土門拳  リアリズムの写真家  日本の報道写真の草分けによる本当を映すことの尊さ

 

 

1.土門拳のフォトグラフィーの精神 

 

土門拳は、近代日本の最高峰の写真家である。現在は、彼の功績に因み、優れた報道写真を表彰する毎日新聞社主催の「土門拳賞」が設けられている。彼は、昭和時代にかけて、様々な写真を撮影した。土門の写真は単なる写真とは言いがたく、それ自体が芸術作品のような意味を持つ。大別すると、彼は三度作風を変更した。最初期はジャーナリズム、中期は肖像写真、そして、最晩年は仏像や寺を始めとする日本の美というように、年代ごとに主題を変更した。最初期は、浅草の風物、占領後の東京の風景、南京陥落時の東京、海軍の訓練風景、とりわけ、映画文化が隆盛を極めた浅草六区の写真等が有名である。名文家としても知られ、朝日カメラ、日本経済新聞の名物コラム「私の履歴書」にエッセイを寄稿した。また、日本工房に入社後、早稲田大学と東京女子高等師範学校の卒業アルバムの写真を名取洋之助とともに担当した。

 

カメラマンという職業がプロとして認知されていなかった当時の日本において、職業的な地位を引き上げた功績はあまりにも大きい。土門は、当初、カメラマンになりたての頃、ライカとローライを使用し、写真を撮影していた。また、カメラの構え方にも独特な名称が付与され、土門の「上段構え」は有名である。さらに、強面の風貌から「鬼の土門」とも称されることがあった。晩年は、車椅子暮らしになり、撮影の機会は減少したが、変わらぬ撮影意欲と表現精神を貫いた。

 

当初、ジャーナリスティックな写真を撮影していた。しかし、最も重要視すべきは、市民生活の風景をリアリズムの観点から撮影していたということである。彼の写真のアンソロジーはそのまま近代日本の歩みを意味するといっても過言ではない。現代の芸術家の大半が空想主義に逃避し、現実を反映させることを忌避しているが、少なくとも土門がシャッターを切ったとき、そこにリアリズムが生み出され、普遍的な写真が生み出された。それは彼の考えの中に、”現実をそのまま映す”というものがあったからである。土門拳は生前、”非演出の尊さ”について力説している。脚色をほどこすことは、現実を歪める行為であり、報道写真家として、それは現実を写していないということになる。そのことを土門拳は弁別していた。彼は偽りを嫌い、本当を愛した。

 

 

近藤勇と鞍馬天狗(江東区で撮影 昭和30年)


しかし、動乱の時代が、彼の作風を変化させたのは言うまでもない。当初は東京の下町の風景、一般的な通俗ーーそれは人間の魅力や友情、地域の絆という考えにまで敷衍することもあったーーを写真として切り取りながら、 プロカメラマンとしての腕を磨いていった。彼は、報道写真が社会的な影響力を強める中、取材をしながら写真を映すというジャーナリスティックな性質を強めていった。土門拳は、1934年頃から、朝日、日日(大阪)、読売、報知等、有力紙の取材写真を担当した。当時について、土門は、『写真文化』の昭和18年の3月号で振り返った。「昭和9年(1934年)から10年にわたって、各新聞では、毎週一回、「写真ニュース」、「日曜セクション」といった新聞的なニュース以外の題材を求め、各社とも企画を練って競争していた。・・・中略・・・、また、ライカをはじめとする小型カメラの普及は撮影上の革新をもたらした。今や日本の報道写真はようやく前期的な形で展開しつつあった」

 

第二次世界大戦前の日中戦争を通じて、アジア全体に勢力を強めつつあった日本の姿を政治的な視点から捉え、南京陥落、出征の様子をレンズで捉えた。その中では「婦人画報」の特集のため、当時の外務大臣を務めていた宇垣一成大将を撮影する機会にも恵まれた。1938年頃、すでに宣伝や権威付けのための写真ーー世の中は明らかに宣伝的なプロパガンダを必要としていたーーを撮影した。しかし、この象徴的な写真が横浜からアメリカへと輸出され、「LIFE」の9月5日号に掲載された時、盟友であった名取洋之助と完全に決裂することになった。

 

だが、こういった権威的な写真だけが土門拳の地位を高めたとは言いがたい。彼のリアリズムの考えとは民衆のそのままの生活をネガに収めるというものだった。特に、土門は地方に取材にでかけ、筑豊炭田の農民の暮らしを撮影した。これは民族的な記録という重要な資料となったのみならず、農村部の生活の魅力と悲惨さという対極的な二つのリアリズムを克明に表現したのであった。

 

日本経済新聞の昭和52年(1977年)12月号に掲載された名物コラム「私の履歴書」において、土門拳は次のように寄稿している。「筑豊の撮影は、はじめからぼくが考えていたわけではない。パトリア書店の編集者が来て、炭鉱の休業つづきで、数千数万もの炭鉱に働く労働者みんなが失業してしまった。本人はもとより、その家族も含めて、大変な生活苦になやんでいる。その悲惨さをぼくに撮れというのだ。その悲惨な状況を撮ることによって、社会に訴え、炭鉱の失業労働者を、少しでも助けることができないものか、というのだった」「それを聞いて、ぼくは奮起した。旅費を預かると、すぐさま用意して九州に飛んだ。九州の炭田地帯は福岡県に多かった。そして失業者の苦しみは、福岡全県に広がっていた。ぼくは、県の中央を流れる遠賈川一体の田園地帯で、失業者の充満している町々を、次から次へと撮ってまわった」

 

表向きには表れ出ない市井の人々の暮らしをカメラにひとつずつ丹念に収めていく。こういった土門の写真に対する精神は、「筑豊のこどもたち」 と題された写真集に明瞭に滲み出ている。


戦前の時代の写真については、文楽といった個人的な好みを題材にした作品や、子供や農民の暮らしにフォーカスした写真を多く撮影した。確かに、都市部とは異なる農村部の厳しい暮らしも撮影したが、他方、土門の写真に一般的な庶民に対する慈しみの眼差しが注がれているように思えてならない。彼の写真は静かなものから動きのあるものに至るまで、端的に主題が絞られており、脚色のないあるがままの一般市民の生活を捉えようという精神が見事に宿っていた。

 

 

 

2. 戦後の動乱の時代  戦後とヒロシマ リアリズムの確立


原爆ドーム
 

昭和20年(1945年)、8月15日の終戦後、土門拳はフリーカメラマンになった。数々の組織や団体が解体される中、彼は独立カメラマンとしての道を歩む。土門は、当時、自宅を構えていた築地の明石町の自宅で進駐軍を相手にDPE(宅配の写真プリント)を開始した。一般的なカメラマンとは異なり、彼は銀座などの繁華街を中心に、市民生活が立ち直っていく様子をスナップに収めた。戦時中、土門拳は、プロパガンダのための宣伝写真を撮影していたこともあってか、その反省をもとに、より現実的な写真を撮影し、リアリズム主義を標榜しながら力強い活動を続けた。カメラマンとしての評価は高まり、1946年頃から、雑誌の仕事が増えてきた。そんな中、カメラ雑誌「フォトアート」の審査員としても活動し、誌上でアマチュア写真家にリアリズム写真を志すことをすすめた。カメラブームも相まって、全国で土門ブームが発生した。

 

彼は強固なジャーナリスト精神を発揮した。しかし、従前とは異なり、現実主義の写真を撮影しつづけた。彼の写真は、社会問題を提起する力があり、同時に、感覚に訴えかけるものがある。この時代には、ヒロシマの原爆ドーム、被爆した家族を撮影し、筑豊炭田の農村にでかけ、取材写真を撮影するなど、「社会派の土門」という印象を確立した。特に、被爆した家族の写真は、痛切な現実を生々しく捉え、写真そのものから戦争の悲惨さを伝えるものであった。


山形美術館学芸館長のおかべのぶゆき氏は次のように綴っている。「土門はこの頃、写真家は、対象の典型的なものを捉えようとする。対象の典型的なものは、対象の内部にひそむ。それはより正確に言えば、対象を対象たらしめている人間的な意味である。それを写真家は頭で考えるのではなしに、目で見なければならない」

 

特に、土門がこの時代にヒロシマの写真を多く撮影している。週刊誌のグラビア取材のため、広島を訪れた土門は、 その現実に驚愕し、1957年の7月から11月にかけて、何度もこの地を訪れ、7800コマ以上の撮影を行った。撮影の経緯、取材状況、社会の不条理に対する土門の痛切な思いが「広島ノート」として写真集に収められている。また、このことに関して、大江健三郎は「新潮」(1960年2月号)で「土門拳のヒロシマ」という文章を寄稿している。土門は最初に「週刊新潮」の取材でヒロシマを訪れたときのことをこのように振り返っている。

 

「ぼくは、広島に行って、驚いた。これはいけないと狼狽した。 ぼくなどは”ヒロシマ”を忘れていた。というよりはじめから何も知ってはいなかったのだ。今日もなお「ヒロシマ」は生きていた。それをぼくたちは知らなすぎた。いや、正確には、知らされなさすぎた」 


土門は現地の現状のリアルが報道されないことに対して、義憤のようなものを感じ、それをスナップに収めようとしたのだった。

 

原爆後遺症に苦しむ患者や家族の写真を収めた土門拳の写真集「ヒロシマ」は1958年に刊行された。土門のこの時代の写真は、単一のスクエアに映し出されたものではない。彼の写真は、記憶の代わりを果たし、この時代の痛切な現実を広く伝えようとしていたのである。また、彼が特にヒロシマに力を入れたのは、戦前の時代にプロパガンダ写真を撮影していたこともある。少なくとも、彼は自らの写真に関し、何らかの哀切な思いに駆られたのは想像に難くない。

 

 

 


3.肖像写真  文化人を記憶として残す

久我美子と小津安二郎

土門拳は、報道写真とならんで、文化人のポートレイトも多数撮影した。文学者、俳優、画家、芸術家、民俗学者に至るまで、信じがたいほど多くの文化人の撮影を行った。谷崎潤一郎、川端康成、志賀直哉、柳田國男といった文豪や研究者、梅原龍三郎、上村松園、岡本太郎、藤田嗣治といった著名な画家、九代目の市川海老蔵、中村梅玉、水谷八重子、森繁久彌といった歌舞伎役者や俳優、小津安二郎、三島由紀夫、久我美子といった映画監督やスターを撮影した。


土門は、日本の各業界の象徴的な人物を撮影し、一つの文化の潮流を捉えようとしたのであろうか。そして、推察するところでは、もしかする土門拳は有名人に憧れるような一面があったかもしれない。土門拳は平生から撮影したい人物の名を襖や墨紙に記しておき、それを室内に貼り付けていた。構想に十年を要したこれらのポートレイト集は、1953年に『風貌』として出版された。この写真集には、83点、総勢85名のそうそうたる文化人の写真が収録されている。

 

ところが、いかに土門拳とは言え、写真撮影に苦労したこともあった。 中でも、写真嫌いの梅原龍三郎の撮影には苦心し、撮影中に梅原の口がわなわなと震え始め、撮影が終わると、座っていた籐椅子を床に叩きつけた。これを期に、土門は、演出的な写真を撮影していたことを顧みるようになる。しかし、当時の肖像写真は相当な評価を獲得した。高村光太郎は土門の写真について次のように評した。「土門拳はぶきみである。土門拳のレンズは人物や物の底まであばく」  土門はその人物の典型的な表情が現れる瞬間を待って、シャッターを切った。しかし、『風貌』に見いだせる土門自身の文章には、一般的な考えよりも奥深い考えが宿っている。

 

「気力は眼に出る。生活は顔色に出る。教養は声に出る。しかし、悲しいかな、声は写真のモチーフにはならない。撮影で瞬間の表情にこだわるのは馬鹿げている。人間は誰でも笑ったり、泣いたりする」

 

「撮らせよう撮ろうという、いわば自由契約の関係で出来るのが肖像写真である。 だから撮られる人は始めから余所行きである。しかし、撮られている人に、撮られているということを全然意識させない肖像写真こそ、今後最大の課題である。つまり、絶対非演出のスナップ写真こそ、今後の課題である」

 

彼は撮影に苦労するほど、良い写真が撮れるとも述べている。それは人物のあるがままをリアルに写せる可能性が高いからなのだろうか。「玄関払いを食らわせるような手強い相手ほど、かえっていい写真が撮れる。玄関払いを食らったら、写真家は勇躍すべきである」 また、実際的な良質なポートレイトを撮影するための秘訣についても説明している。「ライティングは強調と省略の手段である。ロー・アングルはモチーフを抽象する。ハイ・アングルはモチーフを説明する。ピントは瞳にーーーー、絞りは絞れるだけ絞り、シャッターは早く切れるだけ切る」


 


4.古寺、仏像、そして風景  室生寺の主題から見るリアリティ

室生寺


やがて、土門拳の写真にも、再び変革期が訪れた。彼は探したのは、ーー真実の中の真実ーーリアリズムの精華ーーである。


彼は心を落ち着かせる写真を撮影するようになった。戦前から土門は、文楽などの日本の伝統芸能に興味をいだき、それを撮影することもあったが、いよいよ、彼の写真は、仏像、古刹、日本の原初的な風景を映し出すうち、「古寺巡礼」で集大成を迎えた。戦後の報道写真には、心を揺さぶられるものが多く、眺めているだけで涙が浮かんでくるものもある。しかし、写真の大家は、おだやかで瞑想的な境地を目指した。扇動的なものを避けて、写真自体を崇高な芸術的な領域に引き上げ、そして、実の写真に相対した時、無我の境地に至らせるものである。ここに、土門の''究極のリアリズム''が誕生したと言える。彼は、写真の奥深い魅力、現実をどのように反映させるのか、というこれまでにはなかった視点を創り出すことに成功したのである。

 

写真というのは、そのときにしか撮影出来ないスナップショットというのがある。それは偶然の要素が強く、天候や時期、その日の状況によって大きく左右される。プロのカメラマンは、もちろん、技術的な撮影技術と合わせて、偶然の要素をうまく味方につけ、素晴らしい写真を撮影するものである。そしてまた、何度も足を現地に運ばなくては、撮影出来ないショットが存在する。特に、土門がライフワークに据えたのは、奈良にある室生寺の撮影であった。1939年に室生寺を訪れたあと、彼は幾度となくこの古刹に足を運んだ。1959年、土門は、脳出血の後遺症によって、35ミリカメラを扱えなくなってから、集大成「古寺巡礼」のアイディアを練り始めた。彼は小学館から平成3年に刊行された「日本の仏像」の中で次のように回想している。

 

「仏像とぼくの初めての出会いは、奈良の室生寺である。前夜、室生寺の向かいに宿をとったぼくは2階の手すりに腰をおろして、まだ見ぬ仏像に思いを馳せながら、寺の堂塔を睨んでいた。翌早朝、清流にかかる太鼓橋を渡り、室生寺に入った。室生寺は杉の大木に囲まれた伽藍も神秘的だったが、堂内の仏像に対峙したとき、ぼくはハッと目を開かれた思いがしたのを、今もって憶えている。ぼくの、そして日本人の遠い先祖にめぐりあったような気がしたのである」


「それから30年、写真集『古寺巡礼』第四集にいたるまでに、いったい何体の仏像を撮影したことだろう。こわい顔をしたのもある。微笑んでいるのやら、おつにすました仏像もある。ぼくにとって、仏像の顔を思いかえすのは、恋人の顔を思い浮かべるようなものである。『土門さんはずいぶんたくさんの恋人がいるんですね』といわれても、ぼくは甘んじて受け入れる。ぼくの撮ったすべての仏像が仏像巡礼中に出会った素敵な恋人たちである。なんとも幸福なことではないか」


仏像や焼き物、そして日本の風景など、土門が後年になって撮影した写真の多くは、その端的な写真芸術としての素晴らしさだけが美点ではない。彼の積み上げてきた技術や感覚が、彼自身の慈しみの眼差しを通じて写真に収められていることが分かる。それがゆえ、土門の映し出す法隆寺、唐招提寺の本尊の姿はたとえ、おそろしげな形相をしていたとしても慈しみのある面持ちをしている。それは彼自身の視点が慈しみをもっていたからであろう。後年、土門拳は車椅子生活を余儀なくされたが、写真の撮影をつづけた。「仏像も建築も自分の移される視点を持っていると思うのである」と、土門は『古寺巡礼』で胸中を綴っている。

 

「ぼくは被写体に対峙し、ぼくの視点から相手をにらみつける。そして、ときには、語りかけながら被写体がぼくをにらみつけてくる視点を探る。そして、火花が散るというか、二つの視点がぶつかったときが、シャッターチャンスである。ーー中略ーー、強がりを言って居直っているが、たしかに車椅子からみるのは不自由なことである。足で歩き、瞬時の隙ものがさずに捉えていく。これがまっとうな撮影であるにはちがいない。しかしながら、半身不自由の身になったいま、もうそれはかなわないことである。ぼくは、自身の視点を信じ、被写体の視線をさぐって車椅子を前に押させる。さらに視点が低くなり、左足が体を支えきれなくなったとしても、ぼくの眼が相手の視点を捉えられる限り、ぼくは写真を撮るのである」


土門拳は、かねてから雪の室生寺を撮影したかったが、あいにく天候に恵まれなかった。それが2冊目の室生寺の写真集をカラーで出そうとしたとき、ついにその悲願が実現した。土門は病院で一ヶ月待機をしてから、雪の室生寺を撮影した。写真家にとっての冥利とは、すべて美しいものを撮り終えたという思いにあるのではないか。彼は、雪の室生寺を石段の下から撮影した後、二度と室生寺を訪れなかった。それは、これ以上美しい室生寺を撮影出来ないと考えたからなのか。実際的に後年の平等院鳳凰堂や法隆寺の写真と並び、土門拳の最高傑作とも言えるだろう。晩年の土門の写真は間違いなく、写真という枠組みを超越し、絵画の世界に近づいていた。