Weekly Music Feature:  Felicia Atkinson - Space As An Instrument

【Weekly Music Feature】  Felicia Atkinson

Felicia Atkinson


実験音楽家、サウンド&ビジュアル・アーティストのフェリシア・アトキンソン(1981年生まれ)は、ノルマンディー(フランス)の野生の海岸に住んでいる。2000年代初頭から音楽活動を開始。バルトロメ・サンソンと共同主宰するレーベル、シェルター・プレスから多数のレコードと小説をリリースしている。


フェリシア・アトキンソンにとって、人間の声は、風景、イメージ、本、記憶、アイデアなど、従来の意味での言葉を発しない多くのものと並び、その中にある生態系に息づいています。フランスの電子音響作曲家でありビジュアル・アーティストである彼女は、フィールド・レコーディング、MIDIインストゥルメンテーション、フランス語と英語によるエッセイ的な言葉の断片をコラージュし、彼女自身の声と対話しながら、これらの他の可能な声を活かすような独創性の高い音楽を制作しています。


彼女自身の声は、常に空間を作るために移動し、隅からささやくように、あるいは全然別の登場人物の口調になりきることもある。


アトキンソンは、想像的で創造的な人生を処理する方法として作曲を用い、ヴィジュアル・アーティスト、映画制作者、小説家の作品と頻繁に関わる。彼女の重層的なコンポジションは、時間と場所を交互に引き伸ばしたり折りたたむストーリーを語る。彼女は語り手ではあるが主人公ではない。控えめな登場人物として作品の中に現れる。


フェリシア・アトキンソンは、ジェフレ・カントゥ=レデスマ、クリス・ワトソン、クリスティーナ・ヴァンツォー、スティーブン・オマリーなどのミュージシャンや、エクレクト(ジュネーブ)、ネオン(オスロ)などのアンサンブルと共同制作している。INA GRM/Maison de la Radio(パリ)、Issue Project Room(ニューヨーク)、バービカン・センター(ロンドン)、Le Guess Who(ユトレヒト)、Atonal(ベルリン)、Henie Onstad(オスロ)、Unsound(クラクフ)、Skanu Mesz(リガ)などの会場やフェスティバルで演奏して来ました。彼女は、映画製作者(ベン・リバース、シーヴァス・デ・ヴィンク)やファッション・ハウス(プラダ、バーバリー)から作品の依頼を受けている。RIBOCA Biennale(リガ)、Overgaden(コペンハーゲン)、BOZAR(ブリュッセル)、Espace Paul Ricard(パリ)、MUCA ROMA(メキシコシティ)などの美術館、ギャラリー、ビエンナーレに出展している。


地球での生活で普遍的な体験のひとつは、首を傾げながら宇宙を見つめること。自分の内的生活の広大さと宇宙の広大さが出会い、瞬間、それらの視点は驚きと好奇心の中で融合する。フランスのアーティストで音楽家フェリシア・アトキンソンの最新アルバム『Space as an instrument』は、リスナーを、心が開放的で環境に対し受容的であるとき、そのような変容的な出会いの中で生まれる幻想的な風景へと誘う。夜空の広大さに吸い込まれるように、この音楽はイマジネーションを膨らませ、計り知れない神秘の中に心地よく身を置く手助けをしてくれる。


エレクトロニクスの断片や、発音された言葉の子音等、音楽の端々にある音と複雑に絡み合いながら、抑制された反復的なメロディーによって語られる。これらはアトキンソンの携帯電話で録音されたものであるといい、鍵盤の横や背後に置かれ、部屋の音が滲んで、不可思議な場所と時間を感じさせる。彼女はこれらのセッションを、「自分とピアノが交わり、渦巻くようなフレーズや茫漠とした不協和音を刻一刻と共創していく会議」と表現している。このダイナミズムを複雑にしているのが、ダイオードとLEDディスプレイという超現実的な空間に存在するデジタルピアノの存在である。デジタル・ピアノは、3次元のピアノのアバターとして機能する。


それでも、人、水、風といった人間の世界にある主要な元素は、楽器としてスペース全体で聴くことが可能です。多くの場合、これらの録音はエレクトロニクスの背景と一体化し、あるいは物理的な形態が不明瞭な動きの音に還元される。"Sorry "では力強い突風にマイクが緊張し、"Pensées Magiques "では見えない地形を横切るリズミカルな足音。これらのフィールド・レコーディングは、私たちを共感覚的体験の瀬戸際まで誘い、想像力の地形を垣間見せてくれる。しかし、アトキンソンの音楽は、このシーンに対する特異な視点や明確な結論に抵抗する。


「音楽、それは何も説明しない 」と彼女は言う。「しかし、それは私がそれを知覚する方法を、どうにかして翻訳しようとする」


アトキンソンはもともと多趣味で、日々のさまざまな芸術的実践に没頭し、互いに栄養を与え合っている。自宅の庭では、種を超えた関係構築のスローワークを行い、内省とさらなる創造に理想的な空間を培っている。アルバムのヴォーカルとエレクトロニック・エレメントの多くはそこでレコーディングされたという。


「日常的な意味づけの道具を謎めいたものにする能力がある」と彼女が高く評価する詩の形態は、音楽にも折り込まれている。彼女は時間の許す限り、絵を描いているという。アトキンソンが絵画に見出す個人的な限界のひとつ「遠近法の表現」は、彼女の音楽を定義する特徴になっている。聴き手の視点は滑りやすく定まらず、音は巨大にも極小にも、遠くにも近くにも見える場合がある。


この現象は、1時間半の演奏から削ぎ落とされた13分の作品「Thinking Iceberg」の中心的なもので、アルバムのレコーディングでは幽霊のような存在でしかない。アトキンソンは、オリヴィエ・リモーの著書『Thinking Like An Iceberg(氷山のように考える)』を受けて、この曲を書いたという。


この書籍では、哲学者がこの巨大で絶滅の危機に瀕した物体に主体性を与え、彼らが人間との千年にわたる関係をどのように認識するかを想像する。ストイックなシンセサイザーの音色が鳴り響く中、水はフレームから飛び出して、澄み切った存在感を放つ。作品が盛り上がると、アトキンソンのささやきが、リスナーの左耳の傍らに聞こえてくる。私たちは、巨大さと繊細さが、時間と人間性の犠牲の上にいかに共存しうるかについて、かすかな気づきを得るのである。


アトキンソン自身は、彼女の音楽は「理解できるかできないかの瀬戸際に位置する」と語っています。しかし、漠然とした空間には謙虚さと開放感があり、巨大な凍った水の塊の意識を理解するのに十分な共感があるのかもしれない。聴き手の視点がさまざまな方向に向けられることで、それもまた思いやりを育むための手段となり得るのではないだろうか? 彼女の音楽に静かに耳を傾けるとき、私たちは、崇高な体験……、無限の広がりと近さの根本的な並置の中にだけ意味があるのではなく、同じ旅をした無数の個人の連続性の中にも意味があるという大いなる知恵に出会うことになる。


以前、アトキンソンは、The Quietusの「目をつむり、見て」と題された過去のインタビューにおいて、アンリ・ルソー、高田みどり(注:  日本の実験音楽家。高野山の仏僧とのライブセッションをレコーディングに残している)からの影響、日本の切り花や生花からの影響を参照している。それはアトキンソンの音楽制作の道しるべとなり、空間の中でどのように音楽が聞こえるのか、音の各々のマテリアルがどこに配置されるべきか、という考えに反映されている。


これらはすべて、印象派/抽象派としての美しい音楽をアトキンソンが作曲するための足掛かりとなるイデアである。そしてまた、「そこにあるべきものが自然な形で存在する」、あるいは、「過度な脚色や華美さを平すように削ぎ落としていく」という日本の伝統的な建築形式や芸術様式の美学の反映も内在する。これは、「侘び寂び」と呼ばれる日本の美学の原点でもあるのです。



『Space As An Instrument』  Shelter Press   (90/100)

 

フランスの実験音楽家、フェリシア・アトキンソンは、ニューヨークとパリを往復することが多いらしく、定期的に移動するのが好きだというように話していた。28年ほどパリで過ごし、以後ブリュッセル、そしてレンヌに滞在している。「わたしの家の窓からは、素晴らしい庭が見え、何百羽もの鳥が住んでいた。しかし、プライベートプールを建てるためにすべての木がなぎ倒され、私の心は傷ついた」と彼女は語っている。「レンヌの建築は70年代までは面白かったが、以降は開発業者のための大虐殺。現在、不動産の投機のために美しい家が次々と打ち壊されている」 さて、時代を追うごとに外側の景色が変わっていく中で、変わらないものは本当にあるのだろうか。

 

新作アルバム『Space As A Instrument』は、外の景色が移ろっていく中で、変わらないものとはなにかを探求している。それは内側と外側の世界の合致する瞬間であり、内側の世界が静寂に包まれる時、初めて外の世界が同じように静かに見えることがある。録音という行為は、記録の代用でもある。瞬間に捉えられる音、言葉、外側の世界のフィールド録音、このアルバムの場合は、鳥の声、水の音等を中心に構成され、それらが電子ピアノとフェリシア・アトキンソンの声、アコースティック・ギター、マリンバ、あるいは、彼女自身の詩の朗読によって組み上げられる。37分ほどの記録.....、もしくは永遠の時間の中の瞬間的な歩み......、その不明確な空間に響きわたる、ないしは、こだまする電子音楽のテクスチャーは、基本的にはブライアン・イーノの系譜にあるアンビエントの技法や実験性の高いマテリアルを中心に構成されている。

 

しかし、音の運びが組み合わされると、どのジャンルにも属さないノンジャンルの音楽が出来上がる。抽象的な音の運び方は、ジョルジュ・デ・キリコの不可思議なシュールレアリズムの絵画の世界の中に飛び込むかのようだ。このアルバムにはそれほど多くの人も登場しないし、そして躍動的な生命の息吹を感じさせることも稀有である。しかし、同時にこのアルバムには、生命的なエネルギーの断片が刻まれている。そして実験音楽として、湯浅譲二や武満徹の実験工房時代の音楽を彷彿とさせる内容も登場する。しかし、その音楽は、アストリッド・ソーンの最新アルバムのように、表向きには不気味に聴こえる場合もあるが、実際的に建築やファッションの美的センスと図りがたい癒やしが共存する稀有な作品と呼べる。

 

アルバムの冒頭を飾る「1- The Healing」では、大自然の脈動(宇宙の本質的な活動でもある)を表すかのような木の音の軋みを録音したフィールドレコーディングにピアノの演奏が続く。ヒーリングミュージックを思わせるタイトルだが、幽玄なアンビエントピアノ風の悲痛なサウンドが続いている。その中に、フェリシア・アトキンソン自身のスポークンワード、詩の朗読が加わる。それは内的な痛みを感じさせ、背景となるアンビエンスに的確に溶け込んでいる。朗読は非常に淡々としているが、それは上記のような自然破壊に対する悲しみと嘆きが内在する。まるでその声は消えたもの、消えぬものの境界に揺れ動くかのよう。

 

「2- This Was Her Reply」は、マリンバの演奏で始まる。その後、アトキンソンの詩の朗読が続く。そして、「アルバムの録音」という行為の目論見が、発生した音を収録するのではなく、「一空間にある元素の実存を表す」というものである。どうやら、アルバムを聴くと、制作者は、原子や元素のような微細な要素から組み合わされる物質の総体が音楽であると考えているらしい。

 

ここでは、音楽という概念を構成する微細な元素の集積のことを「Ambience- アンビエンス」と呼ぶ。アトキンソンの制作する音楽の基底には、有機的な生き物、無機的な楽器が並置される。しかし、その両方に両極端の性質が存在し、それらの生命的なエネルギーや元素、そしてエーテルのようなプラトンが提唱したギリシア的な概念に培われる原初的な構成要素を収録する。


これが単なる音の発生にとどまらず、「有機体としての一つの空間」を生み出し、それらがテキサスの礼拝堂であるロスコ・チャペルのような不可思議な空間性を作り上げていく。特に、「空間の移動」という彼女の一つの人生の副次的な主題のような概念も偏在している。それは、アンビエンスの変化という側面で発生し、広大な空間から狭い場所へと瞬時に移行する。また、それらの空間的な移動を助長するのが電子音楽のテクスチャー。この曲の場合は、カールハインツ・シュトゥックハウゼンの「トーン・クラスター」の技法によって行われる。

 

このアルバムは、日常的な生活の周囲の音楽の他にも、山岳地帯にこだまするアンビエンスを描写したような曲も登場する。「3-Thinking Iceberg」では、ブルターニュ地方の山岳地帯を思わせるサウンドスケープがブライアン・イーノの系譜にある重厚なアンビエントにより描写される。これらは、バルザック時代のフランスの古典的な風景の名残りを描写音楽として活写したかのようだ。

 

シダの別名であるフジェールの茂る大きな森、古い苔に覆われた石の寺院、土壁を持つ風車、また、古典的なヨーロッパの美しきレンガの町並み、そして、スイスのアルプス地方にも見出されるような神秘的な光景を囁くようなスポークンワードで包み込む。それらは本来は離れた空間ーー広大な自然と彼女の住む生活空間ーーを結びつけるかのようでもある。しかしそれらは、神秘的ではあるが、歴史的な歩み、その最中にある憂愁のような感覚を刻印している。つまり、「内側の世界の視点を通して離れた場所を見つめる」ような不可思議なアンビエントなのだ。この辺りに「目を閉じると見える」というアトキンソンの作曲概念がうかがえる。曲の最後にはリュートを思わせるガットギター(バリトン)が優雅で神妙なエンディングを構成する。

 

 「タイル」を意味する「4- La Puile」では、透明な印象を持つアンビエント・ピアノが展開される。前曲での乖離した二つの空間の結合を基にし、この曲では、アトキンソンの神妙なスポークンワードによって、さらに瞑想的な領域へと差し掛かる。音楽が表面性に鳴り響くにとどまらず、その内側に入り込んでいき、より深い内殻の空間へと踏み入れていく。


いつしか、ピアノの演奏は鳴り止み、立ち代わりに、布をこすり合わせるような録音、オーケストラストリングスの役割を果たすシンセ、そして、偏在する孤絶を表したかのようなスポークンワードが神秘的に鳴り響く。アルバムの冒頭のように、シンセの響きは悲しみの印象を与えるが、対比的に導入される高音域に鳴り響く単一のピアノのフレーズはそれとは対象的に高らかな響きに縁取られている。前項の山岳地帯の雪解けの頃の季節が何らかの個人的な記憶と共鳴を果たす。神秘的でありながら、重厚感があり、催眠的な響きを兼ね備えている。そして、これらの悲しみが何によるものかはよくわからないが、推測すると、それらは最初に述べたレンヌ地方の自然破壊や変わりゆく町並みへのノスタルジアとも考えることが出来るかもしれない。


このアルバムには、声という器楽的な要素を用いた詩の表現を織り込まれている。一方、音楽そのものが詩のように鳴り響くのもまた事実である。そして制作者は、フィールドレコーディングも効果的に用いて、音によるストーリーテリングの要素を付与する。例えば、続く「5- Sorry」では、大気の粒子をフィールドのマイクロフォンで捉え、その空気音をキャンバスにし、音楽を絵画さながらに描写する。


フェリシア・アトキンソンを「印象音楽のペインター」と称するのは少し強引かもしれないが、それに比する印象もなくはない。そして、彼女は、冒頭をシュールレアリズムで表現した後、アルルの印象派の画家のように、丹念にサウンドスケープを描いていき、これらは、ゴーギャンのような「暈しの技法」を作曲技法に取り入れているといえる。要は明確に聴取出来る音楽ではなく、背景に滲じむ抽象的な音像を作り上げてゆく。また、このアルバムは沈鬱な印象を持つ収録曲が多い中、この曲はただひとつだけ、天国的な音楽性が感じられる。しかし、タイトルに見られるように、この曲の印象は少しずつ制作者の人生の変遷を捉えるかのように変わっていき、最終的には、感傷的なピアノの断片とシンセにテクスチャーへと変化する。


『Space As An Instrument』は、個人的な生活の体験を基にして、そこから汲み出される感情や気付きを基に、複数の離れた空間を移動するかのようである。それは、レンヌからパリ、パリからニューヨーク、ニューヨークからブリュッセルというように、実際的な空間の移動も含まれているかもしれないが、同時に、過去に行った場所、過去に起きた感情、それらをすべてひっくるめて重要な体験と見た上で、現在の制作者が実存する地点から目くるめくようなクロニクルを構築していく。要するに、このアルバムは、例えば、ダニエル・ロパティンが最新作『Again』で探求したような「アンビエントや実験音楽による年代記」と称せるかもしれない。多くの人は、現実を「現象」として見ていると思うが、それはプラトンも言うように、真実に暗く、洞窟の闇に住まうことを示唆している。もちろん、「過去の場所、感情、行動、思索の積み重ね」の連続が、人間にとっての「実存」を意味するのである。それが他者が知り得ぬものであるからこそ、アルバム全体に通底する音楽は、純粋なアートとしての意味を帯びて来るようになる。本作は、その後、前の曲の流れを受け継いで、アンビエント・ピアノが続いている。

 

「6- Shall I Return To You」は、本作の中では最もミステリアスな響きを帯び、実際的に不協和音が強調されている。このアルバムでは始めて、他者の明確な暗示が登場する。氷塊のような印象を持つアンビエントのシークエンスとデチューンを施したピアノが組み合わされる否や、形而上に存在する音楽が作り上げられる。実際的な実験音楽としては、ハロルド・バッドに近く、ピアノの演奏とリサンプリングが組み込まれている。そして、アルバムの中に、再三再四登場するように、微細で幽玄な雰囲気を持つヴォーカルが登場する。

 

アルバムは連曲のように前の曲が次の曲と密接な関係を持ち、何らかの関連性を持っている。それは人生が連続しているのと同様。音楽の存在は、そのほかの要素と無関係ではないだろうし、曲はトラックリストを経るごとに、神妙な領域に入り込む。そして、その音楽は何らかの心象風景を仮想のヴィジョンに映写するように、曲ごとに異なる空間、風景、記憶を呼び覚ます。

 

特に驚かされたのが、本作のクローズを飾る「7- Pensees Magiques」(魔術的思考)だった。この曲は2024年の実験音楽の最高の一曲である。不協和音を活用したピアノの旋律の進行、そしてアルバムの二曲目よりも明確に「トーン・クラスター」が登場する。

 

本作の心象風景は最後のさいごになって、自宅の庭へと移り変わる。鳥の鳴き声や階段を上がっていく音など、何らかの瞬間を暗示する日常的なサンプリングがサブリミナル効果のように挿入される。これが、音楽を解明するというより、謎めいた余韻を残す。音楽はすべて分かるというよりも、何かしら究明しきれない箇所があった方が楽しい。特に、曲の最後の唐突な足音を聞いて、何が想像されるだろうか。また、どのようなイメージが呼び覚まされるだろうか。

 


 

 

 



* 発売元のシェルター・プレスは、出版社のバルトロメ・サンソンとアーティストのフェリシア・アトキンソンが2012年に共同設立したレコードレーベル兼出版プラットフォーム。印刷出版物やレコードを通じて、現代アート、詩、実験音楽の対話を構築している。2021年9月より、Shelter Pressは、Ideologic Organ、Recollection GRM、Portraits GRMレーベルのリリースも手がけ、コラボレーションを行っている。