Andrew Bird- 『Sunday Morning Put-On」
Label: Loma Vista/ Concord
Release: 2024/05/24
Review
--北部と中西部 モダンとクラシックの記憶--
アンドリュー・バードはヴォーカリスト、口笛奏者、ソングライター。4歳で初めてヴァイオリンを手にし、クラシックのレパートリーを聴覚から直に吸収し、音楽的な形成期を過ごした。10代の頃、バードは、初期のジャズ、カントリー・ブルース、フォーク・ミュージックなど様々なスタイルに興味を持つようになり、それらを独自のポップ・ミュージックに融合させた。
近年では、フィービー・ブリジャーズとのコラボ曲で、米国の詩人エミリー・ディッキンソンの作品を再構築したほか、『Outside Problem」では、人生の苦悩を題材に選び、渋いポピュラーミュージックを制作している。続く『Sunday Morning Put-On』は、ミュージシャンがスタンダードジャズに挑戦を挑む。近年、ドラマーからボーカリストに転向したFather John Mistyが古典的なミュージカルとポピュラーを融合させ、ノスタルジックなポピュラー音楽で成功した事例に倣い、アンドリュー・バードもまた20世紀始めのマンハッタンの摩天楼の世界にリスナーを導く。
このアルバムには「Fly Me To The Moon」などの定番曲を持つフランク・シナトラのスタンダードジャズ、ウェス・モンゴメリーのようなブルージャズ、カウント・ベイシーのようなビックバンド、ムーンドッグ(Moondog)のような大道芸人としてのオーケストラジャズが結びついて、個性的な作風に昇華されている。ポピュラー音楽による時間旅行を試みたFather John Misty(マイケル・ティルマン)と同様に、『Sunday Morning Put-On』では懐古的な音楽のディレクションが選ばれているが、録音自体は一貫してアコースティックな音の側面が重視されている。大型のミュージック・ホールではなく、小規模のジャズバーのライブを体験するかのような音の質感が重視されている。バイオリンやヴィオラのピチカートが重なり合う時、それらの背後をウッドベースのスタッカートがせわしなく動き回る時、独特な重厚感がもたらされるのだ。
アンドリュー・バードの歌声は、ジョン・ミスティよりも幅広い音域をもつため、バリトンの渋い声から、それとは対象的にソプラノの澄んだ音域までを網羅している。なぜか毎年のようにグラミー賞に受賞作を送り込むLoma Vista。個人的には、このアルバムが選出される可能性があるのではないかと推測したい。近年、レコーディング・アカデミーは、アーティストそのものの人気度も選考時の基準に入れていると思われるが、その一方、実力派のアルバムが控えめに選出されるケースがある。これはグラミーが音楽賞として形骸化するのを防ごうというアカデミー側の目論見かもしれない。少なくとも、チャールズ・ロイドの最新アルバムと同じく、アンドリュー・バードは、米国のスタンダード・ジャズへの愛着と敬意を示す。そして、それは、国際化が進んだアメリカの近代文明の原点を音楽によって再訪するという意義が求められる。
このアルバムを聞く上で、ニューヨークのフランク・シナトラやブロードウェイ・ミュージカルからの影響も考慮すべきと思われるが、他方、注目すべきは中西部の文化性も込められていることである。音楽家にとって、若い時代に聴いた音楽は宝物であり、その時代の思い出が、あるとき、ふいに蘇ってくることがあるものだ。そしてアンドリュー・バードは、北部と中西部をつなぐ不可思議な多文化性を最新アルバムに偏在させる。彼のイリノイ・シカゴの記憶は、たぶん、表通りや郊外の緑豊かな地域なのではなく、都市部と郊外の中間にあるバックストリートやダウンタウンの少しいかがわしく摩訶不可思議なイメージに浸されているのかもしれない。それは、急進的なリベラル主義が国家を席巻する以前のことで、善良なキリスト教主義や保守的な考えが、アメリカ市民の生活に曲がりなりにも定着していた時代の奇妙な記憶なのである。
「20代の頃、シカゴのエッジウォーター地区にある古いアパートメントホテルに住んでいた」とアンドリュー・バードは当時の経験を回想する。「そこは安くて、近くのロヨラ大学のイエズス会の司祭や修道女を引退した人々が住んでいた。ジムには古いシュウィンの10段変速の自転車が置いてあって、低料金のペロトン用だった。古いプールではオペラが演奏され、スチームルームは地元のロシアン・マフィアのクラブハウスだった。土曜日の夜はたいてい、午前12時から4時までWBEZの『Blues Before Sunrise』というラジオ番組を聴きながら起きていた。DJのスティーブ・クッシングは、ブルース、ジャズ、ゴスペルの古いレアな78回転レコードを流していた。それから数時間ほど眠り、目が覚めると、同じくWBEZのディック・バックリーの番組で、彼が30~40年代の「Golden Era」と呼ぶジャズを特集していた。20世紀半ばまでのある時代のジャズに対する私の愛着は、私自身の仕事(その大部分はジャズではない)において何度も変容を遂げながらも不変だった。ある時期、私はこの時代と自分との間に距離を取っていた」
アンドリュー・バードは、ウッドベース(コントラバス)や、それとは対象的なバイオリンやヴィオラのピチカート、それは現代音楽の範疇にある特殊奏法により生み出されるリズムによってエッジウォーター地区のアパートメントの若かりし時代の記憶を再現させる。中音域の落ち着いて、少し気取った斜に構えたようなボーカルは、ジャズ・スタンダードと、オルタナティヴの元祖であるルー・リードのようなクールさをかけあわせたスタイルによって構築されていく。録音のリアルな音響は、アルバムの序盤のイントロダクションで強固な印象を形作り、ハイハットのしなるような音の硬い質感を形成する。こういった音楽の中には、アンドリューさんが若い時代に聴いていた78回転のレコードとは、かくなるものであったかも知れないと思わせるものがある。 イントロダクションのあとに続くのは、ラテン音楽を反映させた「Caravan」である。マリンバの音が情熱的な弦楽器のパッセージと絡み合い、それに合わせてダンスを踊るかのように、バードはジャズ・スタンダードを踏襲したボーカルを歌う。ラテンの雰囲気を漂わせていた音楽は、スペインからアラビアへ続き、情熱的な雰囲気と、それとは対象的な神妙な雰囲気を混在させるのである。アラビアンナイトのような妖艶な雰囲気.....、そしてユニゾンや三度進行によるストリングスがきわめてミステリアスな印象を作り出す。
これらのアラビアともイスラムともつかないエキゾチックな雰囲気は続く「I Fall in Love Too Easily」で、かつてPaul Gigerがバイオリンでインドのシタールの演奏を模したように、弦楽器の演奏でバッハの無伴奏チェロ組曲を思わせるアルペジオが披露されている。しかし、それらはまるでわたしたちの知らない遠い時代に鳴り響くかのように、奥行きのあるアンビエンスによって表される。つまり、アンドリュー・バードの音楽は、現在に鳴り響くというよりも、記憶の中に消え入るかのような不可思議な感覚に縁取られているのである。これらのメタ構造のような印象性を持つ音楽に続いて、ヴィオラの掠れたようなスタッカートの演奏をベースにして、スタンダードなジャズーービックバンドの楽しげなジャズのメチエを彷彿とさせる形式へとこの曲は移行してゆく。ピアノとウッドベースの合奏を礎とし、ブルーノートのライブハウスで聴くことが出来るような、寛いだメロウなジャズセッションへと移行していく。それから、アンドリュー・バードは”シナトライズム”を継承するボーカルを披露する。ここに前作の苦悩を手放し、それとは対象的な音楽の軽快さを追い求めるミュージシャンの実像が捉えられる。
続く「You'd Be So Nice To Come Home To」は軽快な弦楽器の音階の掛け下がりで始まり、ウッドベースの同音反復のスタッカート奏法をもとに、ヘレン・メリルのアンニュイなジャズの作風を現代にリヴァイヴァルさせる。スタッカートの軽妙なリズムの構成力の見事さは、当然のことながら、前の曲と同じようにジャズバーで体験出来るささやかな楽しみを音楽によって表している。シナトラとともに、ディーン・マーティン、ナット・キング・コールといった往年のスタンダードの名歌手は、時代に古びない普遍的なメロディーを自身の人生や恋愛観に重ね合わせてシンプルに歌い、そして、その曲の親しみやすさを重要視していたのだったが、アンドリュー・バードもそれに倣い、古き良き時代の名シンガーの系譜にあるポピュラーソングを歌っている。リバーブを配した弦楽器の閃きのあるピチカートのイントロに続いて始まる「My Ideal」は、(大胆にも!)2024年のシンガーとして、古典的なジャズバラードの世界へと踏み入れる。バードの歌声には人を酔わせる何かがある。それは若い時代のゴスペルやブルース、ジャズの体験が定着しているからなのだろうか。バードはまるで若い時代の自分に向けての讃歌を捧げるかのようにブルージーな歌声を披露する。ヴィブラフォンの音色がそれらのメロウな雰囲気をさらに甘美的にする。それに続いて、弦楽器の掠れたようなレガートの音色も、20世紀のモノトーンの時代に私達を優しく誘うかのようである。その後、坂本九の「すき焼き」や、エンリオ・モリコーネサウンドを彷彿とさせる口笛(ウィストル)が弦楽器のピチカートとロマンティックに溶け合んでゆく。その後に続く、古典的なジャズの終止形(カデンツア)は、使い古された形式ではあるが、心を和ませる。そして間違いなく音楽の善良的な側面をシンプルに表現しようとしている。
「My Ideal」
「Django」も凄い。バッハの平均律のフーガの対旋律法をジャズから解釈したような曲の構成になっている。しかし、アンドリュー・バードは一貫して音楽の閉鎖的なアカデミズムやスノビズムに焦点を絞らず、ジャズの持つ一般的な楽しさに重点を置いている。しかも、弦楽器の精妙なピチカートとヴィブラフォンの合奏は日本風なテイストが漂い、琴や木琴のような和楽の音楽性が東洋のエキゾチックな雰囲気を作り出す。
アルバムの中盤において、あらためてアンドリュー・バードはアメリカの音楽のスペシャリティや固有性とは何かを丹念に探す。 「I Cover The Waterfront」では、サッチモことルイ・アームストロングのブルージャズの魅力を再現しているが、これらの音楽が時代錯誤に陥らないのは、音質のクリアさ、スムースな感覚、そしてなめらかな音を重視するのと同時に現行のロンドンのダンスミュージックのレーベルのプロデュースのように、低音部を一貫して強調しているからである。アルバムの後半では、アンドリュー・バードのボーカリストとしての存在感が強まり、ウッドベースの重厚な響きに呼応するかのように、彼の歌手として円熟期に達したことを示す渋い感じのボーカルが色彩的なコントラストを生み出す。バードの音楽は一貫して、M Wardのように真摯でありながら、同時にユニークさや開放的な感覚を織り交ぜることも忘れておらず、ストリングスの遊び心のあるパッセージが音楽に親しみやすさと近づきやすさをもたらす。本作の最終盤に至っても、バードの音楽は、モダンとクラシック、それから中西部と北部の文化性の狭間を揺れ動く。ときにはシナトラのような古典性、アームストロングのような豪傑さ、ムーンドッグのようなジプシー的な音楽的な感性を以てである。「Softly, as in a Morning Sunrise」は、朝の日の出の清々しさをバイオリンとボーカルを中心として表現する。「前作までの苦悩はどこに消えたのか??」と思わせるものがこの曲には存在する。表向きにはクレジットされてはいないけれども、シカゴの名ジャズ・ギタリストで、トータス(Tortoise)のメンバーでもあるジェフ・パーカーのモンゴメリー調のギターが収録されているものと思われる。
このアルバムは、アグレッシヴな側面に加え、それとは対象的なメロウでまったりとした印象を持つ音楽を代わる代わる楽しむことが出来る。 それは、あまり一般的には知られていないことだが、アンドリュー・バードという人物の肖像画を、ジャズやクラシックという側面から切り取ったかのようだ。彼の音楽には苦悩を越えた後の晴れやかさが含まれ、また、その歌声の渋みは順風満帆な時ばかりではなかったからこそ生み出し得たのかもしれない。しかし、人生の中に誰もが一度くらいは経験するような紆余曲折の経験、つまり、彼が音楽家としてゆっくりと歩いていく曲がりくねった道は、最終的に、慈しみや優しげな印象を持つジャズバラード、そして、清涼感のあるコンテンポラリークラシックの音楽に続いている。前者の「I've Grown Accustomed To Her- 私は彼女に慣れてしまった」は、男性シンガーソングライターがいかなる感覚を人生において体現すべきか、その模範的なスタンスが示されているのではないだろうか。アルバムのクローズ「Ballon de peut-etre」は、Paul Gigerの演奏の系譜にあるバイオリンのピチカートと上質な音響とアコースティックギターの音色を活かした緻密なサウンドが丹念に作り上げられる。アルバムの序盤から中盤にかけては、制作者の思い出や旧い時代における体験がモチーフとなっていたように思えるが、最後の曲はその限りではない。忘れ去られた過去を透かすようにして、シンガーソングライターの現在の肖像がぼんやりとかすかに浮かび上がってくる。いわば、序盤とは対比的なモダンな雰囲気を持つ音楽として楽しむことができる。
92/100
「I've Grown Accustomed To Her」
*Andrew Birdによる新作アルバム 『Sunday Morning Put-On』 はLoma Vista/Concordから発売中です。ストリーミングはこちら。