1974年のニューウェイブの出発  Television のエレクトラとの契約 『Marquee Moon』の時代

 


 

1974年はニューヨークでニューウェイブが始まった年である。すでにマクシズ・カンサス・シティでは、ヴェルヴェット・アンダーグランドやリチャード・ヘル、トム・ヴァーラインが登場していたが、続いて、ローワー・マンハッタンのバワリーのライブハウス、CBGBからニューウェイブは発展していく。そこにはパティ・スミス、ブロンディ、テレビジョン、ラモーンズ、トーキング・ヘッズ等、のちのウェイブを牽引するグループのミュージシャンが数多く出演していた。

 

かつて、CBGBのライブハウスのオーナー、ヒリー・クリスタルは、このスペースに出演するバンドやソロアーティストのほとんどが、”自分たちをミュージシャンであると考えていない”ことを気に入っていた。そういった素人意識やプロフェッショナリティーとは対極にあるところから、ニューウェイブのムーブメントは出発している。最初に注目したのは、ニューヨークの『ヴィレッジ・ボイス』誌である。続いて、NMEやタイムズのようなメディアが、1975年にこの薄汚いライブハウスを訪れて、何か新しい波が沸き起こりつつあるのを肌で感じ取っていた。

 

1974年9月、もうひとつのニューヨークのミュージックシーンのメッカであるマクシズ・カンサス・シティでも新しいアンダーグラウンドの運動ーーニューウェイブーーが起ころうとしていた。すでに主流のメディアから支持を獲得していた最初のパンク詩人であるパティ・スミス、そしてトム・ヴァーライン、リチャード・ヘル、ビリー・フィッカ、リチャード・ロイドの四人組、テレヴィジョンがこのスペースに出演していた。フロアの一階はレストランバー、2階は客席150からなる比較的大きめな空間、そして3階はバンドの控室、つまり、楽屋になっていた。

 

狭い部屋にある鏡にむかい、リチャード・ヘルが頭にオレンジジュースをふりかけている。ビリー・フィッカーは口にスティックをくわえて廊下で逆立ち。パティ・スミスとヴァーラインは人目を憚らず、抱き合い、一分に一度はキスをしている。空調は効いていない。そして、むさ苦しく、法治の及ばない場所で、最初のパンク/ニューウェイブの動きが始まろうとしていた。

 

当時、マクシズ・カンサス・シティに出演することは、ロサンゼルスのトルバドールにレギュラー出演することと同意義で、ニューヨークのバンドとして認められることを意味していた。テレヴィジョンのトム・ミラーはその頃、アンリ・ミショー、ヴェルレーヌ、ランボーを愛読していた。このエピソードは彼らが登場したのは裏町だが、必ずしも、裏町の出身ではないことを明かし立てている。


パティ・スミスは、その頃、すでにニューヨークのストリート・パンクの女王として名を馳せていた。ただ、一方、それ以外のテレヴィジョンやラモーンズをはじめとするCBGBのレギュラー・メンバーの方は、メディアの評判は芳しくなかった。唯一、ロイドとコネクションがあった『ヴィレッジ・ボイス』誌のみが、明らかに先走ったキャッチ・コピー「この四人組----、泣かせてくれるぜ」を広告として掲載したに過ぎなかった。デボラ・ハリーを擁するブロンディに至っては、「ギタリストに誰かマイクに向けて歌えとおしえてやれ」と言われるような始末だった。

 

しかし、その中で、唯一、一発で覚えられるシンプルなバンド名を冠するテレヴィジョンにレコーディングの噂が持ち上がっていた。現在のように、録音が気楽に行える時代ではなくて、レコード会社とのライセンス契約、そしてレコード幹部やプロデューサーに気に入られなければレコーディングをすることは一般的ではなかった時代である。そしてテレビジョンというシンプルなバンド名が一般的な興味をそそる要因となったことは想像に難くない。彼らはジョークを効かせ、トム・ヴァーラインの頭文字を取り「TV」を名乗りはじめた。「アメリカのどの家庭にもあるものだ。でしゃばりな機械だけど、ときにとても謙虚でもある」すでにヴィレッジ・ボイスとコネクションを持っていたロイドはバンド名の由来についてこう振り返っている。

 

ヴァーラインは、パティ・スミスのバックミュージシャンとして知られていた。しかし、両者の関係は音楽的なものにとどまらず、より深い関係に及んでいた。パティ・スミスは、ブルー・オイスター・カルトのアラン・ レイニヤーとの二年間の恋愛を終えた後、青い目のやや痩せぎすの青年を恋人に選ぶ。「鶴のような長い首の官能的なロックンローラー」というパティ・スミスののろけた表現は、ミラーがスミスにとって自らの分身のような存在であったことを明かし立てている。


実は、ミラー青年は、当初、パティ・スミスのレコーディングで演奏し、シングル「ピス・ファクトリー / ヘイ・ジョー」にギターで参加している。(このシングルは、1974年に自費出版でリリースされ、1000枚の限定のプレスだった。)


すなわち、ヴァーラインは、スタジオ・ミュージシャンのようなカタチで、ニューヨークの音楽シーンで知られる存在であった。天才パンク詩人と気鋭のギタリストというカップルの組み合わせは、ニューヨークのロックシーンの新星、言い換えれば、名物のような存在として知られることに。また、後にアリスタ・レコードから発売される『Horses』にもトム・ヴァーラインはギターで参加している。そればかりか、トムはこのレコードで作曲も行っている。いわば、パティ・スミスの音楽的な成果の一部は、とりも直さず、ヴァーラインの貢献が含まれている。

 

ゴシップ誌のような宣伝文句と思われた『ヴィレッジ・ボイス』誌のテレヴィジョンの提灯記事が、その翌年にほぼ現実のものになると誰が想像したのか?  1975年にかけてCBGBは、音楽フェスティバルのようなカタチで長期的なイベントを開催して注目を集め、複数のメディアがCBGBでテレヴィジョンのプレイを目撃することになった。最初に目をつけたのがNME(ニュー・ミュージック・エクスプレス)で、その次が1980年代のイギリスの音楽シーンに重要な影響を及ぼした『Melody Maker(メロディー・メイカー)』誌だった。その後に続いて、『Times』のような大規模のメディアがCBGBの現地取材に訪れ、最初のパンクシーンを目撃している。


そういったメディア業界の動きは、最終的に大手レコード会社を関心を与える契機をもたらし、ウェイブの筆頭格であったテレヴィジョンに注目が集まるようになる。アトランティック、アリスタ、ワーナー、アイランドといった現在でも影響力を持つ大手レーベルの一群が、トム・ヴァーラインのギター、そしてテレヴィジョンの音楽に注目し始めたのである。上記のレーベルの勧めで、テレヴィジョンは何度もテスト・レコーディングを行ったが、それから最初のリリースが決定したのは、およそ二年後のこと。それは、レコード会社が要因だったのではなく、テレヴィジョンが自らの特殊性やスペシャリティーを活かそうとしたからであった。つまり、どのレーベルであれば、自分たちの音楽性を尊重してくれるかを判断していたのだろう。

 

その二年の間に、同じくCBGBのライブハウスのオーナー、ヒリー・クリスタルが最も気に入っていたラモーンズがニューヨークアンダーグランドのバンドとして最初にSireからのリリースにこぎ着けた。その傍ら、テレヴィジョンは、辛抱強くテスト・レコーディングを重ねながら、あるレーベルとの契約を目論んでいた。それがElektra(エレクトラ) であり、当時、レーベルはドアーズのレコードをリリースしていた。最終的には、レーベル側との話し合いは上首尾であった。1976年6月、テレヴィジョンはエレクトラとの契約がすでに内定したことを明かしている。

 

 

デビューアルバム『Marquee Moon』の制作のプロデュースには複数の候補が挙がっていたという。ジョン・ケイル、ジャック・ダグラス(ニューヨーク・ドールズ、チープ・トリック、エアロスミス)という意外な名前も挙がっていた。 しかし、エレクトラは、最終的には、イギリスの敏腕エンジニアであるアンディ・ジョーンズを抜擢している。アンディ・ジョーンズは、ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリン、ジャック・ブルース等のプロデュースを世に送り出した伝説的なロックのプロデューサーだ。そして、実際のレコーディングでは硬質でエッジの効いたギターサウンドが強調されている。このデビューアルバムから、「See No Evil」、タイトル曲、「Venus」といったテレヴィジョンの代表曲が誕生したことは周知の通りである。

 

かつて、Kraftwerkの共同製作者のエミール・シュルトは、「Autobahn」にそれ以後の世代の電子音楽やヒップホップのすべてが集約されていると語っていた。もちろん、Televisionの『Marquee Moon』も同程度の影響力を誇る。四人組のデビュー作には、以後、数十年のパンク、ニューウェイブ、ポスト・パンクというジャンルが凝縮され、いまだ鮮烈な輝きを放ってやまない。