Allegra Krieger 『Art of the Unseen Infinity Machine』
Label: Duble Double Whammy
Release: 2024年9月13日
Review
Rolling Stone、Pitchforkの両メディアが先週注目していたのが、ニューヨークのシンガーソングライター、アレグラ・クリーガーである。先週のアメリカのインディーロック/フォークの注目作の一。大げさに騒ぐほどのアルバムではないかも知れないが、良質なメロディーや切ない感覚を織り交ぜ、ソングライター/ギタリストは一応のことニューヨークの音楽シーンで存在感を堅持している。 以前のアルバムまでは、分散的な音楽という印象もあり、少し散漫な感じであったが、この最新作『Art of the Unseen Infinity Machine』ではフォーク・ロックやオルタナティヴロックを起点として、秀作を制作している。アルバム全体には、何かしら淡いペーソスのようなものが漂うが、これは制作時、アーティストの住居の一室が燃えたという不幸に見舞われたことのよるものか。そして、ぼんやりとしているが、何かそういった哀感が漂う作品である。
アレグラ・クリーガーのソングライティングは基本的に、レナード・コーエンのような古典的なアメリカのフォークロックをベースに、現代的なオルタナティヴロックのテイストを添えるというもの。しかし、それとて、すでに90年代か00年代にいくつかのロックバンドの音楽性に準じたものなのかもしれない。たとえば、ルー・バーロウのサイドプロジェクトであるSebadohのようなローファイ風の色合いがラフで心地よいロックソングを思い浮かべる人もいるかもしれない。そして、クリーガーは悲しみを元にした歌をシンプルな演奏の中に乗せる。それも歌うといよりも、やるせないような感じでつぶやくという感覚に近い。気負いがなく、それほど上昇志向もない感覚は、現代的なニューヨーカーの気風を何らかの形で反映しているのかもしれない。新自由主義の渦中に生きることや、徹底した競争主義に疲弊し、さらには、Jesus Lizardのヨウが指摘するような後期資本主義の限界を、現代的な人々は肌身で感じ取っているのかも知れない。かつては頂点を目指すことが社会人としての嗜みを意味していたが、最早、この考えには限界があることを示唆している。このフォークロックソング集は、個人的な記録、もしくは個人的な回想とも呼ぶべきもので、実際的にそれは誰かが体験したかもしれない追憶のロマンチシズムに誘う。それはまた内的な魂の痛みを癒やすような響きが込められているのである。
また、現代的なアメリカのフォークロックのシンガーソングライターと同じように、ニューヨークの歌手でありながら、地域性や田舎性が削ぎ落とされている。まるでクリーガーの声は、時代感を失い、錯綜の中に彷徨い、そして、捉え難くなったアメリカという得難い存在をシンプルで親しみやすいフォークソングに乗せるかのようである。「Roosevelt Ave.」は、懐古的に昔の時代を振り返るかのようで、それは歌手の若い忘れ去られた時代や、それよりも古い時代へのロマンが抽象的に体現されているように感じられる。最近、生きている時代よりもさらに古い時代への憧れを示すアメリカのミュージシャンが増加傾向にあるのは、親の世代やその上の世代から子供の頃の米国の話を聞いているからなのかもしれない。そしてまた現代的な人々は、現在の自分の見る国家の姿を驚きと違和感を持って、ぼんやりと眺めているのかもしれない。それは目の前を流れていったかと思うと、すぐさま背後に過ぎ去っていってしまうのである。ロックソングのテイストを押し出した曲もあるが、バラードの性質が色濃い曲もある。
「Came」は、現代的なフォークロックバンドの影響を引き継ぎ、Big Thief(ピッグ・シーフ)やエイドリアン・レンカーの系譜にあるニューヨークのフォークソングを体現させている。かつてアメリカのフォーク・ロックは、渋さとマディーな感覚を併せ持ち、友愛的な側面や健全な精神を歌っていたことはCSN&Yなどの代表作を見れば明らかだが、他方、現代的なミュージシャンはそれらをモダンな感覚で縁取り、あまり深い領域まで踏み込まず、表向きの表現でとどめているという印象もある。ヒッピー主義は、かつてのサンフランシスコやUCLAの学生などで盛んだった思想で、ヘルマン・ヘッセの「荒野のおおかみ」をベースに平和主義やコミューンのような共同体を作るというものだった。過去には左翼的であるとか、それ以降のリベラリズムの萌芽のようにも見なされることもあるかもしれないが、それは基本的には時代錯誤とも言える。
西海岸のカルチャー「フラワー・ムーブメント」とも称されるこれらの現代的な牧歌性は、「Burning Wings」にも見出すことが出来る。例えば、この感覚が太平洋を隔てたリスナーにも共鳴するものがあるとしたら、それは、現代の競争主義、新自由経済社会、後期資本主義社会に疲弊していることを意味している。主流派とは別の指標や価値観がないものか、多くの現代人はそれらの考えをシェルターに見立て、その場所を安息所とする。謂わば、そうではないふりをしていても、日常的な違和感や何らかのボタンの掛け違いのような感覚は日を追うごとに増えている。そういった現代的な感覚ではなく、牧歌的な空気感や平和主義を折衷したフォークソングは、「I'm So Happy I Can't Face Tomorrow」にわかりやすい形で表れ出ているのではないか。Florist、Big Thiefの系譜にある紛うことなくニューヨークのフォークロックソングであるが、やはりこの曲に滲み出ているのは、現代的な人間として生きる「しがらみ」のようなものを抱えながらも、そこから一歩踏み出したいというような思いである。それらの思想はやはりアコースティックギターをベースにした牧歌的で温和なフォーク・ソングという形に乗り移っている
アルバムの中盤の3曲「Over And Over」、「Into Eternity」、「Interude to Eternity」では、華美なサウンドを避け、徹底して70年代のレオナード・コーエンのような古典的なフォーク・ロック主義に沈潜しながら、アルバムの序盤の切ないような感覚を織り交ぜる。これらは表面的な思想に潜っていくというよりも、その音楽的な感覚をより深い場所へと踏み込もうと試みているように感じられる。それはまたフォーク・ロックの音楽性に基底に含まれる瞑想的なイメージを呼び覚ますような感じなのである。これらの感覚的なフォークロックは、現代的なサウンドプロダクションではなく、アナログのレコーディング寄りのミックスやマスターによって、ビンテージな感覚を呼び覚ますことがある。中盤から中盤にかけて、クリーガーはより内面の世界に一歩ずつ降りていくかのように、内省的なフォーク・ロックソングの世界を作り上げている。これらは稀に、エリオット・スミスのようなサッドコア「How Do You Sleep」に近づく。
本作は単なるフォークロックの集積というより、個人的な感覚の流れをエモーショナルなフォークソングで縁取ったかのようである。それは一定して暗鬱な印象が起点となっているが、アルバムの終盤で、アレグラ・クリーガーの曲は少しだけ明るい場所へと抜け出る。謂わば悲しみからの再起や立ち上がる瞬間の過程を縁取るかのように。「Where You Want To Go」では、力強いボーカルと巧みなドラム、ギターに支えられるようにし、はつらつとした瞬間を描き出す。 クローズ「New Mexico」では、古典的なカントリーの文脈に近づく。しかし、やはり、そこには包み込むような温かさと優しさという感覚が内在している。懐古的な音楽というイメージは表向きのもので、むしろ現代的なフォークロックのサウンドといえるのではないか。
76/100