【Weekly Music Feature】 Sarah Davachi 『The Head As Form​’​d In The Crier​’​s Choir』

 Sarah Davachi



 サラ・ダヴァチ(1987年カナダ生まれ)は、テクスチャー、倍音の複雑さ、音響心理現象、チューニングとイントネーションの緩やかな変化を強調するために、長時間の持続と考慮された和声構造を利用し、音色と時間空間の密接な複雑さに関心を寄せる作曲家であり演奏家である。


 彼女の作曲は、ソロ、室内アンサンブル、アコースティック形式と多岐にわたり、アコースティック楽器や電子楽器を幅広く取り入れている。 ミニマリズムやロングフォームの信条、フォルムやハーモニーに関する初期音楽の概念、スタジオ環境における実験的な制作手法からも同様に影響を受けており、彼女のサウンドは、忍耐強い体験であり、慣れ親しんだものや遠いものに対する知覚を緩和する。


 高く評価されている彼女のレコーディング作品に加え、ダヴァチは、エレン・アークブロ、オーレン・アンバーチ、グルーパー、タシ・ワダ、ロバート・アイキ・オーブリー・ロウ、シャルルマーニュ・パレスティン、映画監督ディッキー・バトなどのアーティストとともに、幅広くツアーを行っている。 委嘱作品には、クアトゥオール・ボッツィーニ、ロンドン・コンテンポラリー・オーケストラ、ヤーン/ワイヤー、アパートメント・ハウス、ゴースト・アンサンブル、ワイルド・アップ、室内合唱団アイルランド、BBCスコットランド交響楽団、ラジオ・フランス、コンテンポラリー・アンサンブル、チェロ八重奏団アムステルダム、カナダ国際オルガン・コンクール、ウェスタン・フロントなどがある。 彼女の作品は、サウスバンク・センター(ロンドン、イギリス)、バービカン・センター(ロンドン、イギリス)、コントラクラング(ベルリン、ドイツ)、INA GRM(パリ、フランス)、イシュー・プロジェクト・ルーム(ニューヨーク、アメリカ)、ランポー(シカゴ、アメリカ)などで国際的に紹介されている。


ーー2022年から2024年にかけて作曲されたこのアルバムに収録された7曲は、コンセプチュアルな組曲を形成し、通過行為を理解するために構築される精神的なダンス、私たちが交わり、記念し、象徴を表象を超えた世界に持ち帰る方法を観察している。


この目的のために、『THE HEAD AS FORM'D IN THE CRIER'S CHOIR』は、古代ギリシアのオルフェウス神話への2つの言及に取り組んでいる。1922年に発表されたライナー・マリア・リルケの詩集『オルフェウスへのソネット』と、1607年に発表されたクラウディオ・モンテヴェルディのバロック初期のオペラ『オルフェオ』である。


オルフェウスの神話は、妻エウリディーチェの死によって悲しみに打ちひしがれた音楽家が、死者の神に彼女の帰還を説得するため、黄泉の国へと下っていく物語である。その道すがら、オルフェウスは竪琴から奏でる深く嘆き悲しむ音楽で、彼の行く手を阻む者たちを誘惑する。ハデスは承諾するが、ひとつだけ条件がある。オルフェウスは、ふたりが再び生者の世界に戻るまで、エウリュディケを振り向かせないこと。驚くなかれ、二人が地表に近づくにつれ、オルフェウスは不安を募らせて、振り向いて背後にいるエウリュディケの存在を確認する。そしてオルフェウスは、死が自分を連れ去ってくれるようにと歌う。マエナドの一団によってようやく願いが叶ったオルフェウスは、切り離された頭部と竪琴を川に流し、悲痛な歌を歌い続ける。


長年、私はスタジオでの練習とライブ・パフォーマンスの練習を大きく分けようと努めてきた。


このアルバムには4つのパイプオルガンが収録されている。イタリア、ボローニャのサンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会にある、1968年にタンブリーニによって製作された機械式アクション楽器、フィンランド、ヘルシンキのテンペリアウキオ教会にある、1969年にヴェイッコ・ヴィルタネンによって製作された電気式アクション楽器; ジョン・ブロムボーが1981年に製作した機械式アクション楽器(アメリカ、オハイオ州オバーリンにあるオバーリン・カレッジのフェアチャイルド・チャペルにある)、そしてアリスティド・カヴァイエ=コールが1864年に製作した機械式アクション楽器(フランス、トゥールーズのゲス教会にある)。


『THE HEAD AS FORM'D IN THE CRIER'S CHOIR』に収録されているオルガン曲は、楽器のペダルに重きを置いており、ほとんどの楽器が持つ機械式トラッカー・アクションによって可能になったテクスチュアのバリエーションにも注目している。


特に、桜美林大学のブロムボー・オルガンは、17世紀初頭に設計されたオルガンに典型的な平均律の使用と、拡張された平均律におけるエンハーモニック等価性の欠如に対応するスプリット・アクシダメンタル・キーの使用の両方において、特に有意義な作曲の機会を与えてくれた。「Possente Spirto」は、『オルフェオ』のアリア「Possente spirto, e formidabil nume」に対する緩やかな概念的言及である。モンテヴェルディ版と同様に、私の作品も弦楽器と金管楽器の使用を強調し、それらが出入りする特定の順序を守り、一種の通奏低音の枠組みも取り入れている。私はそこから離れ、ゆっくりと動く和音進行に焦点を当てることにしたーー Sara Davachi 



『The Head As Form​’​d In The Crier​’​s Choir』/ Late Music  --ギリシャ神話に対する概念的言及、時間のない無限のドローン音楽--




 

 

ロサンゼルスのSarah Davachi(サラ・ダヴァチ)の最新作『The Head As Form​’​d In The Crier​’​s Choir』はいわゆるドローンミュージックの傑作であり、一般的なアナログシンセやプロデュース的な作品とは異なり、コンテンポラリー・クラシカルのライブ録音に近い作品となっている。

 

2022年には、スウェーデンのKali Malone、2023年には、ロサンゼルスのLaurel Halo、カナダのTim Hecker、そして、すでに今年、トルコからEkin Fil、カナダのLoscilの傑作が出ている。Sara Davachiの最新作は、それに続く前衛音楽の注目作ということになる。上記の作曲家を見て分かることは、カナダのティム・ヘッカー、ロスシルを除けば、ドローンミュージックは、女性中心によるウェイヴであること、そして、全般的には、いずれの作曲家も対外的な評価を度外視し、長期間にわたって辛抱強く音楽作品を作り続けてきたことである。

 

長い期間、女性のアーティストが正当な評価を受けてこなかったことは、すでによく知られていることであり、社会的な風潮としては致し方ない側面もあったかもしれないが、近年、優れたエレクトロニック・プロデューサーが登場し、男性優位であったこれらのシーンに一石を投じていることは喜ばしく、時代の流れを反映しているといえるだろう。クラシックでいえば、クララ・シューマン以外、ほとんど著名な女流作曲家が出なかったこと、長い間、男性優位のヨーロッパ社会において、女性が芸術家として正当な評価を受けるまでに数世紀を要したことへの反動や揺り戻しであり、また、それらの不均衡であった秤が、21世紀になり、まっすぐつまり直立に戻ったことを意味している。加えて、功利主義に陥りがちな男性音楽家とは明らかに異なり、女性の作曲家には、じっくり腰を据えて制作を行う、胆力や精神力が備わっている。男性というのは、元をたどれば、農耕民族以外は狩猟や漁をしなければならなかったため、目移りしたり落ち着きがないものである。私自身は、フェミニストというわけではないのだが、どうやら忍耐強さという側面では、女性の作曲家の方が上手のようである。それは「世間的な評価」という男性的な基準とは別に「内的な評価を重視する」という側面が、女性には備わっているのではないかと推測される。その反面、どうしても男性の作曲家は社会的な生き方を長い間強いられてきたので、外面的な評価という基軸から容易には逃れられないのである。

 

サラ・ダヴァチは、特に上記の傾向を象徴付けている。2010年代始めにエレクトロニックプロデューサーとして登場したときは、取り立てて「派手な音楽家」というわけではなかった。しかし、2015年頃からモダン・クラシカルの作風を従来のシンセを中心とする電子音楽の作風に取り入れ始めたころ、何かが劇的に変わりはじめた。2022年には傑作「Two Sisters」を発表し、ドローン・ミュージックの象徴的な作曲家になりつつある。2015年頃から、クワイアの導入に加え、パイプオルガンの演奏を重視してきた。特に、ダヴァチの中世ヨーロッパの楽器に対する好奇心は尋常ではない。まるで彼女の前世が中世ヨーロッパの器楽家であったか、もしくは、調律師であったかとおもわせるほど。ダヴァチは、イタリアの古い時代のベルを導入したり、作曲家、演奏家という二つの表情と合わせて器楽研究家の性質を持ち合わせている。そして、今回の新作アルバムでは、イタリアの中世の楽器を始めとする、4つのパイプオルガンが演奏に導入されている。その中には、日本の桜美林大学の鍵盤もある。まさに、世界中の楽器の蒐集、そして、それらの展覧会とも呼ぶべき内容の豊富さである。4つもパイプオルガンを使用する必要があったのか、と思うかもしれないが、実際の録音を聞けば分かる通り、それ以上の価値がある。このアルバムはまるで、倍数以上のオルガンを使用したような重厚な作風で、その中にはバッハのミサ曲を思わせる心痛な面持ちを持つ楽曲もある。

 

ギリシア神話のモチーフは、このアルバムに度々登場し、それはリヒャルト・ワーグナーの歌劇のライトモチーフのような働きをなし、「妻エウリディーチェのために黄泉の国に下る」という、恐ろしくもロマンチックな物語の主人公の実際的な行動が「トーンが少しずつ下降していくドローンの通奏低音」に明瞭に表れ出ていることがわかる。このドローンによるライトモチーフは何度も出現し、上記のギリシア神話のロマンティックな物語性をペーソスや悲哀のような感情性で縁取っている。例えば、Sub Popのナタリー・メリングは、ナルキッソスの物語をポピュラー音楽という側面において散りばめたことがあるが、ダヴァチの場合は、ドローン音楽により、黄泉の国に下るというミステリアスな物語を体現させようと試みる。その一方、制作者は、モンテヴェルディの「オルフェオ」にも言及しているが、これらは作品の効果や表情付けのようなものに過ぎないと推測される。イタリアン・バロックに欠かさざる音階的な優雅さや嫋やかさはほとんど登場せず、一貫して、JSバッハのミサ曲やマタイ受難曲のような宗教曲を彷彿とさせるパイプオルガンの重厚な和音構造、そして、別の鍵盤による通奏低音、ないしは弦楽器、金管楽器といった副次的な器楽が、主流となるパイプオルガンに異なる倍音の性質を付け加える。

 

ドローン音楽は、基本的には複数のポリフォニーで構成され、パレストリーナ様式の教会音楽のように、あるいは、JSバッハの6声部の対旋律のように、独立した主旋律を他の旋律が強化するような形で展開される。しかし、基本的には、主旋律は存在せず、副次的な旋律もまた主旋律の役割を持つという点で、カウンターポイントの新しい形式の一つでもある。これらの基本的な構成に加えて、倍音の性質が加わる。つまり、今回、ダヴァチ教授(彼女は本当に講義を学生に対して行うことがある)がわざわざ4つの異なる時代のパイプオルガンを使用したのには理由があり、楽器の音響学としての異なる性質をかけ合わせ、特異な倍音を重ね、独特なハーモニーや調和を求めようというのが、このアルバムの制作の主な動機ではなかったかと思われる。実際的に聞けば、分かるように、『The Head As Form​’​d In The Crier​’​s Choir』は異なる独立した声部と、別の性質を持つ和音が織りなす長大なハーモニーによる作品と称せるかも知れない。 



 

重要なことは、このアルバムは単なる電子音楽ではなく、モダンクラシカルという側面に焦点が絞られ、また、ミサ曲のような本格的な儀式音楽の性質が色濃い。同時に、ライブレコーディングの性質が強調されている。本作のオープナー 「Prologo」は、厳かなパイプオルガンの演奏で始まる。以前の作風と明らかに異なる点は、低音域が強調され、実際的に、鍵盤楽器の低音部の和音構造が重視されている。これが音楽的な気風として重厚な感覚を付与し、さらには厳粛さ、敬虔さ、宗教音楽の重要な動機である「頭の上にある存在に対する畏れ」を明瞭に体現させるのである。ときどき、AIの文明が発展したことにより、人間は過度に傲慢になったり、他者に対する配慮を見失うことがあるが、この序曲では、中世の時代にはたしかに存在した人間的な感覚の発露、そして、生命の動機、あるいはその緩慢な変遷、さらには人間的な本質がスピリットにあること、そういった現代文明の中で多くの人々が見失った真実を思い出させ、現実を虚像のように映し出し、その向こうに幻想的な古典性ーーギリシア神話の「オルフェウス」の竪琴の物語を立ち上げる。これらの映像的な音楽の効果は、間違いなく、ダヴァチさんのアカデミックな学識が明確に反映されている。これはまた、20世紀までは、女性が教育の中で抑圧されてきた史実を鑑みると、いよいよ女性的な知性が活躍する時代が到来したという風潮を把捉出来る。また、音楽的な側面でも、この序曲は、マスタリングの素晴らしさが際立ち、重厚感のあるサウンド、360度のサラウンド・システムで試聴するような音の奥行き、そして、全体的な音の艶やかさと、独立レーベルでこのようなハイクオリティの音質を生み出したことは、信じがたい偉業といえる。一貫して通奏低音が強調されるという側面では、現行のドローン音楽との共通項も多いが、他方、7分50秒からの別の鍵盤楽器による不協和音の追加は、独特な倍音を発生させ、音楽を可視化されたデータではなく、「生きた流動体」のように鋭く変化させる。つまり、音楽そのものが、生命としての息吹を与えられ、動き始め、そして、組み上げられたギリシア神話の物語の中を動き出す。そして、古典的なもの、現代的なものがたえず交錯するかのように、複数の次元から、あるいは、複数の地点から、旋律という光を照射し、見果てることの叶わぬ一大的なエネルギー体を構築していく。最早、この序曲の段階において制作者は、音楽が単なるデータでもなければ、マテリアルでもないことを確知し、生きた有機体としての役割を司ることを明示してみせる。


現実的な側面を反映させるでもなく、幻想的な側面を反映させるわけでもない。此岸から見た音楽は多数存在するが、彼岸から見た音楽というのはあまり前例がない。サラ・ダヴァチの音楽は、主観の音楽ではなく、客観の音楽である。「Possente Spirito」 では、2010年代から追求してきたモジュラーシンセの演奏を竪琴に見立て、簡素な分散和音をモチーフに、その後、通奏低音を挟み、アルバムの音楽は一連の流れを形作りはじめる。金管楽器の通奏低音、ないしはドローン音楽の範疇にある前衛的な手法は、このジャンルが当初、スコットランドのバクパイプの音響の発展から始まったことを思い起こさせる。つまり、鍵盤楽器ではなく、吹奏楽器から始まったのがドローンの形式である。ラ・モンテ・ヤング、ヨシ・ワダの最初期の作風を踏襲した上で、ダヴァチは祭礼時の儀式的な音楽、哀悼の意味を持つ宗教音楽を現代に復刻させる。これらはミニマル音楽の系譜、そして、ドローンの系譜という二つの視点を基に、音響学の可能性、次いで金管楽器の倍音の可能性という未知なる領域を切り開こうとするのである。

 

 

特に、パイプオルガンの楽曲、見方によれば鍵盤楽器による協奏曲のような意味合いを持つこのアルバムの音楽性が最も重力を持つ瞬間が「The Crier's Choir」、そして続く「Trio For A Ground」の2曲となる。前者は、古典的なイタリアンバロックやバロックの形式を基にして、重厚な通奏低音によって建築学的な構造を持つ前衛音楽を作り出す。そしてレビューの冒頭でも述べたように、複数の異なる鍵盤楽器の持つ倍音の特性が、(それは機械としての性質でもある)、ドローン音楽の重要な特徴であるイントロでは想像しえなかった音響学の構造変化、及び、倍音や音調の微細な変遷を、制作者が意図するギリシア神話の物語という動機を通じて敷衍させていく。この曲では、少なくとも、2つか3つのパイプオルガンの演奏が取り入れられているようだが、それは続く「Trio For A Ground」と同じように、ニューヨークの現代音楽家、モートン・フェルドマンの「Rothko Chapel」のようなドローン音楽の原点へと回帰していく。フェルドマンは、テキサスの礼拝堂の委嘱作品として「Rothko Chapel」を制作したが、同時に、これはアート作品を展示するための環境音楽の意味合いも込められていた。そして、世界で最初のインスタレーションは、間違いなく、モートン・フェルドマンの代表作だったのである。これらの現代音楽の系譜に準ずるかのように、ダヴァチは、ギリシア神話の黄泉の国への下りをテーマとし、漸次的に下降するドローンを複数重ね合わせ、圧巻の音響空間を物語に添える。「目的のための音楽」とも言えるが、結局、最後の演奏を終え、鍵盤楽器から手を離すとき、通奏低音が減退する瞬間に、演奏者として痛切な思いが込められ、音の停止、それはとりもなおさず、音楽に対する控えめな態度が、敷き詰められた音の連続に癒やしと安らぎをもたらす。もし、そうしていなければ、音楽という得難い化け物に飲み込まれていたかもしれない。

 

後者の「Trio For A Ground」は、中音域から高音域を強調する前曲と比べると、低音域を徹底して強調した厳粛な面持ちを持つパイプオルガンによる独奏曲とも言える。特に、平均律を基にした変則的な調律は、目の前に巨大な塑像のようなものが出現するかのごとき圧倒的な印象を受ける。それはギリシア神話というよりもダンテの神曲の地獄の門に入る時の作者の畏れのような感覚にも似ている。しかし、この曲では、2010年代中盤に、制作者が実験的に導入していた女性のクワイアが加わることにより、神話としての音楽的な動機を想起させ、そしてその枠組みの中で、幻想的な音楽の性質や、ミステリアスな感覚がありありと立ちのぼってくる。聞き方によっては、RPGの音楽や映画のワンシーンの効果的な音楽によるストーリーテリングの要素を持ち合わせ、アルバムの中盤の重要なハイライトを形成している。そして、ランタイムごとに、曲の表情は変化していき、暗鬱さ、神秘さ、神々しさ、そして精妙さ、透き通るような感覚、濁るような感覚、重苦しさ、悲しさ、そういった数しれない感情性の物語が、二人のギリシア神話の主人公のライトモチーフのような役割をなしている。また、曲の途中から加わる弦楽器のドローン、その上に微細に重ねられる高音部のパイプオルガン、複数の声部が幾つも折り重なり、増幅と減退を繰り返しながら、音響の持つ表情を変化させる。また、8分後半に出現するノイズは、まるで彼岸と此岸を隔てる幕のように揺れ動き、音楽的な効果は最高潮に達する。特筆すべきは、これらの音調の変容やドローン音の変遷は、抑揚的に高まると抑えられ、抑えられると高められるというように、一貫して、抑制と均整が取れ、必要以上にラウドになりすぎることもなければ、それとは反対にサイレンスになりすぎることもない。いわば、黄泉の「中つ国」の性質を反映させるかのように、中間領域の音楽としての性質を維持しつづける。そして、それらは、演奏者が明確に意図したアクセント、クレッシェンドやデクレッシェンドという手動による音響的な効果によって組み上げられる。これが最終的に、コントラバス、コントラファゴットの音域を強調するパイプオルガンの重厚な通奏低音により、物語の核心に迫る情景が暗示される。そして、前曲と同様、サラ・ダヴァチは、11分から12分にかけて、フェルドマンの「Rothko Chapel」のような霊妙なドローンを、パイプオルガンの複数の声部によって完成させる。間違いなく、現代の前衛音楽の至高の瞬間をこの一分間に見いだせるはずだ。音楽の正体が振動体であること、ウェイヴ、周波数であることは、この一分間で明示されている。実際的に、この曲は次の世紀に語り継がれてもおかしくない実験音楽である。

 

 

以降の2曲は、ダヴァチ教授の古典的なアートに対する趣味が色濃く反映されている。というのも、サラ・ダヴァチさんは古典的なヨーロッパ絵画にかなり熱心であり、それらの蒐集をしているかどうかは定かではないが、少なくとも、バロック主義の古典絵画のような世界を音楽により表現したいという欲求は、常日頃から持ち合わせているはずなのだから。これらの古典的な芸術に対する親しみは、「Res Sub Rosa」では、バロック主義のミサ曲のような形式をパイプオルガンで体現させ、他方、「Constants」では、イタリアン・バロックの宗教音楽のような古典的な世界観を構築する。これらの2曲は、音楽的な方向性としてマンネリズムに陥る場合もあるが、全般的には少しだけ重苦しくなりがちな作風に、ウィリアム・ターナーが描いた古典的なローマの情景のような安らいだ感覚や優雅な感覚を体現させる。それは現代人としての古典に対する憧れであり、また、それらのヨーロッパの苦難多き歴史の基底にある文化的な奥深さや多彩さに対するロマンチシズムを、厳粛なパイプオルガンの独奏で表現しているといえる。惜しむらくは、クラシック音楽のアリアのような優雅な声やクワイアが登場しなかったことが、作品全体に単一的な印象を及ぼしている。ただ、それとて、聞き手が制作者の手の内に転がされているに過ぎず、アートワークのモノトーンの体言化という制作者の意図の範疇にあるものなのかも知れない。しかし、最終盤に向けて、あちこちに拡散していたもの、あるいは、無辺に散らばっていたものが集まり、一つの中心点にゆっくり向かっていくような不思議な感覚、そして、先にも述べたように、音楽そのものが生きた有機体のようの蠢き始め、また、その果てに教会の鐘の残響のような余韻が残されていることが、何かしら遠いヨーロッパの異国を旅したときや、その土地土地で、まったく聞き慣れない異教の鐘の音をふと耳にするときのエキゾチズムを反映させている。制作者は、古典的なテーマに焦点が絞られていると指摘しているが、もしかすると、現代的な社会の気風や混乱など、副次的な主題も取り扱われているのかもしれない。少なくとも、この曲は最もモダンでアーバンな印象を持つ前衛音楽である。

 

 

続く「Constants」は、金管楽器で構成されるドローン音楽で、通奏低音を重視していることは事実だが、同時に、倍音を基に構成されるハーモニーにも焦点が置かれていることが分かる。これらは音楽的な効果として、本来は、なしえないはずの古典的な時代への旅、あるいは私達が生きていない時代への蘇り、また、その空想の空間の中で生きること、こういった普通では考えられないような音楽の醍醐味を体現させる。それは物語を見る第三者の視点が突如として登場したことを表し、メタ的な構造の変化を及ぼす。器楽的な観点から言えば、金管楽器の通奏低音の増幅、及び減退は、厳粛な音楽というアルバム全体のテーマを力強く反映させている。そして全体的な構成から言うと、この曲は、終曲にむけての布石や連結部のような役割を司る。主題と副題がたえず交差するようにし、このアルバムの音楽はクライマックスへと向かう。

 

終曲「Night Horns」は、基本的には、2つのパイプオルガンを中心に構成される。しかし、この曲では、日頃あまり指摘されないパイプオルガンの吹奏楽器としての音響的な性質が色濃く立ち現れる。撥音は鍵盤、音響効果はペダルであるが、出力はパイプ、つまり吹奏であるという音響学的な性質は、実際的に聞き手を音楽の最深部へと誘う力を持ち合わせている。最も和声構造の性質が強調され、それはやはり一貫して、ミニマル・ミュージックの次世代の音楽であるドローン・ミュージックという形式の範疇にあるが、和音の構成音の一音を丹念に、そして辛抱強く動かすことにより、音の流動性やうねりを作り出し、それらを建築物のような圧倒的な印象を持つ構造体へと作り上げる。それは、作曲のモチーフが上手く運び、ギリシア神話の物語のクライマックスを暗示しているのかもしれない。また、それは、人類史の無限への憧憬を表すバベルの塔の建築を思わせ、聞き手の興味を現実の世界から神話の世界へと接近させる。ある意味では、古典性と現代性という、2つの対極的なテーマを結びつけ、呆れるほど強度の高いドローン・ミュージックを構築したことに、このアルバムの最大の成果が込められている。

 

しかし、これは一年や二年で生み出されたものではない。2013年頃からたえず、サラ・ダヴァチは誰からも注目を受けなかった時代から、飽くなき探究心を持ち、電子音楽と前衛音楽を制作してきた。その11年目の成果が、ようやく傑作を出現させたのだ。最後の建物が振動する音と共に録音されたパイプオルガンの高音部の通奏低音は、レコーディングの歴史的な瞬間であり、今日までの音楽の中で最も崇高性を感じさせる。それはまた、現代の音楽が持つ一般的な意味を塗り替え、「スピリットを体現する音楽」という、哲学、数学と合わせて、最古の歴史を持つ人類が生み出した最高のリベラルアーツの本来の核心に最接近した瞬間なのである。

 

 

 

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