【Weekly Music Feature】  Dawn Richard & Spencer Zahn 『Quiet In a World Full of Noise』 - Merge Records

 
 

ドーン・リチャードは、ルイジアナ・クレオール文化、ニューオーリンズ・バウンス、サザン・スワッグを要素として扱い、ハウス、フットワーク、R&Bなどを織り交ぜることができる。彼女が言うように、"私はジャンルである"。


ダニティ・ケインの創設メンバーとして、また後にディディのダーティ・マネーに参加したドーンは、商業ポップ・ミュージックの内と外を探求することができた。ソロ・アーティストとして、彼女はセルフ・リリースを選んだ。批評家から絶賛された5枚のフル・アルバムの中で、ドーンは業界の規範に屈服したり屈曲したりしないというメッセージを明確にしてきた。


「プロデューサーとしてもアーティストとしても、女性が評価されることはない。今こそ、エレクトロニック・ミュージックだけでなく、あらゆるジャンルで彼女たちの才能を認めるべき時だ。私は、南部出身の若い黒人女性が、音楽的にも、視覚的にも、芸術的にも、なりたい自分になれるように努める」


マルチ・インストゥルメンタリスト、スペンサー・ザーンの音楽は、オープンであることが特徴だ。広々とした音の風景は、彼のクリエイティブ・コミュニティからの貢献が豊かである。マサチューセッツ生まれのザーンは、12歳でベースを弾き始めた。2000年代半ばにニューヨークに移住してからは、ツアー・ミュージシャンとして活動し、ジャンルを超えてさまざまなアーティストとライブを行なってきた。ザーンのソロ・アーティストとしてのキャリアは、その後、志を同じくするギタリスト、デイヴ・ハリントンと共演を始めた2015年と同時期に始まった。



2022年に発表された『Pigments』に続くこのデュオのセカンド・アルバムは、共通のコラボレーション精神、純粋な音楽的好奇心、ジャンルの慣習から逃れようとするコスモポリタンな熱意を浮き彫りにしている。「Diets 」では、デュオの率直で告白的なリリシズムが発揮されている。リチャードは、有害な人間関係や習慣を断ち切ることを減量に例えて、カロリー摂取を控えるように、偽物の友人を捨てる、と歌う。  


『クワイエット・イン・ア・ワールド・フル・オブ・ノイズ』の制作は、2023年にニューヨーク北部で始まった。別れたばかりのザーンはピアノの前に座り、作曲とレコーディングに没頭した。「私はピアノで、不気味で広々としたピアノ曲を書いた」彼は、標準のピッチではなく、部屋に合わせて型破りに調律されたピアノを使用した。この奇妙な調律の不気味なインストゥルメンタル・レコーディングは、当初アルバムにするつもりはなかったという。半年後、彼はその録音を聴き直してリチャードに送り、彼はすぐに次のアルバムの可能性に気づいた。


『クワイエット・イン・ア・ワールド・フル・オブ・ノイズ』でリチャードは、トラウマ的な喪失体験がもたらす感情的な衝撃を歌詞とヴォーカル・パフォーマンスに反映させた。このアルバムの制作について、リチャーズは次のように語っている。

 

「スタジオに入って、これを書き留めたわけではないんだけど、パージして、その後は何も変えなかった。正直言って、今までで一番大変だった。私たち家族はセラピーに対して歪んだ見方をしている。だからこの瞬間は、世間とその瞬間を共有するという、厳しい開放の瞬間だった。でもまた、なぜかスペンサーと仕事をすると、他の誰ともしないような弱さに触れることができるんだ。そして私は臆することなく挑戦しようと思う」 


『クワイエット・イン・ア・ワールド・フル・オブ・ノイズ』は、プログレッシヴでアヴァンギャルドなR&Bを構成する定義を完全に書き換えることで、親密で、魂を剥き出しにし、スペクタルで、そして驚くべき作品に仕上がっている。

 

 

 Dawn Richard & Spencer Zahn 『Quiet In a World Full of Noise』 - Merge Records

 

2024年のMergeの最高傑作の登場と言えそうだ。ヴォーカリストとして多彩な表現力を持つニューオリンズのドーン・リチャード、そして、ニューヨークのマルチインストゥルメンタリスト、最近はポスト・クラシカルの作品『Status Ⅰ&Ⅱ』を発表したスペンサー・ザーンの異なる才能が結びつき、硬質でゴージャスなレコーディングが誕生した。また、このアルバムは、コラボレーションのお手本であり、多くのプロミュージシャンが模範とすべき指針となるだろう。 


今回のデュオとしての制作における両者の役割は明確である。スペンサー・ザーンは、部屋ごとに調律の異なるピアノを情感たっぷりに演奏し、そして、ドーン・リチャードは、Nick Hakimの系譜にあるネオソウル、ニューオリンズの原初的なラップであるバウンス、そして時にはスポークンワード、トラディショナル、ポピュラー、ジャズといった多角的なジャンルのヴォーカルを通して、ピアノの演奏に多彩なスペシャリティを与える。冷静さと感情の抑制を兼ね備えた語りから、それとは対象的なソウルの情感溢れる歌まで広汎な歌唱法を駆使し、作品全体に動きと変容をもたらす。スペンサー・ザーンのピアノは一貫して明徹で、澄明な輝きを放つが、その演奏を出発点として、リチャードの多彩なヴォーカルがこの作品を佳作から傑作に近い領域まで引き上げている。最後の仕上げとなるのは、高水準のマージレコードの録音である。このアルバムの音質は、洗練された現代建築を見るかのような威厳に満ちている。

 

リードシングルのプレスリリースで、スペンサー・ザーンは「皆、何かに圧倒されすぎなのではないか?」と現代的なポピュラー音楽に苦言を呈していましたが、その通りかもしれない。 音楽は、怪物でもなければ怖い存在でもない、本来は単純明快で素晴らしいものなのだから。実際的に、それらを過度に難しくしたり、モンスター化しているのは制作者自身ではないだろうか。そして、最近よく感じるのが制作者の多くが最早何をやりたいのかも不分明になっているケースが散見されるということである。まだ、それが若気の至りであれば良いのだが、少なくとも経験豊富で良識のある音楽家がするべきことではないだろう。経験のある音楽家はむしろ、後進となる音楽家の模範的な存在であるのが理想的である。そして、良い音楽を作る際に最も重要視すべきなのは、音質でもなければ、録音の手法でもない。そして、人を驚かせるようなやり方を廃し、それとは対象的に、歌の歌唱、作曲の妙、演奏の巧みさ、歌詞の美しさといった音楽の初歩的な手段で本質を語り、音楽の素晴らしさをストレートに伝えるように努めるべきである。そもそも、こういった初歩や基礎を軽視する人が多いのに辟易とすることがある。というのも、この基本を蔑ろにしつづけると、いつしか音楽は驚くべき無味乾燥な娯楽に堕落していかざるを得ないからだ。そして、音楽自体の本質を歪めるような効果を施すのではなく、本質の特性を押し出したり、また、一般的にわかりづらい魅力を引き出すのがレコーディングの妙でもある。その点において、複雑なサウンドエフェクトが施される場合も稀にあるが、このアルバムは、おそらくノンエフェクトで聴いたとしても、良いアルバムに聞こえるに違いない。それは、すでに録音現場に入る段階で、両者の音楽的な構想がしっかりと固まっており、それを忠実に実践しているに過ぎないからである。オズボーンが言うように、構想がしっかりと固めて、何をしたいのかを吟味してから、最終的にレコーディングスタジオに入るべきである。また、人間的な価値観が定まらぬうちに、多くのことを試しすぎるのも実は結構危険なのだ。

 

また、音楽の作法の他に、「表現性」というもう一つの欠かさざる要素も看過出来ない。この点において、ドーン・リチャードは「南部のシンガー」という特性を上手く活かしているのではないか。リチャードの歌に原初的なジャズやブルースの影響が含まれているか、もしくはアーティスト自身がそれらの音楽からの直接的な影響を受けているかどうかは定かではない。しかし、南部は南北戦争後から長期間、人種差別が根強かった地域であり、女性であれば、なおさらであろう。そういった地域に住むミュージシャンが、「南部出身の若い黒人女性が、音楽的にも、視覚的にも、芸術的にも、なりたい自分になれるようにしたい」と抜本的な地位向上を求めること、ないしは、本来の地位の獲得を主張することは、歴史的に見てもとても意義深いように思われる。しかし、そういった出発点は、優遇されたというよりも、不遇であったという思いをバネにして、それらのマイナスのエネルギーをプラスの方向に変換していこうという良心に求められるのである。さらに、個人と社会という二つの関係性において、「より良い権利を獲得しよう」と努めるのは、基本的人権の範疇にある称賛すべき行為である。およそ、すべての人間は幸福になる権利があり、もし、不遇な立場に置かれていると感じるなら、遠慮会釈なく、そのことを対外的に主張せねばならない。それが善良な社会を形成する市民の最低限の責務でもある。もちろん、それが単なる政治的な主張性に終始せず、「音楽の素晴らしさ」という一つの入り口を通して、多くの人々にそのことが伝われば、より理想的かもしれない。

 

ドーン・リチャードはソウルシンガーとしても傑出していて、とくに歌の持つ多彩な表現力を巧緻に駆使している。歌は、言葉になることもあるし、交流の手段、伝達の手段、感情表現、楽器にもなりえる。また、打楽器のようにビートやリズムを刻むこともできる。言葉を使うか否かによらず、考えの及ばないほどの未知の可能性を持っている。そして、リチャードは主張性を負の概念ではなく、正の概念に変換しようとしている。正の概念とは、端的に言えば、己が持ちうる能力や個性を駆使して、それらを社会的に還元しようという意味である。また、それは、一元的な役割に終始することはなく、他者と同じ性質になることもほとんどない。それぞれが違う役割と使命を持っていて、きわめて多彩なのである。そして、それは必ずしも、社会において平均的な能力を発揮するということではないのである。ドーン・リチャードのヴォーカルは、批判や譴責、あるいは内的なストレスの発散にあるわけではなく、それらの感覚を噛み締め、言葉の持つ意味を考えた上で、建設的な表現としてアウトプットする。もちろん、これは、歌手がパーフェクトな人間であると断定付けるものではない。しかしながら、それでも、現代社会ではあまりに言葉が粗雑に扱われることが多いのは事実だろう。それはつまり、自分の中で、なぜ、そういった感情が生じたのか、また、なぜ、そのような考えが沸き起こったのか、吟味する機会が少ないのである。つまり、自分の考えに一歩距離を置いて考えられず、すぐさま何かに過敏に反応してしまう。五分も経てば、もしかしたら、それは思い違いであったかもしれない、そういった吟味することがなく、何かに飛びつく。そんなことを続ければ、その人の人格はどうなっていくのか。そして、その吟味や解釈の時間を作り、建設的な意見を示すことが良識者としての規範であり、それが時間と共に人間的な気品や威厳、何より、その人の人間的な魅力を形作っていく。リチャードの歌は、罪を世に問うのではなく、より建設的な考えを啓蒙するための基礎やきっかけを作ろうとしているに過ぎない。そして、彼女の歌から感じられるのは、「善良な人間として生きるための道筋を作ろう」という意志なのである。

 

従来のデュオの役割ーーピアノの伴奏と歌ーーという関係性について言及するのであれば、一般的には「伴奏」と「歌」という二つの独立した演奏者の性質を反映するものであったが、このアルバムではその限りではない。基本的には、オーケストラの歌曲のように、伴奏と主旋律という関係性は維持されるが、時々、その役割を流動的に変化させる点に注目しておきたい。例えば、スペンサー・ザーンが、時には伴奏から主旋律に役割を移し替えたり、全体的なテクスチャの表情付けをしたかと思えば、それとは対象的に、ドーン・リチャードがスキャットのような技法を駆使し、テクスチャの表情付けをし、ザーンのピアノの演奏の雰囲気を強化したりする。これが作品全体の音楽に流動性を及ぼし、音楽を軟化させ、表現力の多彩さをもたらしている。


つまり、基本的には、リチャードの歌が主役で、ザーンもまたそれを明確に認めていると思うが、両者ともにスタンスを固定せず、それどころか自分の演奏や音楽の立脚点に固執しない。これが音楽に奥行きを与え、聴いていて飽きさせず、長く聴けるような深みを与えている。そして音楽を紡ぐことに関しても、両者には同水準の自負心があり、そのことを誇りに思っているはずだ。それが実際の音楽にも乗り移り、迫力味を付与している。両者の演奏や作曲における観念はピタリと合致し、音楽的な考えを上手く共有していることも、このアルバムを良質にしている要因でもあるのではないか。もちろん、それは独善的な考えではなく、他者に対する敬意を絶えず欠かさぬことが、アルバムの音楽に強固なイメージや結束力をもたらしたことは事実であろう。

 

実際的には、このアルバムは「Movement」であり、曲の寄せ集めではなく、音楽の流れを体現させている。しかし、いくつかのジャンルが含まれ、それらが渾然一体として外側に表出されているのは事実だろう。例えば、そのことが一曲目「Stains」から顕著にうかがえる。この曲は独立したトラックというよりも、全体の導入部となっている。リチャードの声は、ジャズのムードを反映させて始まるが、ザーンのピアノは古典的な雰囲気に充ちている。ピアノの調律でデチューンを強調し、蠱惑的な音のテクスチャーを作り出している。歌に対するピアノは旋律的な側面を強調しているが、全体的にはアンビエントに近いニュアンスが込められている。そしてゾーンのピアノは、クラシックやジャズを織り交ぜ、ジャズからソウルへと変遷を辿っていき、リチャードのボーカルを巧みに引き立てる。それらにゴージャスな感覚を付与するのが、かすれたストリングスだ。これらの組み合わせは、明晰な音楽というより、抽象化された音楽の性質を強めるような働きをなす。いわば、このアルバムを聴き始めると、ぼんやりとした抽象的な空間が音楽の背景に浮かび上がってくるような錯覚を覚えるかもしれない。これは本作の主題となる「ノイズにまみれた世界の中にある静寂」の観念の立ち上がりの瞬間となり、厳密に言えば、「夢のような音楽」を聞き手に提供する出発点となる。これはシュールレアリズムやアンドレ・ブルトンのような原初的な抽象主義や象徴主義を音楽でかたどったかのようだ。

 

こういった手法はアンビエントで用いられる場合が多い。三次元の空間に別次元の空間が出現し、その向こうにある音楽に私達は恐るおそる手を伸ばすことになる。しかし、そのおぼろげでミステリアスな空間から聞こえてくるのは、慈しみと愛、そして柔らかさや優しさに溢れるピアノのモチーフである。続くタイトル曲で、大規模のコンサートホールのようなアンビエンスを施した空間処理の中、ザーンは沈痛に充ちたピアノの伴奏を始め、リチャードのダイナミックなボーカルを導く役割を担っている。


まるで、その期待に応えるかのように、リチャードは内的な痛みを捉えたヴォーカルをピアノに呼応させる。音楽そのものは、両者の演奏と歌を通じて繰り広げられる感情表現であり、それらはストリングスのかすれたトレモロや、ネオソウル風のコーラスによって美麗で高らかな感覚へ跳躍してゆく。いわば、最初のモチーフでは、悲哀とやるせなさが起点となっているが、これらが精妙な感覚を持つソウル・ミュージックへと上昇していくのである。アウトロのゾーンの演奏も哀感に満ち溢れ、イントロと呼応するかのように淡い余韻をもたらす。悲しみの余韻は立ち消え、それと立ち代わりに、アンビエント風のイントロが立ち上がる。すると、まるで場面が突如切り替わるように、開けた屋外や自然豊かな場所が私達の目の前に出現する。「3- Traditions」は対象的に、明るく、輝かしい光に充ちたポピュラー・ソングである。リチャードは時々、その中で、ソウルというよりも、R&Bの古典的な歌唱法を駆使しながら、本格派の歌手としての才覚を遺憾なく発揮する。それらに新鮮なニュアンスをもたらすのが、ゾーンのピアノの伴奏、そしてギター、さらにはアンビエント風のシンセ・テクスチャーである。これらは地にあった感覚を離れて、天上を歩くかのような晴れやかな気分を沸き起こらせる。

 

 

 

「4-Diet」は目の覚めるような曲で、本作の重要なハイライトの一つ。この曲は今年度のソウルミュージックの最高峰に位置するといっても差し支えないだろう。ダイエットの非日常的な話題に触れながらも、対極にある「R&Bの啓示的な本質」を呼び覚ます。ザーンの調律を変えたピアノで始まり、リチャードのヴォーカルの主旋律に対し、補佐的な対旋律を描くことがある。しかし、全般的にこの曲を強固に支えているのは、低音部の和音である。エレクトロニックのアルペジエーターを曲の途中で挿入し、これらの音楽形式に前衛性をもたらしている。シンセサイザーのアルペジエーターは、リチャードの歌の周囲を取り巻きながら、感情的な表現、及び、リリシズムに色彩的な効果を及ぼしている。両者の多彩な才覚が合致した非の打ち所がない一曲だ。

 

 

「Diet」

 

 


テープ(アナログ)ディレイで始まる「5-Stay」は、イントロの渦巻くようなサウンド効果のあと、エレクトロニカ風の曲調に続く。しかし、リチャードのヴォーカルは、ネオソウルの系譜にあり、現代的なエレクトロニックを内包させたブラックミュージックの一貫として展開される。この曲では、スペンサー・ザーンのマルチ奏者としての才覚の一部であるシンセ奏者とプロデューサー的な趣向が色濃く反映されているように思える。いわば、リチャードの本格的なソウルの歌唱に対して、ミニマル・テクノやミニマル・アンビエントのテクスチャーを音楽の背景に敷き詰めている。アルバムの中では、インタリュードーー曲と曲のつなぎ目ーーのような役割を果たしている。

 

「6-Life In Number」は、エリック・サティの「ジムノペティ」の系譜にあるピアノの演奏で始まる。それに続くのは、ドーン・リチャードのニューオリンズ・バウンスの語りだ。ゾーンの演奏は基本的に精妙な感覚に縁取られているが、時々、アナログディレイのアンビエンスを織り交ぜ、通奏低音のような役割を持つリチャードのスポークンワードを補佐している。この曲は、従来の音楽ジャンルにはなかった形式で、「アンビエント・ヒップホップ」の誕生の瞬間と言えそうだ。ただ、これはすでにダニー・ブラウンが昨年リリースした『Quaranta』で暗示していた手法であるが......。

 

  「7-Moments For Stillness」は、ストリングスを編集においてデチューンしたドローンである。これは米国のローレル・ヘイローや日本のサチ・コバヤシに比する手法で、ドローンミュージックの形式が選ばれている。この曲もまた、 インタリュードやムーヴメントの役割を持ち、曲と曲のつなぎの役割を果たしている。なぜ、こういった曲を入れるのかといえば、核心を突く楽曲ばかりだと聞き手が疲弊してしまうからである。しかし、単なる間奏的な曲とも言い難いものがあり、アルバムにバリエーションを与えているのみならず、収録曲全体に何らかの働きかけをしている。その後、アルバムは終盤に差し掛かり、オープニングに見受けられるような、ペーソスに充ちたネオソウルをベースに、音楽そのものがダイナミックさと迫力味を増していく。その音響効果を担うのがシネマ・ストリングスだ。続く「8-The Dancer」では、シネマティックな音楽の性質が強まり、リチャードのヴォーカルが主役となる。それは舞台の後ろにいたはずのリチャードにスポットライトが当てられ、舞台の中央に出てくるような演出効果である。そのあと、それとは対極的な音楽表現が登場する。氷のように冷たい響きを持つザーンのアルペジオをもとに、シネマティックなポップスが構築される。「9-Breath Out」は、音楽における演劇性が確立された瞬間であり、ポピュラー音楽の範疇で展開される。また、バレエ音楽の趣向もあり、何らかの登場人物の動きの効果を音楽が体現しているかのようである。これらは単一の音楽表現に留まることなく、ネオソウル、ジャズ、オーケストラというように、多角的なジャンルを内包させながら、音楽におけるストリーテリングのような役割を果たしている。

 

アルバムのもう一つのハイライトは続く「10-Ocean Past」に出てくる。フルレングスを制作する時に最も配慮したいのが、「ハイライトとなる前後の収録曲をどう配置するのか」という難題である。強い印象を持つ曲で、それがポピュラーとして平均的以上のものを有し、一般的な曲よりも優れている可能性があると分かっている場合には、少なくとも、その前の曲を強い印象で縁取るのは得策とはいいがたい。アルバムの収録曲は、一曲の中のクレッシェンドやデクレッシェンドのように「強弱の均衡」により成立しているため、強進行の曲と弱進行の曲がバランスよく配置されるべきである。このアルバムに関して言うと、続く「To Remove」は、弱進行に該当し、次曲の期待感を徐々に盛り上げるような重要な役割を担う。つまり、イントロダクションや導入部を設け、続くハイライトへの呼び水となり、次に何がやってくるのかという期待感を聞き手の感覚にもたらすのである。アンビエント風のシークエンスで一つの音楽の流れを形作ってから、アルバムのもう一つの本質である「Ocean Past」が続いている。前の曲の雰囲気を巧みに引き継ぐかのように、この曲は静かなイントロで始まり、その後、驚くべき変遷を辿っていく。ミステリアスな印象を持つピアノ、サクソフォンの断片的な演奏の導入、いわばアヴァンギャルドな雰囲気を漂わせながら、それらのミステリアスな感覚を縁取るリチャードのメロウなソウルフルなヴォーカル、彼らは二人三脚で、一大的なポピュラーの名品を作り上げていく。時々、トランペットのミュート、ストリングスの精妙なパッセージ、そしてボーカルやコーラスのサンプリング、多彩な録音を散りばめながら、感覚としては喜びと悲しみの中間域にある憂いのあるダークなポップスを完成させる。全体的な音楽性に関しては、その限りではないが、ゴシック・ポップのようなニュアンスに縁取られている。アルバムの中で最も傾聴すべき素晴らしい一曲である。

 

アルバムの冒頭がどのような曲であるのかを考慮しなければ良い作品を生み出すことが難しいのと同様に、アルバムの最終盤の曲も軽視出来ない。完璧な作品を作るのは難しいが、もし、中盤に、粗や欠点があろうとも、聞き手は終盤の感触が良ければ、それなりに満足感を覚えるからである。ただ、それは付け焼き刃であってはならず、聞き手に確かな手応えを感じさせねばならない。


そういった点では、「Try」はアルバムの中では最も聴き応えのある一曲だ。同時に一回聴いただけでは分からない何かがある。これは、スペンサー・ザーンとドーン・リチャードの持つ性質、器楽奏者としての多彩さ、シンガーの文化性の多彩さ、これら二つの個性が合致し、花開いたのである。オーケストラ風の表情付けから、金管楽器のサンプリング、トラディショナルの範疇にあるリチャードの声というように、このアルバムの副次的なテーマである流動性が的確に表現されている。コラボレーションアルバムの醍醐味というのは、異なる才覚を持つミュージシャンが偶然見つけた何かをレコーディングという形で収め、それを多くの人と共有することに尽きる。


 次いで、個人的な意見を言わせていただくならば、両者の才能がかけ離れた性質であるほど、美しい音楽が出来上がる。もちろん、その場合、お互いの性質や価値観の相違をしっかりと認め合うことが必要とされる。そういった意味では、リチャード&ザーンのコラボレーションは、彼らの精神性の高さが感じられるし、また、人間的な気品も備わっているため、理想的な音楽作品を制作しえたのだろう。願わくば、世界の人々がそういった善良な存在であれば、理想的であるのだが......。結論付けると、音楽というのは、制作者の理想郷を形作るための鏡なのであり、ユートピアが夢に過ぎないからこそ、こういった理想主義的な作品を制作する必要性に駆られたとも言える。それはもちろん、本作のタイトルにあるように、世界のノイズや煩わしさから解き放つ霊妙な力が込められているわけである。

 

 

 

 

95/100

 

 

 

Best Track- 「Ocean Past」