら表面的な性質の果てに力強く浮上していく過程を描いているとも言える。

 

 

「Blood」

 

 

「Hanging」は、夢の実現の過程における葛藤のような感覚が歌われ、複数のレーベルをわたりあるいてきたシンガーソングライターとしての実際的な感慨がシンプルなポピュラー・ソングのなかに織り交ぜられている。これは、昨年のThe Golden Dregsの最新作「On Grace & Dignity」で見受けられたように、みずからの人生の重荷をモチーフにしたと思われる楽曲である。しかし、マリカ・ハックマンの楽曲は、単なる憂いの中に沈むのを良しとせず、その憂いを飛び上がるための助走のように見立てている。そして最終的には、アンセミックなポップバンガーへ変化させ、4分弱の緊張感のあるランタイムに収めこんでいる。しかし、タイトル曲と同じように、憂鬱や閉塞感のような感覚が、サビという演出装置により一瞬で変貌する瞬間に、驚きとカタルシスが求められる。とりもなおさず、それは人間の生命力の発露が、頼もしさを感じるほど発揮され、背後のバックトラックを構成するピアノ、シンセ、リズムマシン、そしてマリカ・ハックマンの霊妙なボーカルにしっかりと乗り移っているからである。生命力とは抑え込むためにあるのではなく、それを何らかの形で外に表出するために存在する。それがわかったとき、共鳴やカタルシスが聞き手のもとにもたらされ、同時に、にわかに熱狂性を帯びるのである。 

 


「Hanging」

 

 

しかしながら、「Hanging」で一時的に示された一瞬の熱狂性は、何の目的も持たずに発せられるノイズのように奔放なものにはならず、その後の静謐な瞬間へと繋がっている。「The Lonely House」はアーティスト自身によるピアノの日記とも解釈できるトラックで、ポスト・クラシカルやコンテンポラリー・クラシカルのように楽しめる。しかし、徹頭徹尾、単一のジャンルで構成されるよりもはるかに、この曲は効果的な意味を持つ。それは一瞬の熱狂後にもたらされる静けさがクールダウンの効果を発揮するからであり、聞き手が自らの本性に戻ることを促すからである。そして、アルバムの冒頭で示された情景的な変化は、この段階に来て、優しげな表情を見せる時もある。それは制作者にとっての世界という概念が必ずしも厳然たるものばかりではなく、それとは対象的に柔らかな印象に変わる瞬間が存在する、あるいは、どこかで「存在していた」からなのかもしれない。

 

ハックマンの新作アルバムは、外的な現象と内的な感覚がどのようにリンクしているのかを見定め、それがどのように移ろうのかをソングライティングによってひとつずつ解き明かし、詳細に記録するかのようでもある。歌手の観察眼は、きわめて精彩かつ的確であり、そして内面のどのような微かな変化をも見逃すことはない。そして、一辺倒な表現ではなく、非常に多彩な感情の移ろいが実際の曲の流れ、ときには一曲の中で驚くほど微細に変化することもある。

 

それらの内面的な記録、あるいは省察は、祝福的な表現へと変貌することがある。「Vitamins」では、エレクトロニック/グリッチという現代的なポップスの切り口を通じて、内面的な豊かさへ至るプロセスを表現しようとする。しかし、その感覚は、温かな内面の豊かさに浸されているが、いつもゆらめき、形質というものを持たない。ある形に定まったかと思えば、ダブステップによるリズムを交えながら、エレクトロニックによる別の生命体へと変化していく。それは最終的に、70年代の原初的なテクノの未来的なロマンという形になり、最もダイナミックな瞬間を迎える。しかし、その後、突如それらが途絶え、静かで何もない、何物にも均されていない、本作の序盤とは異なる無色透明の場所にたどり着く。しかし、本当に「たどり着いた」というべきなのだろうか。それは単なる過程に過ぎないのかもしれず、その先もマリカ・ハックマンは貪欲になにかを探しつづける。

 

アルバムの終盤に収録されている「Slime」、「Please Don't Be So Kind」、「The Yellow Mile」では、アルバムの序盤の憂いへと戻り、素朴なインディー・フォークや、ダンサンブルなシンセ・ポップという、本作の重要な核心を形成するアプローチに回帰を果たす。しかし、不思議なことに、中盤の収録曲を聞き終えた後、序盤と同じような音楽性に帰って来たとしても、その印象はまったく同じ内容にならない。確実に、作品全体には、表向きのものとは別の長い時間が流れている。受け手が、そのことをなんとなく掴んだとき、このアルバムがフリオ・コルタサルの「追い求める男」のような神妙な意味合いを帯びるようになる。同じような出来事が起きた時、おしなべて多くの人は「同じことが起きた」と考える。けれど、それは先にも述べたように単なる思い込みにすぎない。どの出来事も同じ意味を持つことはありえないのである。

 

 

85/100