・ブラジルのトロピカリア ポスト・コロニアニズムと創造的な自由の獲得
アフリカの国々の事例を見ると分かる通り、従来の植民地支配から脱出した国家は、西洋主義による支配から離れ、独立した文化を構築する必要性に駆られる。結局のところ、海外文化に触発された後、独自のスペシャリティを探ることなくして、国家の文明は確立しえないことを象徴づけている。そして、ここで大切なのは、外側の文化や文明に揺さぶられることなくしては、本当の意味での独自の文明を獲得することは困難であることである。
例えば、今回のテーマとなる南米のブラジルの場合は、音楽や芸術運動、舞台、文学活動とならび、1960年代後半に独立的な意義を求め、こういった急進的なムーブメントが若者を中心に沸き起こった。それがトロピカリア(トロピカリズモとも称される)ーー熱帯主義ーーであった。例えば、音楽に関しては、旧来のブラジルの伝統的なボサ・ノヴァに否定的な趣旨もあるという見解も見受けられるが、必ずしもそうとはいいがたい。当時、流行したビートルズのロックと合わせて、ボサノヴァをよりアーバンにという趣旨も含まれていた。これは西洋的な音楽的な感性や感覚を踏まえた上で、ブラジル独自の音楽表現を追求するという動きであった。
1960年代後半に始まったトロピカリアは、軍事政権下のブラジルにおいて、およそ5年ほどの短いムーブメントで終わった。その理由は、これらの運動の政治的な弾圧が始まり、トロピカリアの中心人物、ジルベルト・ジル等がイギリスへの亡命したからである。(後に、ジルベルト・ジルは1969年に短期間の投獄という憂き目にあったが、社会的な信頼は回復し、2003年から2008年にかけて、ブラジル国内の文化大臣を務めた)しかし、この考え自体は次世代にも受け継がれ、ネオ・トロピカリアとして新しいアートの形式を支えることになった。
こういった新しい運動や主義が発生する要因として、”成熟した社会意識”というものが不可欠になってくる。つまり、大きな観点から言えば、個人、大小の組織、社会がどのように繋がるべきか、そして社会的に置かれている環境や立場を把握し、国家の文化、海外の文化や政治的な動向を鑑みた上で、自分たちがどのような位置にあるのか、そして、上記の二つの観点を踏まえた上で、どのようなアクションを起こすべきかという意味である。
結果として、社会に反映されるのは、文化活動の諸般ーー音楽、演劇、文学、建築、芸術、ジャーナリズムーーなどである。個人的な能力や役割によって、成熟した社会意識が多彩な形で出現するのは言うまでもない。これはたぶん、広義の意味での企業活動においても共通する事項ではないだろうか。そして、全体的な社会構造を鑑みたとき、個人的な立場、あるいは組織的な立場がそれぞれまったく異なるため、外側に出てくるものは必ずしも同じ内容にならない、ということである。
・成熟した社会意識とは何か ブラジルの60年代のトロピカリアの事例
オズワルド・デ・アンドラーデ |
この点において、60年代から70年代にかけてブラジルで発生した”トロピカリア”という運動は画期的だった。 それは社会に生きる人々が、自分たちが置かれている状況を明確に把握し、認識しているということでもあった。そして、実際的にどんなアクションを起こすべきかを考え、出来る範囲において実践したことである。これは上手い例えが見つからないが、自分たちが置かれている立場に無自覚な人々には、成熟した社会意識というのが芽生えることは稀である。なぜならもし、集団や組織に対し、個人(自分)がどのような存在であるのかを考えることなくしては、より良い提言をもたらすこと難しいし、また、アクションを起こすことも出来ないだろう。つまり、成熟した社会意識を持つために必要なのは、自己、集団、組織を俯瞰する視点であり、外側からそれが明瞭に見えたときはじめて、意義のある行動が可能になる。
60年代のブラジルでは、急進的な表現が生み出されるための素地が整っていた。戦後のブラジルでは急速に経済発展が進む。しかし、2000年以前の中国の都市部と農村部の貧富の差という事例を見ると分かるように、ブラジルでも貧富の差が拡大していた。 経済発展は富裕層やエリートに恩恵を与えたが、一般的には経済的な恩恵が降り注ぐことはなかった。こんな中、1961年にジョアン・ゴウラ―トが大統領に選出されると、急激に社会の風向きが変化した。当時、ゴウラ―トは、多くの社会政策とソビエトとの和解を提唱していた。これが冷戦下、アメリカとソビエトという覇権争いに緊張関係をもたらした。事実としては、ゴウラート政権は短命に終わる。カステロ・ブランコ元帥がクーデターを起こし、軍事政権へと移行した。
こうした中、新しい軍事政権がいくつかの音楽を「左翼的」であるとし、制限をかけたのはソビエトと同様だった。1950年代を通じて、ブラジルでは伝統的なサンバに続いて、ボサノヴァが流行していた。これは、ブラジルのバッハと言われるヴィラロボスに始まり、ヴィニシウス・モラエス、カルロス・ジョビン、ジョアン・ジルベルトが推進した音楽運動であった。だが、新しい軍事政権はボサノヴァを知的で左翼的であると見なし、国内外に影響力が広がるのを抑制し始めた。この流れの中で、トロピカリアの中心人物であったジルベルト・ギル、チコ・ブアルケ、カエターノ・ヴェローゾは、政権が創造的自由を侵害していると考え、 ボサノヴァに続く新しい音楽運動への道筋を切り開こうとした。そのためのヒントになったのが、ヨーロッパからの輸入音楽だった。彼らはイギリスなどのポップ・ミュージックを起点にし、ロック、サイケ、ソウルの領域を押し広げながら、「トロピカリア」という形式を生み出した。
その音楽運動の発端となったのは、オズワルド・デ・アンドラーデというサンパウロの小説家/文化評論家が提唱した食人主義、より穏当に言い換えれば「文化を吸収する」という概念であった。オズワルドは、1928年に「O Manifesto Antropófago(マニフェスト・アントロフォギコ)」を出版し、ポスト・コロニアリズムの観点から自国の文化の変遷を鋭い目で直視していた。オズワルドが主だって提唱したのは、「文化的な共食い」という概念であった。これは出来れば悪い意味だけで捉えてほしくない。そこには中間主義という考えが出てくるからである。
要約してみると、外国文化を吸収しながら、自国の文化と重ね合わせるという考えで、これはブラジルでは自国の文化を形成するための基盤のような考えでもある。特に、トロピカリアの概念の中でも、重要視したいのが、二分化を超越するという考えとなるだろうか。ブラジル文学を専門とするジュリオ・セザール・デイニッツは、トロピカリアという表現運動が発生した要因について、「古風ー現代、国内ー海外、エリートー大衆という対極的な考えを克服する」ためだったと指摘している。 つまり、重要なのは、二元的な考えを離れていき、それらの融合を目指そうという考えが、トロピカリアの根底にあったのである。さらに、アナ・デ・オリベイラは、トロピカリアについて説明している。「歌は伝統的で古風なブラジル、大衆的な文化を持つブラジル、そして、宇宙飛行士、空飛ぶ円盤を持つブラジルの連合という、国家の批評的で複雑なイメージを示した。彼らは、私たちのポピュラー音楽の洗練された事例を示した。彼らは、それまで前衛主義にしか通用しない考えを、商業音楽としてもたらしてくれました」
1968年に、カエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ギルは『Tropicalia: ou Panis Et Cercencis』を発表し、正式にトロピカリアという名称が音楽的な活動の一環として組み込まれた。本作はオムニバス形式で発売され、ブラジル国内の最初のコンセプト・アルバムだと見なされている。国内のムーブメントを担う有名ミュージシャンが参加したビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967)に触発されて制作され、セルソ・ファヴァレットは本作を「トロピカリアの集大成」と評する。ただし、後年、ムタンチスのセルジオ・ヂアスは、同作について「政治的には意味はあったが、『サージェント・ペパーズ』のような音楽的な記念碑となるまではいかなかった」と自省的に語っている。しかし、商業的にはかなりの成功を収め、1968年10月の時点で2万枚を売り上げる大ヒット作となった。
実際的な音楽については、 意外とビートルズっぽくないのが分かる。それ以前のヴィラロボスの作風を受け継いだ古典的なブラジルの音楽、そしてフランスのイエイエ等を交えた楽曲もある。むしろ、ビートルズに触発された点があるとすれば、それは音楽の雑多性にあると言えるだろう。これらのヨーロッパとブラジルの音楽を融合させた形がトロピカリアの魅力でもある。
しかし、トロピカリアは全般的に国内ですんなり受け入れられたとは言いがたい。新しい運動に同調する人々を惹きつけた一方、伝統的な人々には反感をもたらすことになる。これはビートルズが初来日した時と同じ類いの現象である。また、日本の音楽でも、それまでは演歌や歌謡が中心だったが、ロックやジャズのイディオムが、自然に民衆音楽の中に入り込んだ現象と同様だ。しかし、ブラジルで発生したトロピカリアーー熱帯主義ーーは、国内で好意的に受け入れられたとは限らなかった。当初、賛否両論を巻き起こし、右派、左派の双方に敵を作ることになった。明確な政治的な立場をとる人々にはあまり評判が良くなかったというのである。
その後、トロピカリアは軍事政権によって、1968年に運動を鎮圧されることになった。ジルベルト・ギルはロンドンに亡命し、この運動の推進者の一人、カエターノ・ヴェローゾも同じく亡命した。しかし、影響力は収まらず、ガル・コスタ、ホルヘ・ベン、ジャーズ・マカレ、トム・ゼなどがトロピカリアの風潮を受け継ぎ、ブラジル音楽に新しい気風をもたらした。
トロピカリアは、フェラ・クティがアフリカで体現した小さな王国、アフロ・フューチャリズムと奇しくも大きな共通点がある。フェラ・クティの場合は、レコード会社や政府に管理されぬ独自の王国という形で、独創的な表現形式として表れ出た。他方、トロピカリアに関しても、ポスト・コロニアリズムの観点から、本来であれば反目するはずの二つの要素ーー海外主義と国内主義ーーという対極の概念を結びつけようとしたのだった。 これはグローバリズム、ナショナリズムという対極の概念しか存在しえないと考える現代人に大きなヒントがある。ここには、ブラジルらしい「折衷主義」という新しい概念を見て取ることも出来るかもしれない。西洋主義の観点から言えば、物事は白か黒であるが、実は物事は他にも多彩な中間色がある。
・アートから見るトロピカリア ヘリオ・オイチシカの立体主義
トロピカリアという表現運動は、表面的な形式とは言いがたく、一つのイデアのような形で後のブラジルの文化のある側面を形成していくことになった。その後、必ずしも音楽の範疇にとどまらず、絵画、演劇、映画を中心とするブラジル国内の主要なアートや文化運動全般に強い影響を及ぼし続けた。それはベアトリアス・ミリャーゼズの活躍を象徴されるように、コンセプチュアル・アートの領域に属し、「ネオ・トロピカリア」という呼称で知られている。 2000年代以降もトロピカリア(熱帯主義)は、何らかの形で現代のブラジルに受け継がれている。
1960年代後半にトロピカルイズム運動と共鳴したのが、美術家のヘリオ・オイチシカである。彼の芸術は、コンクリート・アート(コンクリート主義)とも言われ、図形主義を基にするという点で、カンディンスキーとの共通点も見出される。しかし、カンディンスキーが平面的な図形主義を中心にアート活動を展開したのに対し、オイチシカの芸術は立体主義の範疇に表現領域を広げ、パブロ・ピカソの象徴主義を立体化し、建築的、空間的な造形芸術を展開させた。
この中には、インスタレーションの形式も含まれ、ヘリオ・オイチシカの場合は、ペネトラブルと呼ばれている。オイチシカの芸術形式は、従来のアートが平面的であり、静的な表現主義に留まるのに対し、ピカソや太郎の芸術的な主題である「生きている有機物」という側面をより強調させている。実際的に、平面という二次元の形態を飛び出し、三次元の立体性へとアートを変化させた。1960年代後半まで、オイチシカの芸術は平面主義にとどまっていたが、それ以降、立体主義へと移行する。その中で、色彩的な要素という側面を強調させ、原色を中心とした目の覚めるような色彩を導入した。オイチシカは「複雑な人間の現実性を表現する」というテーマを自身の作品の中に組み込もうとした。また、文化的なものを生み出すという彼の主題は、現代的なアートが社会的な意味と密接な関係を持つことを象徴付けている。ただ、オイチシカの場合は、必ずしも客観主義を是認するものとはかぎらないことを付言しておきたい。
「トロピカリア」という呼称は、国内のミュージックシーンで使用される以前に、オイチシカが芸術作品で使用したことがあった。1967年にリオデジャネイロで展示したアートワークに「トロピカリア」の名称を用いた。この言葉は、熱帯の楽園としてのブラジルの典型例として取り入れられた。ある意味では、オイチシカは「トロピカリア」を地上の楽園のシンボルとして広めようとした。その後、カエターノ・ヴェローゾがこのトロピカリアを曲のタイトルとして借用し、熱帯主義を象徴付けるに至った。これは全般的には、ミュージシャン、アーティスト、作家等が連動して、政治的な抑圧に際して、自由を獲得するための道のりの始まりであった。
カエターノ・ヴェローゾは、最初のブラジルのトロピカリアの動向について、後に次のように回想している。「ヘリオがしていたことは、自由への欠如、そして自由への敬意にかけたものに対する過激な反応のようでした」これもまた、熱帯運動を推進したアーティストに、成熟した社会意識があったからこそ、こういった表現主義が沸き起こったわけである。もちろん、本記事は、過激な行動を推進するものではない。だが、芸術や音楽運動は、既存の見解や風潮とは別軸の側面を示すことなくしては、未知の表現主義が生み出されることはないとも言える。