Lutalo 『The Academy』
Label: Winspear
Release: 2024年9月20日
Review
意外なことに、『The Academy』は、ルタロのフルレングスのデビュー作となる。バーモントのシンガーソングライターは、2022年から、2作のEP『Once Now, Then Again』、『Again』を発表してきた。最初のEPのリリース後、ガーディアン誌から注目され、続く『Again』ではソングライターとしての地位をしっかりと踏み固めたと言える。ルタロの作曲は非常に幅広い、レーナード・スキナードのサザンロック、ボブ・ディランのようなフォーク・ロック、さらには、ヒップホップの系譜にあるブレイクビーツ、そして何よりレディオヘッドから2010年代にかけてのオルタナティヴ・ロックなど、ジョーンズの音楽からはレコードショップで良盤を探す、フリークとしての姿を見出せる。また、ギターロックとしては、Beach Fossilsの系譜にあるニューヨークのベースメントロックの位置づけにある。もちろん、バーモントというニューヨークの意外な一面を紹介するシンガーソングライターでもある。
最近では、ルタロは、マンチェスターでのギグを始めとする英国圏でのライブ、そして、Nilfur Yanyaのツアーサポートを務めていることもあり、イギリスでの知名度をじわじわ上昇させているといえるのではないだろうか。少なくとも、ローファイ以降のヒップホップを吸い込んだロックをベースにし、その上にフォーク・ロック、オルタナティヴロックなどのエッセンスをまぶした曲はかなり聴きやすく、そして時々、前作の収録曲「Strange Folk」のように何かすごみのある雰囲気が漂うこともある。ジョーンズの声はかなり渋めで、低いトーンで歌われるが、むしろそれは、90年代以降のインディーフォークやスロウコアの系譜にあると言えるかもしれない。そしてもちろん、ダウンタウンや地下鉄の空気感を吸収したストリート向けのロックソングは、むしろ、今まで見過ごされてきたオルタナティブロックの可能性を示唆する。
これまでアンダーグラウンドなロックやフォークのあらたな可能性を追求してきたルタロは、このデビュー・アルバムにおいて、過去の自分の姿を回想している。 スコット・フィッツジェラルドが卒業したスクールに通っていたジョーンズは、幼い頃にそれほど裕福ではなかったというが、奨学金制度を受けて、セントポール・アカデミーに通っていた。イギリスでいえば、パブリック・スクールのような学校だろうか。若い頃のルタロ・ジョーンズにとって、セントポールに通うことは、ある意味では米国の古典的な貴族社会の一面を垣間見ることが出来、もうひとつの人生の扉を開いたということができよう。実際的にこのアルバムでは、『グレート・ギャツビー』の持つ世界に触れることが出来た自分自身の過去の姿を振り返る。それは現代では、金融社会や資本主義社会の構造の中に絡め取られ、その本義的な意義を失いつつあるエリート社会への原初的な憧れを意味する。しかし、多くの場合は、現代的な人々の場合は、これらのエリート意識は、学校を卒業したのち、全く別のものに成り代わり、虚栄心や特権意識、はたまた社会的な名誉心等といった奇妙な概念に変化してしまうことがあるが、少なくとも、このアルバムでは、そういった考えとは無縁なところにあると思う。ある意味では、ダークなトーンに縁取られながらも、青春の意味合いを持つオルタナティヴ・ロック、あるいはフォーク・ロックを、従来の彼の音楽的な蓄積の上に積み上げたという感じである。これらのロックソングは、耳にすんなり入ってくるにとどまらず、これらのアメリカの旧社会に存在していたイギリス的な気風をブレイクビーツを配したロックソングという形で表現していくのである。
このアルバムは、爽やかな雰囲気のあるフォーク・ソング「Summit Hill」で始まる。しかし、それはワールド・ミュージックやマスロックのような構成を用いて、旧来のフォーク・ロックからの脱却を意味する。彼は単にアナクロニズムに陥ることなく、現代的なポピュラー・ソングのメチエを用いて、時にはBon Iverの編集的なサウンドを活用して、モダンなインディーロックソングを書いている。これらのIverの系譜にあるサウンドは二曲目でも続くが、やはり古典的なサザン・ロックやフォークロックに対する敬意を欠かさない。そして、これらは音楽的に言えば、アナログレコードを聞くようなノスタルジア、そして反対に、モダンなデジタルなロックを聞く時のようなモダニズム、これらの合間の新しい音楽の息吹を擁する楽曲なのである。「Ganon」は旧来のリスナーであれば、ボブ・ディランやヤングの楽曲のように聞こえるかもしれないし、もしくは現代的なリスナーであれば、マック・デマルコやHorseyの楽曲のように聞こえるかもしれない。面白いのは、聞き手側の音楽的な嗜好性によって、その音楽の聞こえ方が全然異なってくる。古典的なものを好むリスナーには、間違いなくフォーク・ロックのリバイバルに聞こえ、そして、現代的なものを好むリスナーにはローファイやミッドファイ、それらに纏わるテープミュージックやミックステープ、あるいはNinja Tuneの90年代のサンプリングサウンドに聞こえるかもしれない。多面体としての音楽の要素を持つ音楽なのである。
これらの合間を縫って、ニューヨークのシンセポップの音楽性を吸い込んだ楽曲が続く。Nation Of Language,Porches、それ以前のBlack Marbleの系譜にあるレトロな音質をあえて強調させ、それらを2010年代のニューヨークのベースメントロックで縁取っている。これらは、レトロなシンセポップとシンプルな8ビートのロックソングという2つの要素により、現代的な印象を持つ楽曲へと昇華されている。ダンサンブルな要素はビートの乗りやすさ、そしてオルタナティヴロックの要素は、メロディー的な親しみやすさという利点をもたらす。いわば、リズムに乗れるし、メロディーに聞き惚れる、一挙両得のロックソングなのである。もうひとつルタロの現時点のソングライティングの強みは、フレーズのリフレインを介して、アンセミックな響きをもたらすということである。これらは、ロック的な方向に傾く場合もあれば、フォークの静かな方向に傾倒する場合もある。リフレインの要素は、ルタロの作曲において、最も強いエナジーを持つ瞬間でもあり、欠かせないものである。少なくとも、「Broken Twins」では、背後のリズムとビートに合わせて、コステロやトム・ペティのようなギターロックの系譜を踏襲することで、改めてこのジャンルの魅力に肉薄しようとする。もちろん、リズムの側面は、ブレイクビーツの要素を付与して、この曲に強いグルーブをもたらす。
また、Nilfur Yanyaのツアーサポートを務める理由は、続く「Big Brother」のような曲を書けるという点にある。この曲はネオソウルとまではいかないが、R&Bのビートのエッセンスをまぶし、 それらを掴みやすいフォーク・ソングとしてアウトプットしている。やはり、ヤンヤと同じようにルタロの作曲の中心には、アコースティックギターがあると思われるが、ギターのストリークはリズム的な側面を強調し、ジョーンズの温和なボーカルを巧みに引き立てるのだ。はたしてタイトルが、ジョージ・オーウェルにちなむのかは定かではないが、ややウィットに富んだ表現でこれらの生真面目な側面にジョークのようなものを添えようとするのである。「Caster」では、古典的な70年代のフォーク・ミュージックをサンプリング的に処理し、それらにブレイクビーツとネオソウルの要素を付け加えている。女性的な音楽がYanyamの手のうちにあるとすれば、この曲はそれらを男性的な性質を強調させたものなのかもしれない。少なくともビートの制作には刮目すべき瞬間があり、グリッチやドリルの要素を部分的に散りばめている。表向きにはそれほど強調されることはないけれども、ダンスミュージックや近年のNYドリルの要素をフォークやソウルの中に付け加えている。センスの良さを感じさせる。
それがすべてというわけではないが、前の2作のEPではややサウンドそのものがシリアスになりすぎることもあった。それは美点でもあるのだが、このアルバムでは、少し肩の力を抜くかのように開けた感じの曲が収録されている。「3」はルタロ・ジョーンズの人物的にフランクな姿勢がこういったユニークなギターロックソングになった。曲の雰囲気はロンドンのオスカーラングに少し似ていて、せわしなく移調を繰り返しながら、おなじみの少し脱力したようなロックソングを展開させる。しかし、やはりリズム感という側面では傑出していて、それほど背後のビートやリズムは強調されていないにもかかわらず、強いグルーブを感じさせる。これはまたアコースティクギターのみでグルーブを作り出すという演奏者としての個性を印象付ける。
また、いつものように、ファズやディストーションを強調させたギターロックソングも収録されている。今回は、Dinasour Jr.やJ Masicisのような極大の音像を持つオルタナティヴロックソングで、これらのグランジ以降の90年代のロックの系譜を踏襲しているようだ。しかし、イミテーションになることはなく、現代のミュージシャンとして何をもたらすのか、という考えが含まれていることに注目しておきたい。「Oh Well」は、新しいアメリカン・ロックのスタイルが登場したと言えるかもしれない。 そしてこれらは、ギターのリバーブやディレイを使用して、抽象的な音像をアンビエントのように敷き詰めて、ドリーム・ポップやシューゲイズ、あるいはそれ以降のダンスミュージックを反映させたポスト世代のシューゲイズへと移行していく。ルタロのオルタナティヴロック好きの姿はこの曲を聞けば瞭然なのではないだろうか。
ルタロのボーカルはいつもダークな雰囲気があり、独特な格好良さがある。それは明確には言えないが、バッファローのストリートの空気感が含まれているような印象を受ける。例えば、それは地下鉄の空気感だったり、ダウンタウンの狭い通りだったり、はたまたそれとは対極にある。ストリートからぼんやりと煉瓦壁の摩天楼を見上げる感覚である。ボーカリストとしての最も強い性質が続く「About」に登場する。それは、ラップとも言えず、ソウルのファルセットとも言えず、またオルタナティヴロックのシンガーのようなアーティスティックな側面とも異なり、ニュアンスに近いものである。明確に言えば、旋律性があるのだが、節回しはラップに近いというロンドンのWu-Luに近い歌唱法であるが、これらの曖昧で抽象的なボーカルのニュアンスは、2020年代のロックの一つのスタンダードとなっていきそうな気配である。いわゆる抽象絵画の暈しの技法のような感じで、歌う音程をあえてぼかすというものである。
これらのダークな感覚はそれほど深刻になることはなく、その一歩手前のユニークな感覚にとどまっている。また、それはブラックジョークの範疇にあるようで、続く「 Haha Halo」に見出すことが出来る。この曲に満ちる夢想的なダークネスは、ある意味ではゴシック的な文化性を通過した結果とも言える。やはり女性的なドリーム・ポップ音楽ではなく、男性的な性質を持つドリーム・ポップという側面では、もしかすると、The Cureのような音楽性に近いかもしれない。 前の2曲でやや暗鬱な印象を持つロック/ポップソングを挟んだ後、やはりこのアルバムの最大のテーマである、回想的なフォーク・ロックソングでこのアルバムは締めくくられる。
「Lightning Strike」は、ルー・リードのソロアルバムの作風を彷彿とさせる。たとえば、「Walk On Wild Side」のような懐かしさが溢れ出す。 これらはアメリカの黄金時代の音楽を思わせるし、重要であるのは、音楽的な表現に温和さと穏やかさが内包されているということだろう。アルバムのクローズ「The Bed」は、果たして寮生活を送っていたセントポール・アカデミーの時代を振り返ったものなのか。かりにそうであるとするなら、それらの追憶は、同じような体験を聞き手がしたか否かを問わず、追体験のような意義をもたらす。誰もが経験したことのある学生時代の思い出、少なくとも、ルタロ・ジョーンズにとっては、フィッツジェラルドのように、文学的な才能や最初の音楽的な経験を深めるきっかけとなったのかもしれない。個人的な体験や追憶、それは意外なことに、時に、一般的な広い意味を持つ場合があるのだ。
82/100
「Bed/ Broke Twin」