Jimi Hendrix(ジミ・ヘンドリックス)の1966年のクリスマス  エクスペリエンスの立ち上げと「Purple Haze」の誕生

 

 

1960年代をベトナム戦争の陸軍の精鋭部隊(精確には劣等兵だったという噂もある)として過ごした後、ジミ・ヘンドリックスは本格的にミュージシャンの道を歩み始めた。アイク&ティナ・ターナー、アイズレー・ブラザーズのバックバンドを経験した後、有名ミュージシャンのバックで演奏し、全米ツアーに同行した。リトル・リチャードのツアーにバックバンドとして同行したこともある。1966年7月、キース・リチャードの恋人だったリンダ・キースの仲介によりアニマルズのベーシスト、チャス・チャンドラーに見出され、9月にヘンドリックスは渡英した。当時、チャンドラーはヘンドリックスの演奏について次のように回想している。「ギタリストが三人くらい弾いているのかと思ったら、実際はジミ一人だけだったのに驚いた」 

 

ジミ・ヘンドリックスは、自分のブルースに根ざしたロックがイギリスの音楽シーンに受けいられるか不安に思っていた。ヘンドリックスは軍隊に従軍する前に、いくつかのアマチュアバンドを経験していたが、このとき初めて最初の自身のバンド、エクスペリエンスを結成した。ベースは、ノエル・レディング、ドラムは、ミッチ・ミッチェルが担当した。(何度かわざと除隊になるため、怠慢な仕事やわざと同性愛者のフリをするなど)長い軍隊生活でフラストレーションが溜まっていたのか、ライブバンドとしての活動を始めるや、ヘンドリックスは、潜在的なクリエイティビティを爆発させ、およそ数カ月間に、以降の代表曲のほとんどを書き上げたのだ。

 

デビューシングル「Stone Free」、「Purple Haze」、「Foxey Lady」、「The Wind Cries Mary」、「Highway Chile」、「Are You Experienced」などである。ほどなくライブ活動を開始した。彼のトレードマークで、ワイト島やウッドストックでの代名詞となる、きらびやかなサイケデリックな衣装、また、アグレッシヴにギターをかき鳴らしながら、ステージを所狭しと動き回るステージスタイルは、すでに最初期に完成されていた。この頃、デビュー・シングル「Stone Free」の全英チャート4位という偉業のお膳立ては整っていたのだった。

 

1966年、ジミ・ヘンドリックスは、生まれて初めてロンドンでクリスマスを過ごした。新天地での生活は彼に大きな刺激を与えたのは想像に難くなく、他のいかなる時代よりも活動的な時期を過ごした。彼はイギリス、フランス、ドイツを行来しながら、エクスペリエンスと一緒に制作した音楽を録音し、イギリスのファンに支持され、マスメディアからその実力を認められるようになった。

 

ヘンドリックスを含めたエクスペリエンスの面々は、この年、象徴的な年末を過ごした。ボクサーのビリー・”ゴールデンボーイ”・ウォーカーと、その弟フィルが共同経営していたロンドン北東部の「アッパーカット・クラブ」で演奏する機会を得た。 元々、アイススケートリンクを改築したこの会場は、オープニングセレモニーを終えたばかりで、ストラトフォード・エクスプレス紙に「豪華なビッグ・ビートの宮殿」と称されるほどだった。ここでは月曜日の定例イベントが開かれていた。「ボクシング・デー、家族みんなでご一緒に」と華々しい広告が打たれたアッパーカットのポスターには、午後のイベントとしてエクスペリエンスのショーが予告されていた。入場料は、男女ごとに分けられ、紳士は5シリング、婦女は3シリング。この週のイベントには、他にも、The Who、The Pretty Things、The Spencer Davis Groupが出演した。

 

驚くべきことに、彼の代表曲の一つ「Purple Haze」は、午後4時に始まるショーの開始を待っている合間に書き上げられた。「紫のもや」について、ヘンドリックス自身は「海の中を歩いている夢について書かれた」と公にしている。この時期、サンド社が同様の文言の入ったカプセルを販売しており、LSDの暗喩ではないかというの説もあるが、それだけではない。彼のロンドンとの出会いに触発され、「クリスマス・キャロル」などの著作で知られるチャールズ・ディケンズの「大いなる遺産」(1861)の54章の一節から引用された。「There was the red sun, on the low level of the shore, in a purple haze、fast deepening into black..」(海岸の低い位置に、紫色の靄に包まれた赤い太陽があった)という箇所に発見出来る。

 

ヘンドリックスのルームメイトでマネージャーを務めたチャンドラーによると、彼はすでに、10日前には「Purple Haze」の象徴的なギターリフを思いつき、ある程度曲のイメージがまとまっていたという。この曲の誕生について、次のように回想している。「その日の午後、彼が楽屋でリフを演奏しはじめたので、私は’’残りを書いてほしい’’と言った。彼はそのことばに素直に従った」 この曲では、西洋音楽としては、一般的に忌避されるトライトーン(3全音とも言われる。減5度、増4度の進行をいう。中世音楽では悪魔の進行とも呼ばれ、和声法の禁則的な事項として知られる)が登場し、後に「ヘンドリックス・コード」と呼ばれるようになった。

 

デビュー・シングル「Stone Free」はイギリスで受けが良かったが、「Purple Haze」に関してはアメリカで支持された。シングルとして発売されると、ビルボードホット100で65位にランクインし、デビューアルバム『Are You Experienced』の収録曲としては最高位を記録している。結果的に、1stアルバムはビルボード200で5位にラインクインし、500万枚の売上を記録、一躍両国でジミ・ヘンドリックス&エクスペリエンスの名を有名にしたのだった。 


歌詞の側面ではジミ・ヘンドリックスは相当この曲に苦心した形跡がある。それは当初のサイケデリックなイメージをどのように昇華するのか、言葉をまとめ上げるのがスムースにいかなかったことが要因でもある。当初、ヘンドリックスは「Purple Haze」のために1000語を費やしたが、結局、最終バージョンでは100語に削られた。そもそもヘンドリックスの音楽では言葉は補足的であるため、多くの歌詞を必要としないのが特徴である。ヘンドリックスのロックの核心は、そのほとんどがギターリフによって語られると言っても大げさではないのだろう。