mui zyu - nothing or something to die for
Label : Father/Daughter
Release: 2024/05/24
Review
-An eye on an absurd and inexplicable world -不条理で不可解な世界に対する眼差し-
今年の夏以降、イギリスで複数のヘッドラインツアーを控えている香港系イギリス人シンガー、mui zyu(エヴァ・リュー)は、セカンドアルバムの発売を記念し、ファンに向けてリスニングパーティーを開催した。デビュー作『Rotten Bun For an Eggless Century- 卵のない世紀の腐ったパン』では持ち前のシュールな性質とエレクトロ・ポップを組みわせ特異な音楽観を確立している。
エヴァ・リューの音楽は、電子音楽のテイストに満ちており、なおかつまた''チップチューン''と呼ばれるゲームミュージックから派生したエレクトロニックの性質を兼ね備えている。それらの音楽性の中には、ドラゴン・クエストのようなRPGから、それよりも古いゲームセンター等に設置されているレトロゲームのフィードバックもわずかながら感じられる。エヴァ・リューの生み出す音楽は、要するに、ミステリアスに入り組んだ迷宮と言うべきなのかもしれない。ということでセカンド・アルバムの音楽は、摩訶不思議でファンタジックな世界が表向きには構築されている。そして、音楽の扉を恐る恐る開き、その内側に入ると、エポックメイキングな音楽が展開される。
デビューアルバムの音楽性は、内省的な感覚を持つシンセポップや、その後の時代を牽引するアヴァン・ポップ/エクスペリメンタルポップの範疇にあった。言うまでもなく、それだけがmui zyuの音楽のすべてとも決めつけがたく、要するにロンドンの多彩なカルチャーを吸収したバリエーションに富んだ音楽性が一つの魅力でもあった。その中に、シンガーがかつて慣れ親しんだ香港のポピュラーミュージック、中国の伝説的な幻想文学作家、蒲松齢(中国では「紅楼夢」が大人気だとか??)のファンタジー性を織り交ぜていた。そして、エヴァ・リューの音楽的なテーマの中には、他のアジア系のミュージシャンと同じように、移民としてのディアスポラも混在している。移民としてロンドンで人生を送る中、さまざまな考えやカルチャーの影響を受けつつも、自分なりのアイデンティティを探求していく、という意味が求められる。異郷の中で郷愁を探す、という考えは、長く海外で暮らしている方であれば、頷けるものではないかと思われる。それは街角で見つかるのだろうか? それともコミュニティ? もしくは友人関係の中で? わからないけれど、移民とは異国でホームなる在り処を探し続ける定めにあるともいえる。
エヴァ・リューがロンドンで感じたさまざまな文化性や空気感は、ときには怪物のように恐ろしく、それとは対象的に温かな聖母のような優しさがあり、その両局面の文化性を咀嚼するたび不可解なものにならざるを得ない。それは、人間としてのアイデンティティを否定するものかもしれないし、もしくは肯定するものかもしれない。あるいは、そのどちらであるかもしれない。
不確実性や偶然性が混在する世界で生き残ることが、『nothing or something to die forー死にものぐるいで』には示されているのではないでしょうか? セカンドアルバムにはロンドンの流行りの音楽が凝縮されている。それらがエヴァ・リューが知りうる形で昇華され、Miss Grit、lei e、Pickle Darlingといった同じような境遇にあるミュージシャン/コラボレーターと一緒に何かを探し続ける。それは単にアイデンティティとも言いがたく、今生きていることのおもしろさの理由を探すのである。かつて生きることは何らかのテーゼに支えられていたが、2024年の現在はそのかぎりではない。
例えば、フランスの作家パトリック・モディアノは、『パリ環状通り』の序文において、ドイツの社会学者の言葉を引用し、現代社会を「父なき世界」と定義づけた。フランスの作家は、移民化が進む今日の世界において、旧社会が道標としていた道徳的観念や社会規範が薄れつつあり、もはやそれらの”父”という概念が通用しなくなり、旧時代の人々が見ていた”父”という概念が”幻想”に過ぎなかったことを予見していた。そして、エヴァ・リューのセカンドアルバムについても、父なき世界の中で生きることの楽しさを、どのように探求するのかに、ポイントが置かれているように思える。
セカンド・アルバムでは、2000年代以降、アイスランドのレイキャビクで主流だったフォークトロニカの次世代に位置づけられるエレクトロニックをもとに、エレクトロポップが展開される。音楽による世界は、mumのような童話的な世界観に縁取られているが、それらにロンドンのポップネスやネオソウル、ダンスミュージックを始めとする多角的な音楽が散りばめられている。そして、デビューアルバムには見受けられなかった新しい要素--モダンクラシック/コンテンポラリークラシックの音楽性も付加された。オーケストラのストリングスを交え、mui zyuの音楽は、二次元的な表現から三次元、それよりも高次の四次元へと接近していく。そして、「私たちが切望する道への入り口である壁の穴を、私たちはいかにして見出すのか?」という哲学的な探究心を基底に、その向こうにある何かへ手を伸ばそうとする。そして、不条理で不可解な世界に相対する眼差しがそれとは正反対に純粋なものであればあるほど、彼女の音楽が素晴らしく変貌する。それらは内省的な感覚が奥深い叙情性と合わさり、唯一無二のスペシャリティに変わるのだ。
mui zyuがボーカリストとして描くポピュラリティ、主要なメロディの中にはオルタナティヴな要素が含まれている。より具体的に言うなら、Pixiesの最初期の音楽に見いだせるようなオルタナティヴ・ロックのスケールでもある。長調のスケールを思わせたかと思えば、その次の瞬間には短調に変化して、それらが絶えず交差するかのように繰り広げられる。いわば、これらの調性の変化は、ボーカリストの感情性やその時々の考えの移ろいを反映するかのように、明るくなったかと思えば、暗くなり、ふたたび明るくなったりというように、曲のセクションごとに絶え間なく変遷してゆく。
他の複数の楽器(ストリングス、アコースティックギター、シンセ、リズム、ノイズ)にその背を支えられるようにして、絶えず変化を繰り返し、曲の中でも定着するケースはない。それらがオープニングを飾るモダンクラシックの音楽から始まり、ミステリアスな迷宮を探索するかのように続く。その中で、分かりやすく軽妙な印象を持つシンセポップの楽曲が収録されていて、多彩な音楽性の中にあって親しみやすさをもたらしている。比較的聞きやすいポップソングは「#4 donna like parasites」、「#5 the rules of what an earthing can be」「#6 please be ok」などで楽しむことが出来る。
「please be ok」
こういった中で、音楽そのものがよりダイナミックな質感を持ち、劇伴音楽のようなドラマ性に結びつくこともある。「#10 hopefulness, hopefulness」はシンガーが日頃感じる不条理性や不可解さの中に見いだせる明るい希望を意味し、それらがストリングスのレガートの旋律の上昇によってボーカリストの歌の情感が奥行きを増す。背景となるトラックメイクには、アヴァンポップ/エクスペリメンタルポップの反映も込められているかもしれないが、歌や主旋律に関してはポピュラリティを重視しているようだ。 mui zyuの歌には、現代のイギリスの音楽の中枢にある、ネオソウルやヒップホップからのフィードバックが表向きには目立たないような形で含まれている。これらのアーティストの前衛性については、アルバムの終盤に収録されている「in the dot」にも見いだすことが出来、ジャズの要素が先鋭的なアヴァンポップと結びつき、異質な音楽性が作り上げられている。イギリスの親しみやすいモダンなポップネスの狭間を漂うトリップホップの系譜にある無調に近い不安定な音階、その音楽が持つアトモスフィアは、先々週のWu-Luの音楽性と近似したものがあり、アーティストの持つ多面性を巧みに反映させている。また、ここにはシンガーソングライターのアーティスティックな才覚が内包されている。
セカンド・アルバムらしい新しい音楽的なディレクションもいくつか発揮された上で、終盤には、デビュー作から引き継がれるシュールでレトロな感覚を持つシンセポップへと舞い戻る場合もある。ただ、「#14 cool as a cucamber」を聴くとわかるように、同じような音楽の手法を選んだとしても、同じ表現形式に留まることはない。これは、米国の現代音楽の作曲家ジョン・アダムス(John Adams)が言うように、「反復は変化の一つの形態である」という言葉がピッタリ当てはまる。さらに、mui zyuはレトロなシンセポップに豪華なオーケストラストリングスを追加して、夢想的で現実感のある表現形式に昇華させる。
セカンドアルバムの約40分に及ぶ15曲は、聴けば聴くほどに新しい何かが発見できるかもしれない。シンセ・ポップ、チェンバー・ポップ、アヴァン・ポップ、ハイパーポップ、ジャズ、ネオソウル、フォークトロニカ、エレクトロニカ......。驚くべき多彩な音楽的な蓄積を基底として、エヴァ・リューは純粋な眼差しを通して、この世の中の不条理や不可解さを解き明かそうとする。
しかし、答えはすべて示されたわけではないかもしれない。すべてが解き明かされないからこそ音楽は本来の魅力を放つ。本作の最後に収録されている「#15 扮豬食老」では、Lucy Liyouの音楽を想起させる電子音楽とモダンクラシックのダイナミックな融合により、セカンドアルバムの音の世界は締めくくられる。取り分け、不思議に思うのは、比較的ボリューム感のある作品にもかかわらず、また次のアルバムを聴いてみたい、という気持ちを沸き起こらせる。少なくとも、デビューアルバムよりミュージシャンの表現性の多彩さが示され、磨きが掛けられ、そして、クラシック音楽からの影響が直接的にフィードバックされたことにより、音楽そのものに洗練性が加わっています。つまりそのことが本作の魅力を倍加させている理由なのかもしれませんね?
88/100
Best Track- 「Hopefulness,Hopefulness」