Weekly Music Feature
Adrianne Lenker
エイドリアン・レンカー(アドリアーヌ)はビックシーフの活動と併行するようにして、2014年頃からソロ活動を行ってきた。当時は、4ADではなくSaddle Creekに所属し、バークリー音楽院の同窓で音楽的な盟友とも言えるバンドのバック・ミークとの共同リリースを行ってきた経緯がある。当時はマニアックなリリースが多く、ソングライティングの特徴としては、ドリーム・ポップに近い夢想的な感覚があった。近年、ビックシーフの活動が軌道に乗るにつれ、ニューヨークのモダンなフォークバンドのギタリスト/ボーカリストとしてのイメージが定着したのだった。近年では、日本のコアな音楽ファンで、ビックシーフの名を知らぬ人はほとんどいない。
昨年、盟友であるバック・ミークがアメリカーナ/フォークの快作をリリースしているが、少し遅れてエイドリアンも新作アルバムのリリースにこぎ着けることになった。しかし、アーティストが指摘している通り、これは本質的にビックシーフの延長線上、ないしはサイドラインにある活動に位置するわけで、バンドの停滞を意味するものではない、ということは事実なのである。またビックシーフに戻れば、前作とは一味異なる音楽が制作されることが期待出来るはず。
NYTの特集記事でも説明していた通り、アーティストは基本的に制作時に、携帯電話やデジタルデバイスから明確に距離を置いている。また、レンカーが振り返る通り、「このアルバムの制作に参加したミュージシャンにもほとんど携帯電話をいじっている人は見当たらなかった」という。つまり、音楽制作から気を散じさせるものが良いアルバムを作るための弊害や障壁となり得ることは、本作を聴くと瞭然である。当然のことながら、SNSでエゴサーチをしていても良い結果が出ることは少ない。これはケンドリック・ラマーが最新作でも話していたことでもある。
「Bright Future」は落ち着きがあり、喧噪からかなり遠いところで音楽が鳴り響いている、そしてアーティストや参加ミュージシャンの感覚は研ぎ澄まされており、精妙な感覚に縁取られている。戦後間もない頃のフォーク・ミュージックからコンテンポラリー、そして70年代のポップス、さらにはモダンクラシカルの範疇にあるピアノ曲まで広汎な音楽性をレンカーは踏襲している。例外的にエレクトロニカの方向性を選んだ曲もあるが、古典的なものから現代的なものまでを網羅しているだけでなく、それらをどこまでシンプルに磨き上げられるかという意図が込められている。なおかつそれは自伝的なモンタージュの技法でソングライティングが行われる。
レンカーは自宅を博物館のように変え、友人をそこに招いた。ダンボールで恐竜を作り、彼女の妹とメールでのメッセージをやりとりするためのメールボックスを作った。レンカーは、本当の家をつくろうとしたのだろうか。少なくとも、そういったファンタジックな世界観はこのアルバムのどこかで通奏低音のように響いている。「Real House」というものがなんなのか具体的にレンカーは知らないという。それでも彼女はそれがなんなのかをなんとなく分かっているのだ。
ニック・ハキムが演奏するアンティーク風のピアノの演奏に合わせ、ゴスペルの系譜にあるバラードをレンカーは歌う。そしてレンカーは、「わたしは、星が涼しい風で、夜の顔に涙のように輝く黒い空間の快活さにハミングをする子ども」と実際にうたいながらトム・ウェイツのファースト・アルバムのバラードのような孤独(独立した精神を孤独といい、かけ離れたことを孤独とは呼ばない)と連帯(独立した複数の精神が合一することを言う)の合間にある淡い感情を歌う。
アルバムの冒頭はどことなく夢想的な雰囲気に充ちている。しかし、それは確かに2014年頃の夢想的な雰囲気に基軸を置きつつも、その質感やアウトプットされるものはまったく違うものであることがわかる。地に足がついていて、そしてその地盤をしっかり踏みしめ、そしてその中に夢想的な感覚を織り交ぜる。”下を見ながら上を見る”、そんな表現が当てはまるほど、敬虔な音楽に対する思い、そして、みずからの生活に対する親しみや充実が感じられるのである。その後、アルバムはカントリーの古典へと繋がり、ハンク・ウィリアムズの時代へと立ち返る。2曲目「Sadness A Gift」はカントリー/フォーク歌手の望郷の思いを歌うという原点のスタイルを忠実になぞらえ、それを現代的な感性によって紡いでいる。ジョセフィン・ランスティーンのバイオリンの音色はケルティック民謡で使用されるフィドルのような開放的な響きを生み出し、この音楽の持つ原初的な爽快感や開けたイメージをはっきりと呼び起こす力がある。
「Fool」
先行シングル「Fool」はアルバムのプロデューサーが話していた通り、「音が喜びにあふれている」素晴らしいナンバーである。北欧のmumのエレクトロニカやフォークトロニカの幻想性とミニマリズムのフォーク、そして電子音楽のマテリアルを組み合わせ、レンカーのバンドプロジェクト、ビックシーフに近い音楽性を追求している。レンカーは叙事詩とはいいがたいものの、アルバムの中に、「自伝的なモンタージュが表現されている」と言う。それはもしかすると、現在の自分から見た子供の頃の庭での遊びなのかもしれない。また、もしかすると、自然の中に、ユニークな小屋のようなものを作ったり、木の枝を持って自然の中を探索したり、その向こうに広がる無限の空や、その下にある雲を追いかけていた時代のことなのかもしれない。子供時代への回想、もしくは幻想は、本作の音楽の重要な起点となり、それらが現在のアーティストが持つフォークのコンセプトにより、面白いように遊びのある音楽的な空間を作り出す。
「No Machine」を聴いていると、NYTの記事のアーティストが木にぶら下がる姿が目の裏に浮かんでくる。フィンガーピックを用いた、しなやかで流れるようにスムーズなアルペジオのアコースティックギターの演奏を元にした古典的なフォーク音楽のアプローチを選んでいる。ギターはレンカーとマット・デイヴィッドソンの二人が演奏している。この曲の音楽には、サウンドスケープを呼び覚ますイメージの換気力がある。昨年、ジェス・ウィリアムソン(Jess Willamson)が指摘していた通り、フォーク/カントリーの原初的な音楽がトニカ、Ⅳ、Ⅴしか使用されないという基礎的なスケールを踏襲し、それらを草原の上を流れる風のような快活な音楽へと昇華させる。同じように、アルバム発売前に配信された「Free Treasure」では、古典的なフォーク音楽が続くが、ここでは、感覚的なルーツを辿ろうとしている。それはレンカーが幼い時代に母と遊んでいた時代の郷愁であり、普遍的な愛情という温かみのある感覚に支えられている。それは何も特別なものではなかったかもしれない。ちょっとした仕草、太陽の逆光を受けての母親の微笑み、そういった記憶のどこかにある慈しみがこの音楽に描写されている。
アルバムの中盤では、実験的な音楽の試みが取り入れられている。「Vampire Empire」はビックシーフの曲としてもリリースされているが、タップダンスのユニークなリズムと取り入れ、よりプリミティブな質感を持つアコースティックギターと掛け合わせ、ダンスのためのフォーク/カントリーを演出する。それは寂れたスペースに、にぎやかなマーチング・バンドがやってきて演奏するようなエンターテインメント性がある。この曲でレンカーはジョニー・キャッシュのようなワイルドなボーカルのスタイルを継承し、それらを軽快なムードとステップを持つフォーク音楽へと昇華させている。アナログ風の録音の音響効果を用い、ときにアンセミックなフレーズを織り交ぜる。アコースティックギターとボーカルの合間に取り入れられるジョセフィン・ランスティーンのバイオリンは、「Sadness As A Gift」と同じようにフィドルの織りなすセルティック民謡のような効果を及ぼす。これは原初的なアパラチアンフォーク等が英国やスコットランド/アイルランド圏からの移民によってもたらされたものであることを思い起こさせる。
これまでのエイドリアン・レンカーの楽曲は、基本的にはアメリカーナの範疇にあるものがほとんどだったが、今回のアルバムではモダンクラシカルの楽曲「Evol」が重要なポイントを形成している。ニック・ハキムのピアノの演奏はアルバムの中盤に、陰影や黄昏の瞬間を生み出し、それと呼応するように、レンカーはセンチメンタルなボーカルを披露する。 この曲はアルバムにバリエーションを及ぼし、カントリー/フォークとは別のクラシックの要素をもたらす。この曲が中盤の終わりに収録されていることが、終盤に向けての重要な導入部ともなっている。
その後、奥深いカントリー/フォークの世界を提示される。「Candleframe」はアーティストの繊細な感覚とロマンチシズムが小屋の中でゆらめく灯心の影のようにちらつき、親しみやすく落ち着いたディランやミッチェルのようなコンテンポラリーフォークの系譜にあるナンバーとして昇華されている。アコースティックギターの艷やかな響きとピアノの断片的なフレーズに合わせて、フォークバラードの理想的なスタイルを作り出している。その後、「Already Lost」では、バンジョーの演奏を取り入れ、ソロ作ではありながら、輪唱の部分を設けて、バンドアンサンブルのような響きを生み出している。やはりここでも素朴な感覚や自然味が重視されている。
アルバムの終盤の2曲は、 序盤から中盤にかけての音楽性を補強するような役割を担っている。「Cellphone Says」においても、心なしかアーティスト自身の回想的なモンタージュが断片的にフォーク・ミュージックの古典的なスタイルを通して描かれ、 「Donut Seam」でもゴスペルとフォークの中間にある音楽性を選び、それらを現代的なニーズに応えるような形で提示している。この2曲でも主張性はそれほど多くないものの、米国の文化の原点を探求するような意図も込められているように感じられる。それは実際的に現代的な価値観とは別の見方や考えがあることをエイドリアン・レンカーは教えてくれる。それはもちろん、癒やしの感覚に繋がる。
エイドリアン・レンカーは、アメリカーナの一貫であるカントリー/フォークの古典から、現代的なものに至るまで、米国の文化性や概念をあらためて俯瞰し、シンプルで親しみやすいソングライティングに昇華させる。プロフェッショナルな仕事であり、アルバム全体に斑がなく、12曲をスムーズに聴き通せる。しかし、音楽におけるリーダビリティの高さは、聴き応えという意外な局面をもたらす。『Bright Future』の中には、一度聴いただけでは分からない何かが含まれている。多分それこそがこのアルバムを何度か聞き直したいと思わせる理由なのかもしれない。
エイドリアン・レンカーは、ギタリスト/歌手/作詞家として、アルバムの序盤から中盤にかけて本当に素晴らしい実力を示しているが、アルバムのクローズでは、特に歌手として次なるステップに進もうとしていることがわかる。「Ruined」は、アンビエント風のイントロからNilssonの「Without You」を彷彿とさせる美しいバラードへと変遷をたどる。何より、クラシカルなタイプのバラードソングをためらいなく書けるということが、エイドリアン・レンカーの音楽家としての傑出した才能を証左している。ただ、本作だけで、そのすべてが示されたと見るのは少し早計となる。このアルバムでは次なる未知の段階への足がかりが暗示的に示されたに過ぎない。
「Ruined」
「Bright Future」
『ブライト・フューチャー』は、レンカーにとって2020年の『ソングス&インストゥルメンタルズ』以来となるアルバムで、フィリップ・ワインローブとの共同プロデュースに加え、ニック・ハキム、マット・デビッドソン、ジョセフィン・ルンステンらが参加している。
先にリリースされたシングル「Ruined」に続く「Sadness As A Gift」は、レンカーが最も親しみやすく温かみのある楽曲で、全く時代を超越しながらも、聴くたびに新鮮な驚きを与えてくれる。エイドリアンヌの生き生きとした声が、彼女の詩を高めている。ギター、ピアノ、ヴァイオリン、そしてすべての声によって完成された輪の中で彼女は歌う。"季節はあっという間に過ぎていく // この季節が続くと思っていたのに // その疑問は大きすぎたのかもしれない"
ブライト・フューチャーでは、フレーズの転回と韻の流れで知られるソングライター、エイドリアン・レンカーが、"You have my heart // I want it back. "とさらりと言う。アナログ的な正確さで記録されたこの作品は、コラボレーションの実験として始まったが、エイドリアン・レンカーのハートが未知の世界へ果敢に挑み、満タンになって戻ってきたことを証明するものとなった。
2022年の秋、ビッグ・シーフのバンド・メンバーは幸運に恵まれた。誰もが来ることができたのだ。私の大好きな人たち」である3人の音楽仲間は、多忙なツアースケジュールの合間を縫って、森に隠されたアナログ・スタジオ、ダブル・インフィニティで彼女に合流した。ハキム、デヴィッドソン、ランスティーンというミュージシャンたちは、エイドリアンヌには知られていたが、お互いに面識はなかった。
「結果がどうなるのか、まったく想像もつきませんでした」と彼女は振り返る。「結果は?」と彼女は言う。エイドリアンヌの音楽的リスクは、スタジオのファースト・アルバム『ブライト・フューチャー』となった。
ブライト・フューチャーの共同プロデューサー兼エンジニアのフィリップ・ワインローブがスタジオを準備した。彼はこれまでのソロアルバムでもエイドリアンのパートナーだったが、今回は新しい試みだった。エイドリアンヌはアルバムを作るつもりはなかった。その代わり、何の期待も持たずに曲を探求する。
オープンな結果であっても、フィルは最初から、最も純粋で技術的に正直なセッションを撮りたかった。結果、フィールド・レコーディングの自発的な泳ぎと思慮深いエンジニアリングの最良の資質が備わった。弦楽器の指先、ピアノのフェルトパッド、数歩下がったハーモニーなど、細部までこころゆくまで味わえる。エイドリアンヌの歌がありのままに、無防備に、そして軽やかに響く。
「Fool - Live (Music Hall of Williamsburg,Brooklyn)」