【インタビュー】 高木正勝 ~音楽や鍵盤楽器との出会い、アメリカの売り込み時代 ライフワーク、最新映画「違国日記」までを解き明かす~
高木正勝 ご自宅にて お子さんと(アーティスト提供) |
◾️高木正勝さんの音楽を初めて聴いたのは、2013年に発表された「Sail」。本作はレイ・ハラカミの「lust」と並び、日本の不朽のエレクトロニックの名盤。双方共に京都にゆかりがあるのは、単なる偶然というわけには行かないでしょう。日本的な文化の中枢が残っているのか、それを音楽に反映する術を心得ているのか。少なくとも本作は、今でも、日本のエレクトロニックの最低水準を判断するときの欠かせないアイテムとなっている。実は、今では映画音楽の世界で活躍する高木正勝さんは新進気鋭の電子音楽家として、米国のレーベル、Carparkからキャリアを出発させたことは付記しておくべきでしょう。
その後、高木正勝さんは、ピアノ、メディエーション、ミニマルミュージックとボーカルを融合させた「Tai Rei Tei Rio」を発表後、映画音楽やドラマ音楽の世界に入っていった。言わば、映像効果のための音楽、また、ストーリーやシナリオを強化するための音楽にシフトチェンジしていく。これは、彼の音楽がもともと何らかの文学性や物語性が込められていたことを表す。そして、その中には映像を伴わずに聞いても聴き入らせる作品もきわめて多い。
以降の活躍は皆さんもご存知の通りで、『おおかみこどもの雨と雪』『バケモノの子』の映画音楽、そして、最近では、NHK連続テレビ小説『おかえりモネ』のドラマ音楽も手がけている。また、仕事の合間を縫うようにして、小さな山村にある自宅の窓を開け自然を招き入れたピアノ曲集『マージナリア』を発表し続けている。いずれの作品でも、高木正勝さんのピアノには、自然や生き物と深く共鳴するかのように、柔らかさと凛とした響きが含まれており、そしてその音楽は必ずと言っていいほど情景的な感覚、サウンドスケープを呼び起こす。
今回のインタビューでは、音楽との出会いから、ミュージシャンとしてのバックグラウンド、デビューのきっかけ、最新映画「違国日記」をどのように楽しむべきか、実際の制作者としての貴重なご意見をいただくことができました。
Music Tribuneは、日本、海外を問わず、制作者の実際的な考えや意見を何らかの形でストレートに反映し、10年後も楽しめるアーカイブシリーズのような形として残しておきたいと思っています。何かしら下記のエピソードの中から、音楽制作者、もちろん高木正勝さんのファンに至るまで、興味深いエピソードが紹介出来れば非常に光栄です。
ーーまずは、高木さんの音楽との出会い、また、夢中になったきっかけについて教えてください。
高木正勝: 心を掴まれたのはファミコンの音楽だと思います。はじめてカセットテープを買ったのが『ドラゴンクエストIII』のサントラでした。9歳の頃です。ファミコンの音はピコピコしたシンセの音でしたが、サントラにはオーケストラのアレンジで収録されていて、とても驚きました。小さな楽譜も付いていて、リコーダーやピアノで奏でようと思えば奏でられるんだというのは衝撃でした。ファミコンの音はファミコンの音だと思っていたので、まさかピアノと結びつくとは考えもしなったので。また、音楽には、必ず作者がいることも、この時期に意識し始めました。いい音楽が流れる度に悔しいと思っていました。自分も作りたいと本気で思っていました。
その後、10歳の頃に遊んだ『MOTHER』はCMで流れた音楽ですでに感動して、自宅にあった電子ピアノで音を探って自分なりに演奏していました。はじめて弾けるようになったのは『MOTHER』の『Eight Melodies』という曲でした。(編注: 『MOTHER』は、エイプとパックスソフトニカが開発し任天堂より1989年7月27日に発売されたファミリーコンピュータ用ゲームソフト)
ーー正勝さんといえば、ピアノというイメージがありますが、最初に楽器を手にしたのはいつ頃でしょうか。また、その時代の思い出について聞かせていただけますか。
高木正勝: 通っていた幼稚園では鼓笛隊に力をいれていて、結構難しい曲を皆で演奏していました。発表会があり、確かミッキーマウスのマーチだったと思いますが、他の人はいろんな楽器を演奏していたのですが、僕は全然楽器が演奏できなかったため、引っ張るとピューイと変な音の鳴る笛を担当しました。小さい頃はまるで音楽が苦手でしたね。
妹がピアノを習い始めたので、自宅に電子ピアノが置いてありました。10歳の頃です。ゲームの音楽やテレビから流れてくる曲を自分で音を探って弾いて遊んでいました。中学にあがった頃に母親の勧めでピアノを習い始めました。レッスンは中高6年間ほど続けて、以降は自分なりに弾いています。
その時代、ピアノの先生が、弾き方だけでなく、作曲家がどうやって作曲したかというような話をたくさんしてくれたのもよかったです。アップライトピアノを祖母が買ってくれてピアノの練習が楽しくて、1日中、何時間も弾いていました。学校でも音楽室に行くと、グランドピアノがあるので、休み時間とかに弾いていました。中学の時に、シンセサイザーを高価でしたが買ってもらえたのが今の仕事に繋がっているように感じます。シンセサイザーがあれば、自分で音が作れて、また、作曲も出来たので、曲らしきものを毎日たくさん作ったり、誰かの曲を一つずつ音を分解して聴きながら再現したりして遊んでいました。
ーー高木さんは、大学で外国語を専攻しておられますね。具体的に、どの言語を学ばれていましたか。また、その言語に興味を持つ契機となった出来事はありましたか。
高木正勝: 大学では英語を専攻しました。英語というより、アメリカの文化について興味があったのだろうと思います。子供の頃に繰り返し観た映画は、殆どアメリカのものでしたし、ゲームの『MOTHER』もアメリカを意識した世界観でした。テレビでも『フルハウス』や『ピーナッツ(スヌーピー)』など、当時はアメリカのものがたくさん流れていて、好んで観ていました。
大学に入ったら、英会話や文化を学べる授業がたくさんあるのかと期待していたのですが、なぜ''he''や''she''の場合だけ動詞に"s"が付くのか、というような細やかな授業が多くて、自分が時間を掛けて学びたいものは他にあるんじゃないかと気づいて一年で中退してしまいました。
ただ、たった一年なんですが、ひとつの単語にはひとつのイメージしかない、という授業が印象にとても残っています。単語を英和辞典で調べると、たくさんの意味が書かれていますが、ネイティブで英語を使っている人はひとつの単語にひとつのイメージを持っているだけで、そのイメージをうまく組み合わせることで伝えたいことを伝えているだけだと習い、視界が開けてシンプルにものごとを考えられるようになりました。
日本語も同じなんですが、例えば「は」というと、葉、歯、刃など、それぞれ別のものを言い表す漢字が思い浮かびますが、よくよく考えるとどれも共通するイメージがあると思います。それが「は」のイメージで、それが掴めると、「は」という音、言葉を自分なりに使えるようになる。細分化されたように思える世界を、もう一度、ありのままの姿に戻すような、豊かな捉え方で、音楽を制作する時にも役に立っています。
ーー学生時代から音楽家や芸術関係の仕事に携わることを考えていましたか。明確にミュー ジシャンとしてやっていきたいと決意した出来事などがあれば教えてください。
高木正勝: 小学生の頃が一番明確に、自分は音楽を作る人なんだと意識していました。まだ一曲も作ったこともありませんでしたし、ろくに演奏もできませんでしたが……。将来の夢を聞かれると、自然豊かな場所にぽつりと家があって、その側に小川が流れていて、お茶でも飲みながらピアノを弾いている姿がいつも頭に浮かんでいましたが、このことについては誰にも言えませんでした。いま、実はそういう暮らしをしているんですが……(笑)。
それでも、成長するにつれて、音楽を仕事にするのは無理だろうなと感じていました。ピアノ教室で音大を目指すような生徒さんたちは理解できないくらい上手でしたし、耳もよかった。それで、デザインや写真、映像に興味が移っていきました。当時、テレビや雑誌くらいしか情報源がなかったので、音楽を仕事にするというのは、何十万枚も売れるような、そういう音楽を作るしかないのだと思い込んでいました。
大学生の頃に自費出版で雑誌を作って、ラジオ局の賞をもらったりしたので、音楽よりもそっちの道に進むだろうと考えていました。その雑誌には、自分の写真やデザインを載せたり、毎回カセットテープを封入していて、大学の先輩のAOKI takamasa君の曲を入れていました。雑誌づくりを本格的に進めようとAOKI君と同居して、僕は映像を作るようになり、彼の音楽に合わせたミュージック・ビデオを2年間、毎日集中して多数制作しました。作品がたまってきて、自信がついてきた頃に、DVDのリリースの話をいただきまして、「SILICOM」という名前で活動をスタートしました。DJのパーティーに呼ばれて映像を流すVJをやらせてもらったり。なので、はじめて仕事になったのは、映像でしたね。
普通ならば、これから映像でやっていくぞ、というタイミングだったと思いますが、馴染みのないクラブという場所での活動や、誰かの音楽に映像をつけるというのがやりたかった訳ではないと、ずっとモヤモヤしたものを抱えていたので、思い切って自分でも音楽を作ってみると、あっという間にアルバム3枚分くらいの曲ができました。
何度も聴きたくなる音楽を自分で作れたことが本当に嬉しくて、音楽の仕事がしたいというよりも、これから何曲でも作りたいし、作れるというので頭が一杯でした。また、時代が味方してくれ、世界中のベッドルームで作った個人的な音楽がきちんと流通して、たくさんの人が楽しめる環境が整っていました。映像も、美術館やギャラリーで発表できたり、ずっとやりたかったことが叶う自分たちの時代が来たと実感していました。
映像も音楽と同時にいくらでも作れる感じでしたし、発表の場や機会も世界中どこにでもある雰囲気でしたので、決意というより、とても自然に自信を持って制作に没頭していました。21歳の頃です。
ーー当初、高木さんは海外のレーベルから作品をリリースしていましたね。最初のリリースは Carparkで驚いたんですが、海外のレーベルから作品を発表したのはなぜだったのでしょうか??
高木正勝: 当時、音楽をリリースすることはあまり念頭においていませんでした。自分は映像作家なんだと思っていましたので……。
現在、"ミナ ペルホネン"という服のブランドで活躍されている田中景子さんが母親同士仲がよくて。彼女がニューヨークで働き出したと聞いて、映像作品をダビングしたビデオテープを20本くらい抱えて遊びに行きました。それも21歳の頃です。ギャラリーや美術館に配って歩きました。自信だけはあったので、何処かで採用されるだろうと思っていたのですが、何も手応えもなく。いま考えると、よっぽど度胸があるとおもいます。近代美術館のような場所に行って、自分の作品を手渡ししてきたのですから。
それで、手持ちのビデオテープが最後の一本になってしまった時に、田中景子さんから、「知り合いにレコード屋さんで働いている人がいるから渡してみたら?」と言われ、音楽じゃないんだけど、としぶしぶ思いながら、一緒に音源を渡しに行きました。
それがCarpark Recordsを始めたばかりのTodd Hymanさんでした。帰国すると直ぐにメールが来て、「CDをリリースしたい」と言われて……。とても嬉しかったのですが、僕は映像作家だとその時も思っていましたので、むりやりCD-ROMに映像を入れて2枚組にして出してもらいました。その後、映像だけでなく音楽もいけるかなと思って、他の曲も大好きだったドイツのKaraoke Kalkというレーベルに送ってみると、こちらも直ぐにリリースしたいとお返事いただいて、トントン拍子で話が進みました。
ーーミュージシャンとして手応えを感じるようになったというか、仕事として繋がってくるようになった時期はいつ頃でしたか。
高木正勝: ありがたいことにマネージメントをしてくれる方が付いてくれていたので、作品の発表の機会は次々と繋がっていったのですが、ひとつひとつの作品にかける時間や労力が年々増えていったので、ずっと大変でしたね。
明確に仕事としてやっていけるのかなと感じたのは、2011年以降です。震災があり、自分の仕事のやり方を根本的に変えました。
それまではほとんど自分のために作品を作っていましたが、誰かのために作る機会がぐんと増えました。マネージメントも自分自身でするようになりまして、戸惑いはありましたが、仕事で分からないことがなくなり、すべてを把握することで、やっていけるという自信に繋がりました。
ーー現在、高木さんは、多数の映像作品や、芸術に付随する音楽など、多数の制作経験をお持ちですよね。自分でいちばん気に入っている音楽作品、あるいはまた、芸術作品を挙げるとするならどれでしょうか??
高木正勝: どれも好きなんですが、いまも取り掛かっている「Marginalia」のプロジェクトは、僕がこれまでやってきたことの集大成でもあり、また誰の評価も気にしないで、日々の記録として、自分だけのために録音しているので、よく聴いています。
ーー今、高木さんが仰ったようにメインプロジェクトと並んで、ピアノと環境音楽を結びつけた「Marginalia」を発表し続けています。現在、176もの長大なシリーズとなりましたが、この録音作品のテーマやコンセプト、そして、発表するようになったきっかけについて教えていただけますか。
高木正勝: 幾つかきっかけがあります。ひとつは、ピアノソロのアルバムが作りたいとずっと考えていました。これまで色々なアルバムを出してきましたが、ピアノのみというのは『YMENE』だけでした。
『YMENE』は2010年、はじめてのピアノ・コンサートで、自分なりのピアノがようやく弾けた手応えがありました。録音したものを整える作業をしていたのですが、その最中に震災が起こり、手が止まってしまいました。今は、こんなことをしている場合じゃないよな、と。誰かの役に立ちたいといいますか、その後は、人から頼まれた仕事を断らずに全て受けていこうという方向に切り替えました。それから、ずっと映画音楽やCM音楽、ダンスの音楽、学校の校歌など、頼まれるままに作ってきたのですが、そろそろ自分のために作りたいな、と。それで『YMENE 』の続きがやりたいなと思って、『YMENE 2』というタイトルで進めようとはじめは考えていました。
もうひとつは、同じ頃、2017年にソロモン諸島に旅行に行ったのが大きなきっかけでした。宿泊所しかないような小さな孤島に泊まったのですが、周りは海しかなくて、身も心も自然と一体になっていました。「全体性」という言葉が浮かんで、とてもしっくり来ました。身の周りの環境も含めて、ひとつ残らずあるものを全部受け止めた作品が作りたいと思って。
それで、ある夜、波の音を聞きながらとても静かに眠っていると、頭の中にドンドンという音が鳴りはじめました。周りには海しかなく、幻聴かなと思ったのですが、妻も同じように音が聞こえるというので、耳を澄ませると、20km以上離れた向こうに小さく見える島から音が聞こえてくるのがわかりました。
おそらくパーティでもやっていたのでしょう、ブンブンというベースの音も感じはじめました。それまではちゃぷちゃぷという心地よい海の音に包まれていたので、とても気分が悪かった。ドンドンという音も、夜に聴きたいリズムではなく、眠ろうとしても身体が覚醒してしまいます。その時、海の生き物たちも、こういった音を聴かされるのはさぞ迷惑だろうと思いました。考えてみれば、人が音を出す度に、人間以外の生き物たちもそれを聞いているわけです。
この出来事をきっかけにして、「彼らにとって音とはなんだろう?」と本気で考えるようになりました。家に帰ってから、窓を開けはなち、外の世界と繋がったまま、自然の音をよく聴きながら、ピアノを弾くようになりました。「Marginalia」の初期の頃は、外の音がほとんど録れていないのですが、途中から外に向けてマイクを置き、自然の音を録音するようになりました。
音源に関しては、ひと筆書きのように演奏したものを、加工や編集や手直しをせずに、そのまま直ぐにリリースするようにしています。SNSの代わりにはじめたような側面もありました。写真や文章に割く時間や労力があるなら、ピアノを録音しようと思って。その日その日の季節をそのまま録音して残すような、季節を自然と一緒に作り上げているような感覚でやっています。最初は108作でゴールかな? と考えていたのですが、続けたいだけ続けようと思っています。
ーー高木さんにとって音楽を制作する楽しみとは?? また、ご自身の音楽から何を汲み取ってもらいたいとお考えですか。
高木正勝: 聴いていただけるだけで本当に嬉しいです。何でもそうですが、何かを作るのは、自分の頭や心や魂の蓋を開けて、受け取ったものをできるだけそのまま出すような感じです。知らないことがたくさん身体に入ってきますし、忘れたと思っていた記憶が鮮明に蘇ったりします。とても豊かな時間ですね。
ーーさて、今年6月には、ヤマシタトモコさん原作の映画「違国日記」が劇場公開されました。このサウンドトラックを手掛けてみた感想はいかがでしたか? そしてまた、この作品をご覧になる方に、どんな点に注目してもらいたいですか??
高木正勝: 『違国日記』は原作が素晴らしく、できるだけ原作に沿った音を奏でたいと考えていました。
この映画では、原作と同じシーンもありますが、原作にないシーンがたくさん描かれています。長く広く展開された原作を2時間に収めなければならないのに、わざわざ付け足されたシーンをどう受け止めるかが重要でした。監督からは、ほとんど説明はいただけず、自分で考えながら音を入れていったので、自分流のこの映画の見方がそのまま映画音楽になっていると思います。たくさんの感想を読まさせていただきましたが、僕と同じ見方をしている感想にはまだ出会えていません。原作にはないシーンをなぜ描いたのか、そこに注目して観てもらえると、何か新しい発見があるかもしれません。
「違国日記」予告動画 (東京テアトル)
(取材: MUSIC TRIBUNE 中村 2024年8月30日)