【Weekly Music Feature】Joep Beving & Maarten -オランダの鬼才による耽美主義のモダンクラシカル『visions of contentment』-

Weekly Music Feature:  Joep Beving(ユップ・ベヴィン)& Maarten Vos(マーテン・ボス)


Joep Beving & Maarten Vos

 

 

ピアニストのユップ・ベヴィンとチェリストのマーテン・ボスは、2019年の『Henosis』以来二度目のコラボレーションを実現させる。最初の共同作業は2人の音楽家が2018年にアムステルダムのライブで共演した後に実現しました。


新作アルバム『vision of contentment』は、マーテン・ボスもスタジオを構えるドイツの東西分裂時代の遺構で、第二次世界大戦まで旧ドイツの国営放送局であったベルリンのファンクハウス複合施設にあるLEITERスタジオでニルス・フラームがミックスした。

 

現在、ベルリン・ファンクハウスは、観光施設となっており、内部にはレコーディングスタジオとコンサートホールが完備されている。エイフェックス・ツインがイベント行ったり、あるいはニルス・フラームをはじめ、実験音楽をメインフィールドとする音楽家が録音を行ったり、オーケストラのコンサートが行われることもある。旧ドイツ時代の施設の名残りがあり、ロシアのビザンチン建築を継承した踊り場の階段のデザイン、1940年代の奇妙な機械設備が残されています。

 

ベヴィンは、これまで他のアーティストとアルバム全体をレコーディングしたことはありませんでしたが、ヴォスは定期的にそのような活動をしており、ジュリアナ・バーウィック、ニコラス・ゴダン(AIR)、アレックス・スモークといったアーティストとクレジットを共有しています。

 

「時折、音楽的なつながりを共有するアーティストに出くわすと、お互いにコラボレーションをしたいと思うようになる」とマーテン・ボスは説明します。


「異なる創造的アプローチを探求し、彼らのワークフローから学ぶことは刺激的で、私の成長に大きく貢献している」


もちろん、ユップ・ベヴィンにとって、それは当然のステップであり、遅きに失したと言っても過言ではありませんでした。「共同プロジェクトとしてゼロからアルバムを作ることは、マールテンと私が以前からやってみたかったことだった」


「私の契約(ドイツ・グラモフォンとのライセンスのこと)が終了したとき、私たちは音楽を作り始める機会を得た。私はいつも、リスナーが一時的に住めるような小さな世界を作ろうとしている。マーテンとニルスと一緒に仕事をすることは、これを達成するのに非常に役立っている。マーテンは音の彫刻家であり、ニルスはその...音の達人なんだ!」


ベヴィンとボスは、オランダのユトレヒト州にある小さな村、ビルトホーフェン郊外の森の中にひっそりと小屋”デ・ベレンパン”でアップライトピアノと一緒に過ごすため、レコーディング機材、様々なシンセ、チェロなどの荷物を解いた後、2023年7月に『vision of contentment』の大半を書き、レコーディングしました。


この友人たちは、ベヴィンのアムステルダムのスタジオとボスのファンクハウスですでに一緒に時間を過ごしており、そこからさらに2曲のアルバム・トラック作り出された。

 

時におびただしい数の作業から、ピアニストが言うところの「避けられないことを受け入れることに安らぎを見出す」という普遍的な賛辞が生まれました。

 

しかし、このアルバムはそれ以上のものを表現している。それは、彼らの友人であり、ベヴィンの場合はマネージャーであったマーク・ブルーネンへの驚愕すべき個人的トリビュートでもある。


ボスは「vision of contentment」の心に響くサウンドを「想像力豊かな探求を促す音の風景」であると考えており、デュオは「音楽的ガイド」としてモートン・フェルドマンを、そして「メンター」として、坂本龍一とアルヴァ・ノトを挙げています。一方、ベヴィンは、リスナーにシンプルな愛の感覚を残すつもりであると語り、「調和と理解の探求」を可能にし、「ファシストと恐怖に大いなるファック・ユー!!」を届けてくれるであろうことを願っていると付け加えています。


確かに、このアルバムは、私たちの住まう生の世界であれ、反対にある死の世界であれ、平穏という複数のアイデアに根ざしている。ベヴィン曰く、「嵐の後の朝、潮の満ち引きの評価、過ぎ去ったことの受け入れ、そして、新しい日の夜明け、新しい人生を意味している」という。


これらの繊細なブックエンドの間には、亡霊のような無調の「Penumbra」、くぐもったノスタルジックな「A night in Reno」、不定形で不穏な「Hades」など、半ダース(6曲)のトラックが収録されている。


一方、「The heron」の哀愁を帯びたチェロは、ほとんどありえないほど豪華なピアノの旋律に引き立てられるのみで、部屋の中にいる得体の知れないノイズのようなものによってすぐに明るくなる。さらに、「02:07」は、よく生きた人生がより良い場所へと旅立っていく瞬間を表し、タイトル曲の広々とした静かで壮大な9分間は、不在そのものを祝福しているかのようです。


ベヴィンとボスがビルトホーフェンにほど近い森の小屋に落ち着いた頃には、べヴィンのマネージャーで旧友のブルーネンは3年間がんと闘っている最中でした。しかし、彼の死が間近に迫っていたため、制作の進行に影を落としていたとしても、それは悲しみだけが要因ではなかった。「ここでの中心テーマは "ブルー・アワー"、黄昏時だったのです」とベヴィンは説明します。


「それはつまり、ある状態から別の状態への移行、そして暗さを受け入れること。友人のマークは自分の病気と差し迫った最期に対して驚くべき対処法を示していました。彼は自分の運命と平穏に過ごしていました」



『visions of contentment』 Leiter      


オランダの鬼才 ユップ・ベヴィン、マーテン・ボスによる耽美主義のクラシカル

 


オランダのピアニスト、ユップ・べヴィンは、現代のコンテンポラリー・クラシックを語る上では欠かすことが出来ない音楽家でしょう。べヴィンのピアノ曲は、Olafur Arnoldsの系譜にある”叙情的なミニマルミュージック”の系譜にあるものとなっていますが、彼の音楽的な興味は、ロマン派や、それ以降のジャズとの架け橋を形作ったフランスの近代和声に向けられています。

 

べヴィンのピアノ曲の基礎にはショパンのロマン派に対する親しみが込められ、それはポーランドの作曲家の「ノクターン」に近い。それに加え、音楽家のエスプリ(日本語でいう”粋”という概念)を求めるとするなら、エリック・サティのような無調に属する和音と、旧来の和声法の常識を覆すような前衛的な和音法の確立にある。これは、基音の11度、13度、15度といった、ジャズの和音の基本となったのは言うまでもありません。これらの7度以降の和音構造にラヴェルやドビュッシーが興味を抱いたのは、それらの和音が涼し気な印象を及ぼし、旧来のドイツ発祥の厳格な和声法を完全に払拭するものであったからなのです。

 

より端的に言えば、ユップ・べヴィンという作曲家が傑出しているのは、これらの前衛的な和声法と旧来のクラシックのロマン派の夜想曲のような神秘的な雰囲気を持つ楽曲構造を組み合わせているからでもある。

 

今回、ベヴィンのアルバムに新たに共同制作者として参加したマーテン・ボスは、チェロ奏者でありながら、アナログシンセサイザー奏者でもある。このコラボレーションは、チェロとピアノの合奏にとどまらず、シンセサイザーとピアノの融合が主眼となっている。それに加えて、ニルス・フラームが、ベルリン・ファンクハウスのスタジオで最終的なミックスを行っています。


聞けば分かる通り、この作品の制作に携わったニルス・フラームは音響効果をてきめんに施しており、単なる合奏曲ではなく、エレクトロニックやダブステップのような先鋭的なサウンドワークの意味を持つ作風として仕上げられています。全体的な録音の割合で言えば、べヴィンとボスが7、8割、フラームが2、3割くらい関与する内容となっている。もしかすると、1割ほどその割合は前後するかも知れない。つまり、このアルバムは、ユニットやデュオの作品とは言いづらい。むしろ、Leiter(ライター)主導の”トリオの作品”として聴くこともできるようなアルバムになっています。

 

 

ジブリ音楽を手掛けた日本の作曲家、池辺晋一郎氏は、音楽を制作する上で欠かさざるものが2つあると仰っていました。それは作曲の技法の一貫である「メチエ」、つまり、音楽的な蓄積や技法。もう一つが「イデア」であるという。それらはモチーフとか、ライトモチーフという形で作品に取り入れられ、最初に始まった音楽の動機を動かしたり、別の大きな楽節を繋げたり、より大きな枠組みで言えば、幾つかの章やセクションを繋げるような働きをなしています。

 

いわば制作者の頭の中に描かれた構想や着想が、音楽的な設計やデザインと組み合わされることにより、良質な作品が作り出される場合が多いのです。これらは何も、純正音楽だけに限った話ではないように思えます。たとえば、優れたエレクトロニック、優れたロック、優れたポピュラーというのは、イデアとメチエがぴったりと合わさるようにして生み出される。そのどちらかが優勢になっても、均衡の取れた作品にはならない時がある。加えて、現代の指揮者やエンジニアのような役割を担うのがレーベルの仕事であり、そして、プロデューサーの役割でもある。レーベルならば、そのレコード会社らしい音質や録音、一方、プロデューサーならば、そのエンジニアらしいマスタリング。こういった複合的な要素から、現代のレコーディングは成立しており、一人だけの力でそれらが完成することは、ほとんどあり得ないかもしれません。

 

ひるがえって、「visions of contestment」に関して言えば、ユップ・べヴィンの「マネージャーの死」というのが制作過程で一つのイデアとして組み込まれることになりました。それがすべてではないのかもしれませんが、人間の避けられぬ運命、目をそむけてしまうような暗さ、そして、それを肯定的に捉えること……。


これらのピアノ曲とチェロの演奏に、瞑想的な気風が含まれているとすれば、べヴィンにせよ、ボスにせよ、そういった考えを十分に汲み取り、暗さから目を背けず、安らかなものとして受け入れるという「治癒」が内包されているがゆえなのです。さらに言えば、今作はオランダの森の中で制作されたことによる中世的な雰囲気と、ベルリン・ファンクハウスの旧ドイツの機械産業を象徴づける近代的な気風が掛け合わされ、クラシックとエレクトロニックが融合した画期的なアルバムとして音楽ファンの記憶に残るかもしれません。

 

実際、レコーディングの過程で制作された楽曲が時系列順に収録されることは多くはないものの、アルバムは何らかの音楽的な流れーーMovement(ムーヴメント)ーーを形成しているのは事実のようです。それは、物語のようなフィクションではなく、現実にある時間の流れ、ある人の一生や、それに纏わる人々の複雑な感情の流れを、主な演奏家で制作者でもあるユップ・ベヴィンとマーテン・ボスがピアノやシンセ、チェロにより的確に捉え、そしてプロデューサーやエンジニアとして、時おり作曲家に近い形で関わるニルス・フラームという3つの人間関係を中心に構築されている。彼等のうち一人が音楽的な主役になったり、脇役に扮したり、それとは対象的に、舞台袖に控える黒子のような「影の人物」を演ずる場合がある。つまり、このアルバムでは、ほとんど''中心的な人物''というのを挙げることは無理難題のようにも思えるのです。

 

これは音楽という枠組みの内側で繰り広げられる劇伴音楽のようでもある。架空のものでありながら、真実であり、真実でありながら、架空でもある。そして、その演劇的な音楽の向こうから、第四の人物である"マーク・ブルーネン"という、ほとんどのリスナーが見知らぬ人物が登場する。しかし、そういったリヒャルト・ワーグナーの主要な歌劇のライトモチーフのような動きは、飽くまで「暗示」の範疇に留められている。つまり、音楽の基底にレクイエムのようなモチーフが立ち上ってきても、音楽的な立脚点に固執することなく、楽曲ごとに、ないしは曲の中のセクションごとに、そのモチーフが”黄昏時のように”ゆっくりと移ろい変わっていくのです。

 

どのような人生においても、一方方向で進む生き方が存在しえないように、このアルバムの音楽はストレートではなく、時おり曲がりくねったりすることがある。それらは、実際的に音楽的なモチーフやフレーズの中で示される場合もあるものの、特にサンプリングやシンセサイザー、ミックスの音響効果の側面(アンビエンスを活用したエフェクト)で顕著な形で出現する場合がある。

 

冒頭を飾る「on what must be」は前奏曲、つまり、インタリュードのような意味を持っています。ホーンセクションを模したシンセで始まり、葬送曲のように演奏された後、ベヴィンのショパンのノクターンのような曲風を踏襲したアコースティックピアノの演奏がはじまります。悲しみに充ちた演奏は、音楽の背景となる風の音のようなアンビエントのシークエンスによって強化され、音楽の雰囲気が作り出される。ユップ・べヴィンの作品の中で、これほど前衛的な試みが行われたことは、私の知るかぎりでは、それほど多くはなかったかもしれません。


続く「Penumbra」はシンプルに言えば、ベートーヴェンの「Moonlight」のミニマルミュージックとしての構造、そして音楽における雰囲気を受け継いで、ショパンのノクターンのような叙情的な気風溢れるピアノ曲として昇華しています。しかし、この曲は月の光に照らし出されるかのような神秘的な瞬間を収めていますが、それとは異なる亡霊的な雰囲気が微かに捉えられる。

 

これは、最終的なミックスを手掛けたニルス・フラームの貢献であるかも知れませんし、もしくは、サティの系譜にある古典的な和声法とは異なるベヴィンの不安定な和音の構造に要因が求められるかも知れません。そして私たちがふだん見ることのかなわない生と死の狭間--アストラルの領域--を彷徨うかのように、曲はミステリアスな雰囲気を漂わせ、ときおり、マーテン・ボスのチェロの微細なトレモロと淡麗なレガートの演奏を交えながら、奇妙なイメージを形づくる。

 

「A night in Reno」は、シンセサイザーによって時計の針の動きような緊張感のあるリズムを作り出し、サティの系譜にあるベヴィンのミニマリズムのピアノが続く。迫りくる友人の死をビートやピアノの旋律でかたどるかのように、悲しみや暗さに充ちたイメージを作り上げ、亡霊のようなイメージで縁取る。その後、チェロかギターが加わる。アウトロでは、ジョン・ケージの最初期の名曲「In a Landscape」に見受けられるような、ピアノの低音部とともに何かが消滅するようなSEの音響効果が登場し、いよいよ描写音楽としての迫力味を増していきます。



「Hades」-  Best Track

 



それに続く「Hades」は、この世とあの世の間をさまようかのような奇妙な印象を擁するピアノ曲で、オリヴィエ・メシアンや、坂本龍一、アルヴァ・ノトとのコラボレーションの系譜に位置づけられる。もちろん、前衛的なエレクトロニックとしても聴くこともできるでしょう。ニルス・フラームの代表曲「All Armed」で使用されたような前衛的なモジュラーシンセで始まり、その後、協和音と不協和音の双方を活かしたべヴィンのピアノの演奏、プリペイド・ピアノの要素を交えたモダン・クラシックとエレクトロニックの中間点に位置するような楽曲です。

 

 

アルバムの中盤では「The heron」が強い印象を擁する。曲のイントロには、足音が遠ざかるサンプリングが取り入れられている。つまり、友人が死にゆくというメタファー(暗喩)が込められ、モートン・フェルドマンがテキサスの礼拝堂のために制作した代表的な作品『Rothko Chapel』に見いだせるようなマーテン・ボスのチェロの主旋律の演奏で始まり、その後、ユップ・べヴィンによるエリック・サティの系譜に位置づけられる物悲しいピアノの演奏が続いています。 



これらは、べヴィンの音楽の核心にある簡潔性とロマン派の系譜にあるエモーションや憧れ、そして夢想を体現している。彼はまた従来の作品と同じように、それらを悲哀を込めて情感たっぷりに演奏しています。

 

「02:07」は、先行シングルとして公開され、前の曲の悲しみやペーソスといったイメージとは対極にある、やや明るい印象に縁取られている。友人の死の時刻がタイトルになっていますが、友人の死を悲しみではなく、明るく送り出すような意図が込められているのかもしれません。そして同時に、この曲には制作者の友人への追憶が含まれているという気がする。それは実際的に深みのある情感を聞き手にもたらす。曲の最後は次のタイトル曲の伏線となっています。

 

タイトル曲は、ブライアン・イーノの系譜にあるアンビエント風の一曲で、移ろい変わる魂の変遷のような神秘的な瞬間が体現されている。実際的には、アルバムの序盤から中盤で描き出された暗さや闇といった概念から、その対極にある明るさと光のような瞬間が切り取られています。そして全体的には霊的な瞬間をエレクトロニックから解釈したような作風になっている。

 

アルバムのクローズ「The boat」では、「Hades」におけるシンセのパルス音が再登場し、今作の中では最も神秘的な瞬間がエレクトロニックによって体現されている。アルバムの最後では端的なピアノ曲がロマンチックな雰囲気を帯びる。簡素なミニマルミュージックの系譜にあるささやかなピアノ曲は、ニルス・フラームのプロデュースにより美麗な印象が付与されています。


本作には、不世出の偉大な音楽家、モートン・フェルドマン、坂本龍一、アルヴァ・ノトに対するオマージュやリスペクトが示されているため、音楽の基底にそれらを探し求めるという醍醐味も見出せるかも知れません。また、友人の死の時刻をタイトルに据えたのは、坂本龍一さんの遺作『12』への敬意が含まれているからなのでしょうか。厳粛さと前衛性の融合が図られた一作。反復の構造が多いため、すぐ飽きるかと思いきや、底知れぬ魅力を湛えた耽美的なアルバム。

 

 

 

「02:07」 -Best Track

 


 


86/100



 

Joep Beving & Maarten Vosの新作アルバム『vision of contentment』はLeiterから本日発売されました。ストリーミング等はこちらから。