・有名ミュージシャンに愛されたロードトリップの象徴 Route 66
シカゴからカルフォルニアに続く「Route 66」は、カーマニアには聖地のような場所である。かつてジョン・スタインベックが『The Grape of Wrath(怒りの葡萄)』でこのハイウェイを題材に取り上げた。
作中では、オクラホマの農民がカルフォルニアに向かい、ハイウェイを横断する話が書かれている。スタインベックは風景描写に定評があり、市民の暮らしとアメリカの風物の美しさを社会的な時代背景とリンクさせながら丹念に描いた。今やルート66は過去の遺構となり、現在ではカーマニアが集い、マザーロード・フェスティバルが毎年9月に開催される。その道半ばには、ダイナー、モーテルが点在し、今なアメリカのロマンティシズムを地政学的に象徴付けている。
つくづく思うのが、アメリカは自動車産業とともに発展していった国家でもある。その遺産はテスラ・モーターズに受け継がれているが、このルート66が愛された理由も、余暇に大陸を横断するハイウェイをクラシックカーで何日もかけて走るという営為が、アメリカ的なロマンティシズムの象徴でもあった。
そして、「American Graffiti(アメリカン・グラフィティ)」で描かれるような富裕感覚ーー収入を車に費やすということ自体が、大きな憧れのようなものでもあったのである。自動車を個が所有する行為自体が、経済発展の象徴を意味し、これはシンクレア・ルイスが自動車に夢中になる若者と、家族制度の変化、教会制度の崩壊、という鋭いテーマを交え描いた。そして、アメリカ人が変化していく現状を、社会学の観点からシニカルに切り取ったのだった。この時代、明らかにアメリカは世界一の経済国家になる過程にあり、それはまた物質的な価値観が隆盛を極め、旧来の価値観が崩壊していくという新しい生活様式を予見していたのだった。
ルート66は産業発展の象徴である。オクラホマの実業家であるサイラス・エイブリーはドイツのアウトバーンのような幹線道路を建設を思いつく。1910年には、一般道路の自動車の通行が増加しつつあった。実業家のエイブリー氏は、道路整備の重要性を提唱していた。彼は幼い頃、よくワゴンでオクラホマから西に向かった。そのときに見た光景から理想的なルートが脳裏に浮かんだ。シカゴからロサンゼルスにかけて2448マイルを横断する壮大なハイウェイの建設である。時代の需要も要因だった。1910年、米国では50万台の自動車が登録されていた。1920年頃には爆発的な普及を見せ、1000万台に到達した。この統計だけでもいかに一般家庭に自動車が普及しつつあったのか、手に取るように分かるのではないだろうか。
1926年に最初の区画が開通した。しかし、1929年にはウォール街に端を発する恐慌が起こり、中西部から数十万人もの移民が発生した。彼らは出稼ぎのために、より大きな街を目指した。そして、1933年から1937年にかけて、ルーズベルト大統領は不況解消法を制定し、失業者を中心にハイウェイの建設が進められた。幹線道路が建設された後、中西部から多くの農業従事者がカルフォルニアへと向かった。それはスタインベックの「怒りの葡萄」にも描かれているような情景であったに違いない。しかし、こういった重要な交通網としての役割の他にも、ルート66はもうひとつの役割を持っていた。この幹線道路は観光名所として親しまれたのだった。
そうした中、世界大戦中、アメリカ人の一般的な娯楽が自動車とロードトリップに費やされたのは当然の成り行きだった。ビートニクスの象徴的な作家、ジャック・ケルアックが「オン・ザ・ロード」で、ルート66を取り上げたことによって、ある意味ではポップ・カルチャーの象徴ともなり、インテリ層の注目を惹きつけることになった。それ以降、1985年にハイウェイが廃止されるまで、 アメリカの経済成長の象徴でもあり、ロードトリップの象徴として、ルート66は多くの人々に親しまれた。写真に見られるように、いかにもアメリカ的な風物である。
・音楽的な題材としての「Route 66」 ナット・キング・コールからチャック・ベリー、ローリング・ストーンズ 時代とともに移り変わるテーマの変化
まず最初にルート66に注目したのは、アラバマ出身のジャズ・ボーカリストの巨匠、ナット・キング・コールだった。1946年、戦争が終わった直後、ボビー・トゥループという人物が「Route 66」を作曲し、それをナット・キング・コールが歌った。彼は、出稼ぎ労働者のロマンを情熱的に歌った。新天地を目指す市民の憧れをこの曲でムードたっぷりに歌い上げている。
曲としては、スタンダードなジャズであることが分かる。歌詞はご当地ソングのようでもある。旅に誘う内容で、途中には沿線各地の地名が登場する。シンプルなリフを基調とする親しみやすい曲調、軽快かつコミカルな歌詞とが好まれ、キング・コールのヒット以来、半世紀以上に渡って歌い継がれることに。 音楽的に言えば、渋く、古典的なジャズのリズムが特徴となっている。
原曲を聴くと分かるが、歌詞の内容も情緒と興趣にあふれている。田舎から都会に出稼ぎ労働のために出ていこうとする若者の心の機微とうまく呼応している。そして、歌詞の重要なポイントは、「シカゴからロサンゼルスに向けて車を走らせようぜ。きっとワクワクする冒険が待っている」という箇所である。ナット・キング・コールは「西海岸に向かうと良いことがある」とも歌っている。 本当に良いことがあったかは分からないが、西海岸は、憧れの象徴の土地でもあったことが分かる。現在では、その土地のことが容易にわかってしまうこともあるが、当時ではそうではなかったのだろう。そういった側面では、想像の余地がこの曲のロマンティシズムを与えた。必ずしも知っているということばかりが、良いとはかぎらないということがわかる。
Nat King Cole 「(Get Your Kicks On)Route 66」 (Original)
「Route 66」はそれ以降、カバーソングの重要なレバートリーとして語り継がれることになった。また、次にこの曲のカバーに取り組んだのが、ご存知、ロックンロールの帝王、チャック・ベリーである。この曲は、ロックンロール最盛期(1955~56年)のあとにカバーソングとして発表された。
チャック・ベリーはエルヴィス・プレスリーと同じく、RCAからデビューし、一躍「ロックン・ロールの帝王」として知られるようになった。ベリーがテレビに出演した時、88%もの視聴率を記録した。彼はまさしく、1958年までに国民的な歌手として知られるようになった。しかし、実は、全盛期以降の活躍に関しては賛否両論がある。1960年以降、ベリーは、R&Bに傾倒することもあり、国民的なスターではなく、本格派のプロミュージシャンとして活動を続けた。そんな中、このカバーソングは、ロックンロールの魅力を余すところなく凝縮している。
Chuck Berry 「Route 66」
最も注目すべきは、ナット・キング・コールの原曲は、出稼ぎ労働に出かける人々のロマンに焦点を当てている、他方、チャック・ベリーのカバーは、より都会的なムードを醸し出している。つまり、このカバーは、1961年のアメリカの都会的に洗練されていく若者を歌っているのではないか、ということ。つまり、チャック・ベリーは、幹線道路にまつわる時代の変化の推移をストレートなロックソングに込めて、それをリアリスティックに歌い上げたということである。
続いて、この曲はローリング・ストーンズによってカバーされた。しかも1964年のデビューアルバム『The Rolling Stones』の一曲目でである。ある意味では、この一曲目のカバーが後のストーンズの運命を決定付けた可能性があると指摘しておきたい。というのも、1960年代のロックバンドは、最初、カバーから出発するのが王道であった。ビートルズはいわずもがな、ローリング・ストーンズもカバーから出発した。
つまり、当時は、カバーから始まり、その後、ライブ等で実力をつけ、オリジナルを増やすというのがスターを生み出すための戦略だった。
しかし、どの曲をカバーするかによって、そのバンドのキャラクターのようなものがはっきりと浮かび挙がってくる。「Route 66」のカバーでのミック・ジャガーの歌い方は、チャック・ベリーを少し意識している。このカバーは、海外から見た異国への憧れを暗示しているように思える。最初は、出稼ぎ労働者、都会的に洗練される若者、そして、海外から見た憧れの象徴というように、ルート66は、その時代ごとに、地政学的な意味合いを変化させていった。
The Rolling Stones 「Route 66」
・「Route 66」の意義の変化 父の世代の象徴としてのロード
「Route 66」は長らく忘れ去られていたように思えた。そしてそれは、実際的には当然の成り行きでもあった。現実的に言えば、アイゼンハワー大統領の時代に、「ルート66」は幹線道路としての意義ーー人や物資の移動手段ーーを完全に失い、1985年以降は交通手段として一般的に廃止された。つまり、以降の時代は、飛行機での移動が当たり前となり、自動車での移動をする意味が乏しくなった。しかし、突如、最初のオリジナルソングのリリースから45年の歳月を経た1991年になって、この不朽の名曲が再び世の脚光を浴びることになった。
曲を蘇らせたのは、ナット・キング・コールの娘、ナタリー・コールだった。彼女は、ジャズアルバムでありながら、ポップチャートを席巻した代表的な傑作『Unforgettable』で父親キング・コールの原曲を見事に蘇らせた。しかも、亡き父の歌声とのオーバーダブによって。このカバーにおいて、ナタリー・コールは父の魂を畏れ多く歌い、父親の本当の姿を探ろうとした。
曲のカバーは、モダン・ジャズ風の洗練された編曲が施され、半世紀ほどを経て、新たなジャズ・スタンダードに生まれ変わることになった。ルート66は、1991年になると、次世代の「父の象徴」へと変化していったのである。以降、この曲はジャズスタンダードの定番になった。また、ナタリー・コールが終生にわたり、ロサンゼルスにこだわったのには理由がある。なぜなら彼女の父親はこう歌ったのだから。「西海岸に向かうと良いことがある」というように。
カバーソングというのは簡単なようでいて難しい。それでもそれぞれ違った楽しみ方があって本当に素晴らしい。音楽的なバリエーションの変化にとどまらず、どのようなテーマを盛り込むのか、そして、独自の価値観を付与することが大切なのかもしれない。
Natalie Cole 「Route 66」