Norman Winstone & Kit Downes 『Outpost of Dreams』
Label: ECM
Release: 2024年7月5日
Review
偶然のコラボレーションが生み出した夢の前哨地
82歳のベテランボーカリスト、ノーマン・ウィンストンは、BBCジャズ・アワード、マーキュリー賞にもノミネート経験があるイギリス/ノリッジ出身の演奏家のキット・ダウンズをコラボレーターに迎え、『Outpost of Dreams』に制作に取り組んだ。このデュオは偶然の結果により実現したという。
当初、ウィンストンはニッキー・アイルズをピアニストとして起用する予定だったが、ロンドンでのギグを予定していたのでスケジュールが合わなかった。しかし、意外な形で実現したコラボレーションで、両者は驚くほど息のとれた合奏を披露している。
『Outpost of Dreams』はタイトルも素敵である。「夢の前哨地」には2つの解釈がある。夢に入る前の微睡んだような瞬間の心地よさ。それから現実的には夢が実現する直前のことを意味している。音楽もそれに準じて、夢見心地のぼんやりとした抽象的なシーンが刻印されている。キット・ダウンズが新しく書き下ろした楽曲のほか、ECMの録音でお馴染みのジャズ・プレイヤー、ジョン・テイラー、ラルフ・ターナー、カーラ・ブレイの作曲にヴォカリーズとしての新しい解釈を付け加える。他にもスタンダードのナンバー、「Black In Colour」、「Rowing Home」がある。2023年、キット・ダウンズは、ピアノによるソロアルバム『A Short Diary』をリリースした。このアルバムは、上品さと静謐な印象を併せ持つジャズ・ピアノの名品集だった。
その流れを汲み、キット・ダウンズは今作で、ジャズ・ボーカルの大御所ノーマン・ウィンストンのボーカルのテイストを静かに引き立てるような役割を担っている。
ウィンストンは、定番のボカリーズのスタイルに加えて、スキャットの歌唱法を披露している。そのボーカルは、メロウであるとともに伸びやかで、デビュー当時の歌手のように溌剌とした印象を与える。キット・ダウンズの伴奏の美しさに釣り込まれるようにして、ウィンストンは自身の歌の潜在的な能力を引き出し、クラシックとモダンのジャズ・ボーカルの影響を込めながら、アルバムを単なるボーカル作品にとどまらず、アーティスティックな水準へと引き上げている。ウィンストンのボーカルは、ヘレン・メリルのようにアンニュイであったかと思えば、それとは対象的に、エタ・ジェイムズ、アーネスティン・アンダーソンのような生命力を作り出す。もちろん、その歌声にはスキャットの遊び心が添えられ、安らいだ感覚を生み出す。
このアルバムは、現実的な感覚から距離を置いた夢見心地の音楽が繰り広げられる。「El」はキット・ダウンズが赤ん坊の子供のために作曲した。ノーマン・ウィンストンは気品のあるダウンズのジャズ・ピアノに子守唄のような優しい印象を及ぼす。ダウンズは、ウィンストンのヴォーカリーズの歌唱法に合わせて、色彩的な和音やボーカルの合間に、ブゾーニやJSバッハの原典版にあるような装飾音をつけくわえ、ウィンストンのアンニュイな雰囲気を引き立てる。
音符がふと途絶えた瞬間、向こうから静けさが立ち上がる。ボーカルにしてもピアノにしても、次にやってくる静寂を待ち望むかのように、主旋律、対旋律、和音、付属的な装飾音が演奏される。両者の合奏は現実的な感覚から遠ざかり、シュールレアリスティックな雰囲気を生み出す。
「Fly The Wind」は、マッコイ・タイナーも同じタイトルの曲を書いているが、これはマンチェスターのジャズ・ピアニスト、ジョン・テイラーが別名義であるWynch Hazelとして1978年に録音したものである。2015年に亡くなったジョンへの献身と敬意が示されていて、ジャズ・ボーカルのスタンダードな歌唱法をウィンストンは受け継ぎ、クラシカルな雰囲気を生み出している。もちろん古典の範疇にとどまることなく、ダウンズのピアノが現代的な印象を添える。
注目すべきは、続く「Jesus Maria」で、この曲はカーラ・ブレイのボカリーズの再構成である。ダウンズのムードたっぷりの流麗な演奏は、穏やかで落ち着いた雰囲気を生み出し、ノーマンが歌う主旋律に美しく上品な装飾を付け加えている。曲はポルカのようなリズムを活かしながら進み、やがてピアソラのアルゼンチンタンゴの気風を反映した熱情的な雰囲気に縁取られる。
レコーディングに取り組む以前、「近い将来、再び一緒に崖から飛びおりるのが待ちきれない」とユニークに話していたダウンズの刺激的な精神と冒険心が、カーラ・ブレイのボカリーズの再構成に意義深さを与える。さらに、ウィンストンのボーカルは陶然とした旋律のラインを描き、無調の冒険心とアバンギャルドな気風を添えている。しかし、古典的なジャズの上品さは一貫して失われることはなく、両者の合奏は、うっとりした美しいムードに縁取られている。
「Beneath An Evening Sky」は、ECM Recordsに所属するジャズ・ギタリスト、ラルフ・タウナーの作曲の再構成である。
タウナーのギターの作曲は無調によるものが多く、難解である場合があるが、ノーマンとキットの合奏は、この曲に親しみやすさとメロウな雰囲気をもたらしている。ウィンストンのボーカルはやはりスタンダードなジャズの系譜にあり、ダウンズのピアノのアルペジオが時々刺激的なニュアンスを付与する。しかし、セリエルの技法は、曲の雰囲気やムードを損ねることはなく、ウィンストンのスタンダードなジャズボーカルに上品さと洗練された質感を加えている。
このアルバムにはジャズのスタンダードやモダンジャズからの影響と合わせて、古典的なフォーク・ミュージックからのフィードバックも感じられる。「Out of the Dancing Sea」はスタンダードのナンバーをジャズとして解釈した一曲。ダウンズは、「スコットランドの画家、ジョーン・アードリーのペインティングからインスピレーションを受けることがあった」と述べている。
画家のアードリーは、海を見ながら、自宅の庭から同じシーンを描いていた。まったく同じ景色であるにもかかわらず、光の具合、時間帯、そして気分、天気といった外的な環境により、同じ風景がまったく異なる様子に描かれる。
キット・ダウンズは、それらの得難い不思議な出来事を踏まえ、ウィンストンのクワイアのように清冽な歌にバリエーションを付与する。ボーカルに合わさるダウンズの繊細なピアノの音列が同じ旋律の進行を持つボーカルに異なる印象を添える。つまり、同じ音階進行のフレーズであるにもかかわらず、ダウンズのピアノの演奏が入ると、まったく違うニュアンスを及ぼすのだ。
それらの物語的な要素は、「ジェームズ・ロバートソンの短編小説にインスピレーションをうけた」とダウンズ。それを踏まえると、音楽そのものがおのずとストーリー性を持つように思えてくる。
続く「The Steppe」では、前の曲のモチーフを受け継ぎ、それらが次の展開を形作るバリエーションの一貫として繰り広げられていくように感じられる。これは、音楽の世界がひとつの曲ごとに閉じてしまうのではなく、曲を連続して聴くと、その世界がしだいに開けていくような、明るい印象を聞き手に与える。同じように、旧来、Anat Fortが2000年代にレコーディングで探求していたエスニックジャズの性質を巧緻に受け継ぎつつ、ダウンズはヘレン・メリルの系譜にあるアンニュイなウィンストンの伸びやかなボカリーズにさりげない印象の変化を及ぼしている。
同曲において、ウィンストンは、消え入るようなアルトの音域のウィスパーから、それとは対象的なソプラノの音域にある伸びやかなビブラートに至るまで、幅広い音域を行き来し、圧巻のボーカルを披露している。前曲に続き、夢という歌詞が再登場し、それらが物語的な流れを形作っている事がわかる。ここには、ノーマン・ウィンストンが語るように、「音楽そのものに偏在する言葉を読み取る」という彼女のボカリーズの流儀のような概念も伺い知ることができよう。
このアルバムでは、ジャズのスタンダードから、ECMらしいモダンジャズの手法に至るまで、様々な音楽が体現されているが、「Noctune」ではアヴァン・ジャズの性質が色濃く立ち現れる。
キット・ダウンズのインプロヴァイゼーションの要素が強いピアノの伴奏に合わせて歌われるウィンストンのボーカルも、ボカリーズの真髄に位置する。特に、ウィンストンの無調に近いソプラノのボーカルが最高の音域に達した後、それとは対象的に、ダウンズのピアノが最も低い音域の迫力ある音響を生み出す瞬間は圧倒的といえる。2つの別の演奏者、なおかつ、全く別の楽器と声の持つ特性が合わさり、一つの音楽の流動体となるような神秘的な瞬間を味わえる。
今作は再構成とオリジナルを元に構成されるが、アルバムの終盤に至ってもなお野心的な気風を維持しているのが驚き。
「Black In The Colour」は、バッハの「Invention」のような感じで始まり、その後、ウィンストンの歌により古典的なジャズ・ボーカルの世界へと踏み入れていき、ヘレン・メリルの代名詞''ニューヨークのため息''のような円熟味のあるヴォカリーズの綿密な世界観を構築していく。ジャズ・スタンダードを元にした再構成は、物憂げな印象を携えながら次曲への呼び水となる。
ウィンストンとダウンズによる奇跡的なデュオの精華は、前衛的なジャズの気風に縁取られた「In Search Of Sleep」により完成を迎える。ダウンズのピアノのパッセージとウィンストンのスポークンワードは、彼らの音楽表現が古典的な領域にとどまらぬことの証であると共に、デュオの遊び心と冒険心がはっきりと立ち現れた瞬間でもあろう。
同曲は、モダンジャズという文脈を演劇のように見立てており、新鮮な雰囲気に満ち溢れている。最終曲「Rowing Home」は悲しみもあるが、憂いの向こうから清廉な印象が立ち上ってくる。その印象を形作るのが、キット・ダウンズの見事なジャズ・ピアノのパッセージ。ここには、意外な形で実現したウィンストン/ダウンズの合奏の真骨頂を垣間見ることができるはずだ。
94/100