Weekly Music Feature
Saya Gray:
昨年、Dirty Hitからアルバム『QWERTY』をリリースしたSaya Gray(サヤ・グレー)はトロント生まれ。
グレイは、アレサ・フランクリン、エラ・フィッツジェラルドとも共演してきたカナダ人のトランペット奏者/作曲家/エンジニアのチャーリー・グレイを父に持ち、カナダの音楽学校「Discovery Through the Arts」を設立したマドカ・ムラタを母にもつ音楽一家に育つ。幼い頃から兄のルシアン・グレイとさまざまな楽器を習得した。グレーは10代の頃にバンド活動を始め、ジャマイカのペンテコステ教会でセッションに明け暮れた。その後、ベーシストとして世界中をツアーで回るようになり、ダニエル・シーザーやウィロー・スミスの音楽監督も務めている。
サヤ・グレーの母親は浜松出身の日本人。父はスコットランド系のカナダ人である。典型的な日本人家庭で育ったというシンガーは日本のポップスの影響を受けており、それは前作『19 Masters』でひとまず完成を見た。
デビュー当時の音楽性に関しては、「グランジーなベッドルームポップ」とも称されていたが、二作目となる『QWENTY』では無数の実験音楽の要素がポピュラー・ミュージック下に置かれている。ラップ/ネオソウルのブレイクビーツの手法、ミュージック・コンクレートの影響を交え、エクスペリメンタルポップの領域に歩みを進め、モダンクラシカル/コンテンポラリークラシカルの音楽性も付加されている。かと思えば、その後、Aphex Twin/Squarepusherの作風に象徴づけられる細分化されたドラムンベース/ドリルンベースのビートが反映される場合もある。それはCharli XCXを始めとする現代のポピュラリティの継承の意図も込められているように思える。
曲の中で音楽性そのものが落ち着きなく変化していく点については、海外のメディアからも高評価を受けたハイパーポップの新星、Yves Tumorの1stアルバムの作風を彷彿とさせるものがある。サヤ・グレイの音楽はジャンルの規定を拒絶するかのようであり、『Qwenty』のクローズ「Or Furikake」ではメタル/ノイズの要素を込めたハイパーポップに転じている。また作風に関しては、極めて広範なジャンルを擁する実験的な作風が主体となっている。一般受けはしないかもしれないが、ポピュラーミュージックシーンに新風を巻き起こしそうなシンガーソングライターである。
『Qwenty II』- Dirty Hit
Saya Grayは、Dirty Hitの新しい看板アーティストと見ても違和感がない。同レーベルからリリースされた前作『Qwenty』では、ドラムンベースのフューチャリズムの一貫であるドリルンベース等の音楽性を元にし、エクスペリメンタル・ポップの未来形であるハイパーポップのアプローチが敷かれていた。グレイの音楽は、単なるクロスオーバーという言葉では言い表せないものがある。それは文化性と民族性の混交、その中にディアスポラの概念を散りばめ、先鋭的な音楽性を組み上げる。ディアスポラといえば同レーベルのサワヤマが真っ先に思い浮かぶが、女性蔑視的な業界の気風が是正されないかぎり、しばらく新譜のリリースは見込めないとのこと。
おそらく、サヤ・グレイにとって、ロック、ネオソウル、ドラムンベース、そしてハイパーポップ等の音楽用語、それらのジャンルの呼称は、ほとんど意味をなさないように感じられる。グレイにとっての音楽とは、ひとつのイデアを作り出す概念の根幹なのであり、そのアウトプット方法は音楽というある種の言語を通じて繰り広げられる「アートパフォーマンス」の一貫である。また、クロスオーバーという概念を軽々と超越した多数のジャンルの「ハイブリッド」の形式は、アーティストの音楽的なアイコンの重要な根幹を担っている。連作のような意味を持つ『Ⅱ』は、前作をさらにエグく発展させたもので、呆れるほど多彩な音楽的なアプローチ、ブレイクビーツの先を行く「Future Beats(フューチャー・ビーツ)」とも称すべき革新性、そしてアーティストの重要なアイデンティティをなす日本的なカルチャーが取り入れられている。
『Qwenty Ⅱ』は単なるレコーディングを商品化するという目的ではなく、スタジオを舞台にロック・オペラが繰り広げられるようなユニークさがある。一般的に、多くのアーティストやバンドは、レコーディングスタジオで、より良い録音をしようと試みるが、サヤ・グレイはそもそも録音というフィールドを踏み台にして、アーティストが独壇場の一人の独創的なオペラを組み上げる。
心浮き立つようなエンターテイメント性は、もうすでにオープニングを飾る「You, A Fool」の中に見出せる。イントロのハイハットの導入で「何が始まるのか?」と期待させると、キング・クリムゾンやRUSHの系譜にある古典的なプログレッシヴ・ロックがきわめてロック的な文脈を元に構築される。トラックに録音されるボーカルについても、真面目なのか、ふざけているのか分からない感じでリリックが紡がれる。このオープニングは息もつかせぬ展開があるとともに瞬間ごとに映像のシーンが切り替わるような感じで、音楽が変化していく。その中に、英語や日本のサブカルの「電波系」のサンプリングを散りばめ、カオティックな展開を増幅させる。
そのカオティックな展開の中に、さりげなくUFOのマイケル・シェンカーのようなハードロックに依拠した古臭いギターリフをテクニカルに織り交ぜ、聞き手を呆然とさせるのだ。展開はあるようでいて存在しない。ギターのリフが反復されたかと思えば、日本のアニメカルチャーのサンプリング、古典的なゴスペルやソウルのサンプリングがブレイクビーツのように織り交ぜつつ、トリッピーな展開を形作る。つまり、聞き手の興味がある一点に惹きつけられると、すぐさまそこから離れ、次の構造へと移行していく。まるで''Catch Me If You Can''とでもいうかのように、聞き手がある場所に手を伸ばそうとすると、サヤ・グレイはすでにそこにはいないのだ。
続く「2 2 Bootleg」はグレイの代名詞的なトラックで、イギリスのベースメントのクラブ・ミュージックのビートを元にして、アヴァン・ポップとネオソウルの中間にあるポイントを探る。ノイズ性が含まれているという点では、ハイパーポップの範疇にあるが、その中に部分的にドリルンベースの要素を元にノイズを織り交ぜる。例えば、フォーク音楽の中にドリルの要素を織り交ぜるという手法は、カナダというより、ロンドンのポップスやネオソウルの中に頻繁に見出される。グレイの場合は、pinkpantheressのように扇動的なエナジーを込めて展開させていく。このトラックには、クラブ・ミュージックの熱狂性、ロックソングの狂乱、ヒップホップのフロウの節回し、そういった多数のマテリアルが渾然一体となり、旧来にはないハイブリッド音楽が組み上げられていく。唖然とするのは、曲の中盤では、フォーク音楽とIDMの融合であるフォークトロニカまでを網羅している。しかし、このアルバムの最大の魅力は、マッドな質感を狙いながら「聞きやすさ」に焦点が置かれていること。つまり、複雑な要素が織り交ぜられた先鋭的なアプローチであるものの、曲そのものは親しみやすいポップスの範疇に収められている。
しかし、解釈の仕方によっては、メインストリームの対蹠地に位置するアウトサイダー的なソングライティングといえ、発揮される才覚に関しては、それと正反対に一つの枠組から逸脱している。矛盾撞着のようではあるが、グレイの音楽というのは、一般的なものと前衛的なもの、あるいは、王道と亜流がたえず混在する、不可解な空間をうごめくアブストラクト・ポップなのだ。これは、グレイがきわめて日本的な家庭で育ったという背景に要因があるかもしれない。つまり、日本の家庭に見受けられるような、きわめて保守的な気風の中で精神性が育まれたことへの反動や反骨、あるいは徹底したアンチの姿勢がこの音楽の中に強かに含まれているのだ。
何らかの概念に対するアンチであるという姿勢、外的なものに対して自主性があるということ。これは政治的なものや社会気風に対する子供だましの反駁よりも遥かにパンクであることを意味する。
音楽的には、その限りではないが、上述のパンクの気風はその後の収録曲においても、何らかの掴みをもたらし、音響的なものとは異なる「ヘヴィネス」の概念を体現する。そしてサヤ・グレイは、音楽そのものの多くが記号学のように聞かれているのではないかと思わせる考えを提示している。
例えば、K-Popならば、「K-Pop」、J-Popであれば、「J-Pop」、または、ロンドンのロックバンド、1975の音楽であれば「1975の音楽」というように、世界のリスナーの9割が音楽をある種の「記号」のように捉え、流れてくる音に脊髄反射を示すしかなく、それ以上の何かを掴むことが困難であることを暗示している。「A A BOUQUET FOR YOUR 180 FACE」は、そういった風潮を逆手に取って、アーバンフラメンコの音楽性をベースに、その基底にグリッチ・テクノの要素を散りばめ、それらの記号をあえて示し、標準化や一般化から抜け出す方法を示唆している。アーバンフラメンコのスパニッシュの気風を散りばめたチルアウト風の耳障りの良いポップとして昇華されているこの曲は、脊髄反射のようなありきたりのリスニングからの脱却や退避を意味し、流れてくる音楽の「核心」を捉えるための重要な手がかりを形成するのである。
二曲目で示されたワールド・ミュージックの要素は、その後の「DIPAD33/WIDFU」にも含まれている。ヨット・ロックやチル・アウトの曲風の中で、グレイはセンスよくブラジル音楽の要素を散りばめ、心地よいリスニング空間を提供する。 そしてボーカルのジェイムス・ブレイクの系譜にある現代的なネオソウルの作風を意識しながら、Sampha、Jayda Gのようなイギリスの最新鋭のヒップホップとモダンソウルのアーティストの起伏に富んだダイナミックな曲展開を踏襲し、ベースラインやギターノイズ、シンセの装飾的なフレーズ、抽象的なコーラス、スポークンワードのサンプル、メロウな雰囲気を持つエレピというように、あらゆる手法を駆使し、ダイナミックなポップネスを構築していく。メインストリームの範疇にあるトラックではあるものの、その中にはアーティスト特有のペーソスがさりげなく散りばめられている。これらの両極端のアンビヴァレンスな要素は、この曲をリスニングする時の最大の醍醐味ともなりえる。
例えば、Ninja TuneのJayda Gが前作で示したようなスポークンワードを用いたストリーテリングの要素、あるいはヒップホップのナラティヴな要素は続く「! EDIBLE THONG」のイントロのサンプリングの形で導入される。
前曲と同じように、この曲は、現在のロンドンで盛んなネオソウルの範疇にあり、Samphaのような抽象的なアンビエントに近い音像を用い、渋いトラックとして昇華している。アルバムの中では、最も美麗な瞬間が出現し、ピアノやディレイを掛けたアコースティックギターをサンプリングの一貫の要素として解釈することで生み出される。これらは例えば、WILCOとケイト・ルボンとの共同作業で生み出された、Bon Iverの次世代のレコーディングの手法であるミュージックコンクレートやカットアップ・コラージュのような前衛的な手法の系譜に位置づけられる。
他にも、続く「! MAVIS BEACON」ではアヴァン・ポップ(アヴァンギャルド・ポップ)の元祖であるBjorkの『Debut』で示されたハープのグリッサンドを駆使し、それらをジャズ的なニュアンスを通じてネオソウルやクラブ・ミュージック(EDM)の一貫であるポップスとして昇華している。
しかし、アルバムの中盤の収録曲を通じて示されるのは、クールダウンのためのクラブ・ミュージックである。たとえば、クラブフロアのチルアウトのような音楽が流れる屋外のスペースでよく聞かれるようなリラックスしたEDMは、このトラックにおいてはブリストルのトリップホップのようなアンニュイな感覚と掛け合わさり、特異な作風が生み出される。ボコーダーを用いたシーランのような録音、そして、それは続いて、AIの影響を込めた現代テクノロジーにおけるポピュラー音楽の新たな解釈という異なる意味に変化し、最終的には、 Roisin Murphy、Avalon Emersonを始めとするDJやクラブフロアにゆかりを持つアーティストのアヴァンポップの音楽性の次なる可能性が示されたとも見ることが出来る。そして実際的に、先鋭的なものが示されつつも、一貫して曲の中ではポピュラリティが重点に置かれていることも注目に値する。
最も驚いたのはクローズ「RRRate MY KAWAII CAKE」である。サヤ・グレイはブラジルのサンバをアヴァン・ポップの切り口から解釈し、ユニークな曲風に変化させている。そして伝統性や革新性の双方をセンスよく捉え、それらを刺激的なトラックとしてアウトプットさせている。 ジャズ、和風の音階進行、ミニマリズム、ヒップホップ、ブレイクビーツ、ダブ、ネオソウル、グレイ特有の独特な跳ね上がるボーカルのフレージング、これらすべてが渾然一体となり、音楽による特異な音響構造を作り上げ、メインストリームにいる他のアーティストを圧倒する。全面的に迸るような才覚、押さえつけがたいほどの熱量が、クローズには立ち込め、それはまたソロアーティストとして備わるべき性質のすべてを持ち合わせていることを表している。
このアルバムでは、ポップスの前衛性や革新性が示され、音楽の持つ本当の面白さが体験出来る。アルバムのリスニングは、富士急ハイランドのスリリングなアトラクションのようなエンターテイメントの悦楽がある。つまり、音楽の理想的なリスニングとは、受動的なものではなく、ライブのように、どこまでも純粋な能動的体験であるべきなのである。無論、惜しくもCHAIが示しきれなかった「KAWAII」という概念は、実は本作の方がはるかにリアリティーがあるのだ。
*Danny Brownの『Quaranta』と同じようにクローズのアウトロがオープナーの導入部となっており、実はこのアルバムは円環構造となっている。
90/100
「RRRate MY KAWAII CAKE」